第百三話 見知った顔

 関西に住むNさんの体験した話だ。

 同居していた父親が亡くなって、一箇月が過ぎた頃だ。

 そろそろ故人の部屋を整理しようと思い立ち、奥さんと二人で足を踏み入れた。

 すでに遺産と呼べるほど大したものは残っておらず、半ばゴミ捨てに近い作業である。もっとも、父が使っていた黒い小さな箪笥たんすだけは、Nさんも気に入っていたので、これは夫婦が寝室にしている座敷に移した。

 ところが――その日から、奇妙なことが起き始めた。

 座敷が明るいうちは、何事もない。

 しかし夜更けになって、そろそろ寝ようと照明を消すと、コトッ、と妙な音がする。

 ……どうやら座敷の中で、何かが鳴ったらしい。

 何だろうと思って目を凝らしても、暗いから、何も見えない。

 耳を澄ませても、それ以上は何も聞こえない。

 ならばと照明を点けてみても、どこにも異常はない。

 ということは、気のせいだったのか――と思い、再び照明を消すと、またコトッ、と鳴る。

 そんなことが、四日間続いた。

「……あの箪笥やろな」

 さすがに音の出所にも、見当がつき始めた。

 父の形見の箪笥である。今は座敷の片隅に置いてあるが、それが部屋を暗くすると、コトッ、と必ず鳴るのだ。

 何やら気味の悪い話だが――それでも音だけで、実害があるわけではない。

 Nさんはそう思って、あくまで座敷に置き続けることにした。


 しかし、さらに一週間もすると、今度は音だけでは済まなくなった。

 ……誰かが箪笥の前に、立つのだ。

 それは、やはり部屋を暗くした時だけだった。

 初めは、コトッ、といつもの音が鳴る。だが暗闇の中で目を凝らしていると、次第に視界が馴染なじんで、座敷の様子が見えてくる。

 そこで――はっきりと分かるのだという。

 ……箪笥の前に、得体の知れない黒い人影が、じっと佇んでいることに。

 影は微動だにしない。Nさんが声を上げても、身じろぎ一つ見せない。

 しかし照明を点けると、パッと消えてしまう。

 おかげで、相手が何者なのかは、さっぱり分からない。

 ただいずれにしても、箪笥は父の部屋に戻すか、捨てるかしてしまった方がいい――。Nさんはそう考えたが、ここで奥さんが、ふとこんなことを言った。

「あの影、顔だけ照らされたら、どないなるんやろ」

 顔だけが消えるのか、それとも全身が消えるのか――。そんなささやかな疑問が湧いたらしい。

 どうでもいいことではある。しかしNさんは、せっかくだからと、そのアイデアを試してみることにした。


 その夜、Nさんは手に懐中電灯を構えて、奥さんに座敷の照明を落とさせた。

 ――コトッ。

 いつものように、箪笥の方で音が鳴る。

 今だ、とばかりに、Nさんが懐中電灯のスイッチを入れた。

 絞られた光が、パッと箪笥の前を――ちょうど人影の頭がある辺りを、丸く照らした。

 顔が――見えた。

 男の顔だった。

 しかし、それもほんの一瞬のことだった。Nさん達が「あっ!」と声を上げるなり、人影は顔もろとも、パッと姿を消した。

 後には、光の輪に照らされた箪笥だけが、座敷の片隅に黒く浮かんでいた。


 さて――ここから先の展開は、ずいぶんと意外なものになる。

 Nさんはがして、急いで座敷の明かりを点けると、奥さんと二人で、懸命に箪笥を調べ始めた。

 その結果、これがいわゆる「からくり箪笥」で、二人の知らない引き出しが一つ隠されていたことが分かった。

 ……中には、一万円札が百枚ほど入っていた。

 どうやら父親が貯め込んでいたようだ。文字どおり、箪笥預金である。

 そんなわけでNさん夫婦は、思わぬところから大金を掘り起こしたわけだ。しかもその後は、怪しいことはまったく起こらなくなったという。

 それにしても――。

「何で箪笥を調べようと思ったんです?」

 この話をしてくれたNさんに、僕はそう尋ねた。

 人影の顔を見て、慌てて箪笥を調べる――という流れが、いささか唐突に思えたからだ。

 Nさんはそれを聞くと、ニヤリと笑って、こう答えた。

「顔やな。その人影の顔を見て、『ああっ、かねや!』と思うたんや」

「顔……。その影の正体っていうのは、亡くなったお父さんだったんですよね?」

「ちゃうちゃう、うちの親父の顔ぉ見たかて、誰も金があると思わへんわ」

 それはそれで、身も蓋もない話だが……。

 でも、だったら誰がいたと言うのだろう。

 僕がそれを問うと、Nさんはきっぱりと、答えた。

きちさんや」

「……誰です?」

「諭吉さん言うたら一人しかいてはらへんわ。が、おさつとおんなじ顔で立っとってん」

 んなアホな――と僕が思わず関西弁でつっこんだのは、言うまでもない。

 しかしNさんいわく、本当の話……だそうである。

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