第五話 一度きりの話

 登山を趣味にしている、都内在住のUさんの話である。

 夏に、I県の某山に登った時のことだ。

 上級者向けのハードな山ではあったが、頂上に着いた時の達成感は一入ひとしおである。

 いただきを示す標識の横に立ち、絶景をカメラに収めてから一息ついていると、ふと背後に気配を感じた。

 振り返ると、大きな岩の陰に、老婆が佇んでいる。

 顔中にしわが刻まれた白髪の老婆で、ボロボロに着古した登山着姿で岩にもたれかかり、ニコニコ笑いながら、こちらを眺めている。

 同じ登山者か――。

 そう思ったものの、それにしては奇妙である。

 この山は難所が多く、これほどの高齢者が山頂に至るのは、相当ハードルが高いはずだ。この老婆は、誰の助けもなしに、一人で登ってきたのだろうか。

 不思議に思いながらも、Uさんは軽く会釈をした。

 老婆はニコニコと笑顔を浮かべたまま、無言である。

 特に会話が始まることもなさそうだった。

 やがて標識のそばに、他の登山者の一団が近づいてくるのが見えた。Uさんはその場を離れ、山を下りることにした。

 老婆はニコニコと笑いながら、そんなUさんを無言で眺め続けていた。


 それから数日が経ってのことだ。

 すでに東京の自宅に戻っていたUさんが、夜更かしをしていると、不意に玄関のチャイムが鳴った。

 夜中の二時を過ぎた時刻である。

 何事かと思い、ドアスコープから外を覗いてみると、あの時の老婆が立っていた。

 ボロボロの登山着姿で、やはりニコニコと笑っている。

 ――なぜここに来たのか。

 ――どうやってここが分かったのか。

 ――そもそも、何者なのか。

 わけが分からなさすぎて不安を覚え、Uさんは無視を決め込んだ。

 チャイムが鳴ったのは最初の一回だけだったが、老婆はそれから二時間が経っても、まだドアの外にいたそうだ。

 しかし明け方にはようやくいなくなり、その後、再び訪ねてきたことはないという。


 一度きりの、奇妙な話――である。

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