第九十五話 笑顔が迫る
Iさんという女性が、中国地方の某山に登った時のことだ。
時間配分を誤り、下山する頃には、すでに陽がだいぶ落ちかけていた。
決して緩やかな山ではないため、もし完全に夜を迎えてしまえば、事故や遭難の危険が一気に増す。一応ヘッドライトを点けてはいるが、到底万全とは言えない状況だ。
半ば焦りながらも、Iさんは慎重に足を進めた。
……やがて、頭上を枝が覆う、暗い森道に差しかかった時だ。
不意に、ガサッ、と草を踏む音が響いた。
一度だけではなく、ガサッ、ガサッ、と何度も続いた。
始めは自分の足音だと思った。ガサッ、ガサッ、と繰り返される草の音が、Iさんの歩調と、ピッタリ合っていたからだ。
……しかしここで、「あれ?」と気づいた。
思えば、この森道は登山用に整備されていて、足元はほぼ土で固められている。せいぜい細かい雑草が、ところどころに申し訳程度に生えるばかりだ。
つまり――この音は、自分の足音ではない。
思わずドキリとして、Iさんは歩きながら、横目で辺りを探った。
道の両側は樹に囲まれ、陽が落ちつつあるこの時間は、完全に視線が遮られてしまう。しかし草深い場所といえば、この樹々の奥しかない。
そこは道の存在しない、完全に森の領域だ。
なのに――何かがいる。
ガサッ、ガサッ、と、Iさんの歩調に合わせて、ついてくる。
……動物であれば、まだいい。
だが音を聞く限り、それは二本の足で歩いているように思えてならない。
不安に駆られ、Iさんは足を止め、振り返った。
同時にヘッドライトの光が、樹々を
――暗い。
何も分からない。
ただ、音はやまない。
ガサッ、ガサッ、と――Iさんが足を止めたにもかかわらず、次第に森の奥から、こちらに近づいてくる。
姿は見えない。
……いや、樹々の狭間に、黒い何かが
それに何より、息遣いのようなものが、はっきりと感じられる。
――逃げなくちゃ。
そう思い、再び前に進もうとしたところで、足がもつれた。
「あっ!」
叫ぶなりIさんは、バランスを崩して、その場に尻餅をついていた。
その時だ。ザワザワザワッ、と頭上で枝が鳴った。
――足音だけじゃない。
ハッとして、Iさんが振り仰ぐ。
頭上に向けられたヘッドライトの光に、何かが浮かび上がった。
それは――顔だった。
その顔が、遥か上からIさんを見下ろしながら、歯を剥いてにかぁっと笑っている。
「あっ!」
Iさんが悲鳴を上げるのと同時に、ガサッ、と足音がして、頭上にある顔の位置が、ずずっ、と少し下がった。
真下にいるIさんまでの距離が、わずかに縮まるのが分かった。
さらに、ガサッ、ガサッ、と足音が繰り返される。
それに合わせて男の顔も、ずずっ、ずずっ、と次第に高度を下げる。
じわじわと、笑いながら、迫ってくる――。
その迫る笑顔を、Iさんは尻餅をついたまま、ただ呆然と見上げ続けた。
――これは、何なのだろう。
――人なのか。
――人ならなぜ、あんな高いところに顔があるのか。
――どうしてあんなに、嬉しそうに笑っているのか。
理解しようにも、できるはずがない。
ただ――逃げなければ、まずい。
Iさんは、ハッと我に返って立ち上がると、目に涙を浮かべ、懸命に山道を走り始めた。
ガサッ、ガサッ、という足音は、それでもIさんが森を抜けるまでは、ずっと続いていた。
その後Iさんは、どうにか無事に、麓まで辿り着くことができた。
幸い怪我などもなく、大事には至らなかったが、これほど山を「怖い」と感じたのは初めてだったそうだ。
しかし、Iさんが森の中で遭ったものは、何だったのか――。
地元の人に尋ねたが、確かな答えは得られなかった。
ただ、Iさんから話を聞いたある老人は、真顔でこう呟いたという。
「あれは、笑っている時が、一番危ない……」
本当に助かってよかった――と、Iさんは心の底から思ったそうだ。
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