第九十八話 砂
女子大生のNさんは、以前交際していた元の彼氏に悩まされていた。
もともとは飲み会の席で、同じS県の出身ということで仲良くなったのだが、ある程度一緒に過ごすと、お互いの感情があまり噛み合わないと分かった。それで別れたわけだ。
しかし彼の方は未練があると見えて、別れた後も、ちょくちょくNさんに接触してくる。
べつに、深刻なストーキング被害があるわけではない。ただ、たまに送られてくるメールの端々に、「よりを戻せないか」というニュアンスの表現が滲み出ていたり、時々キャンパスで出くわすと、下心剥き出しで話しかけてきたり――と、とにかく疲れる。
そんなことがだいぶ続いたので、友達に相談してみた。
「新しい彼氏が出来たって言えば、諦めるんじゃない?」
べつに、本当に新しい彼氏を作るわけではないが、嘘も方便というやつだ。
そうアドバイスをもらったので、試しにそのとおりにしてみた。
効果は、意外にもてきめんだった。元彼氏は露骨に気落ちする素振りを見せたものの、それ以来ぱったりと、Nさんに接触してこなくなった。
こんなことなら、もっと早くに試してみるべきだった――と思いながら、ようやくNさんはホッとしたのだった。
それから数ヶ月ほど経ってのことだ。
Nさんは、大学の近くの学生寮で暮らしている。相部屋ではなく個室なのだが、その部屋で、妙なことが起こり始めた。
ある日の夕方。Nさんが大学から帰ってきて部屋に入ると、足の裏がやけにジャリジャリする。
よく見ると、フローリングの床の上に、何やら白い大粒の砂のようなものが散らばっている。
窓の隙間から風で舞い込んできたのだろうか。しかし、今までこんなことはなかったのに――。
不快に思いながら掃除機をかけると、ガリガリガリガリ! とすごい勢いで砂が吸い込まれていく。
いったいどれだけ散らばってるんだ、という話だ。Nさんは顔をしかめながら、部屋の隅々まで掃除機をかけ、ようやく息をついた。
……ところが、これで終わりではなかった。
翌日の夕方。Nさんが部屋に帰ってくると、やはり床の上に砂が散らばっている。
「またなの?」
うんざりしながら掃除機をかけ、再び床をきれいにした。
しかし、二度あることは何とやらだ。三日目、もしやまた同じことが起きるのでは――と戦々恐々としていたら、案の定、この日も床が砂だらけになった。
いっそ窓に目張りしてしまおうかと、本気で思ったほどだ。しかし、試しに他の部屋の子に聞いてみると、「うちは砂なんか入ってこないけど?」と
つまり――被害があるのは、Nさんの部屋だけなのだ。
「もしかして、誰かに嫌がらせされてるとか……?」
相談に乗ってくれた子が、心配そうに言った。確かに、誰かが故意にやっている可能性は、ゼロではない。
しかし、仮に犯人がいるとして――。その犯人はどうやって、Nさんが不在の昼間に、部屋に入って砂をばら撒いているのだろう。これでも戸締まりは、きちんとしているつもりだ。
まあ、ドアの下などに、多少の隙間はあるが……。どのみち、誰かが侵入するのは不可能な話だった。
結局原因が分からないまま、四日目の夕方――。
この日も、砂はばら撒かれた。
Nさんは溜め息をつきながら、部屋の真ん中に掃除機を引っ張ってきた。そして、いつものようにスイッチを入れようとして――。
そこでふと、首を傾げた。
掃除機の中身が、満タンにならないのだ。
Nさんが使っている掃除機は、中の紙パックが満タンになると、ランプが点灯して知らせてくれるようになっている。なのに、ここ数日大量の砂を吸い取っているにもかかわらず、そのランプが一向に点かない。
……嫌な予感がした。
Nさんは掃除機を開け、中の紙パックを検めてみた。
パックは、スカスカだった。
あれだけガリガリと音を立てながら吸い取った、昨日までの三日分の砂が、すっかり消え失せている。
「どういうこと……?」
思わず声に出して呟いたが、答えは明らかだった。
砂は、毎日新しいものがばら撒かれていたのではない。
……掃除機で吸い取ったものが、繰り返しばら撒かれていたのだ。
Nさんはすぐに、床の砂を掃除機で吸い直すと、中の紙パックを取り出してビニール袋に入れ、共同のゴミ置き場に捨てた。
こうしてよそのゴミに紛れさせてしまえば、誰かが拾ってくることもないだろう――と、そう思ったのだ。
しかし翌日、五日目の夕方――。
……砂は、また戻ってきた。
Nさんの帰りを待ちわびていたかのように、やはり部屋の中にばら撒かれていた。
Nさんは金切り声を上げながら、床という床に掃除機をかけ、その掃除機を大きなゴミ袋に丸ごと突っ込んで、口をギュッと縛った。
いっそこのまま、掃除機ごと捨ててしまいたかった。しかし、さすがにそういうわけにもいかないので、泣く泣く部屋の片隅に放置しておくだけにした。
その翌日のことだ。
土曜日である。講義は午前中だけだったが、Nさんは図書館を利用するなどして、適当にキャンパス内で時間を潰していた。
もちろん、寮に――あの部屋に戻るのに、ためらいがあったからだ。
やがて昼になったので、学食へ向かった。
空いた席に腰を下ろし、コーヒーだけ飲んでいると、そこへ一人の男子が、Nさんを見つけて声をかけてきた。
以前飲み会で会ったことがある。例の元彼氏とも、顔見知りだった人だ。
「ここいい?」
そう言ってNさんの隣に座った男子は、簡単な世間話の素振りを見せながら、その実、何か切り出したそうにしている。
「どうしたの?」
Nさんが尋ねると、男子は「実は――」と声を潜めて言った。
「××のことなんだけど、聞いてる?」
××は、元の彼氏の名である。
「特に何も聞いてないけど、何かあったの?」
「……死んだんだよ、あいつ」
男子は、静かに答えた。
Nさんは「え……」と言ったきり、絶句した。
男子の話によれば、交通事故だったらしい。二箇月ほど前に車に
「全然知らなかった……。お墓参りとか、行った方がいいかな」
Nさんが呆然としながら言うと、男子は思い出したように、こう付け加えた。
「ああ、あいつ墓ないから」
「え?」
「散骨したんだって。海に」
その後部屋に飛び戻ったNさんは、すぐに掃除機を、その方面では有名な寺まで持っていって、供養してもらった。
しかしその甲斐も虚しく、白い大粒の「砂」は、Nさんに本当に新しい彼氏が出来るまで、何度でも戻ってきたという。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます