第二十二話 怪音
かつて、僕の本をドラマCD化するということで、監修のため、収録スタジオにお邪魔したことがある。
実はその時、少し奇妙な出来事に遭遇した。
前半の本番を終え、休憩時間を挟み、後半の収録テストを始めようとした時だ。
声優さん達が集まっているブースの、その壁の外で、不意にゴトッ……と、何かがぶつかるような音が鳴った。
……起きたのはそれだけである。しかし、途端に全員がざわついた。
なぜなら、そこがブース内――つまり、完全に防音設備で守られた空間だったからだ。
ブースの中というのは、一度扉を閉めてしまえば、隣接するコントロールルームからの声を除いて、外部の音が入ってくることはない。壁越しに物音が聞こえるなど、普通はあり得ないのだ。
それに、音が鳴った壁の向こうには、隣室や通路などは一切なかった。
ならば、壁の向こうが建物の外で、外壁に何かがぶつかったのでは……と考えるのはどうか。しかし――実はこれもあり得ない。
そもそも、このスタジオは地下にあるのだ。外壁に何かがぶつかること自体、起こるはずがないのである。
……そんなわけだから、当然ブースにいた全員が、瞬時に真顔になった。
主人公役のS野さんが、「ここ、よく出るらしいですよ……」と言って、周りにいた女性陣がますますざわついた。
そこで、様子を見ていた監督がすぐにみんなを宥めて、その場を収めたが……。まあ、それは単に時間が押していたからだろう。
さて、前振りが長くなったが――。今回は怪音にまつわる話である。
S県に在住のYさん夫婦は、新居に引っ越して以来、よそから聞こえてくる生活音に悩まされていた。
もともと安めの中古物件で、不動産屋からも、「音が気になるかもしれません」と言われていた。だからあらかじめ覚悟はしていたのだが、いざ住んでみると、その「音」というのが、ずいぶんと不可解な代物だった。
例えば、いつも夕方の五時になると、目覚まし時計のアラームが響いてくる。
……朝ではない。夕方だ。
それを境に、五時半、六時、六時半、七時……と、だいたい三十分置きぐらいに、何度もアラームが鳴る。
もっともアラームの音色はバラバラだから、それぞれ違う目覚まし時計が鳴っているのだろう。さらに、アラームが鳴り始めるのと前後して、パタパタと歩く足音や、洗面所で水を流す音が、繰り返し聞こえてくる。
どうやら複数の人間、あるいは複数の世帯の生活音が、集中しているらしい。
しばらくすると、バタンバタンと、ドアの開閉音が何度も鳴る。その後は、洗濯機や掃除機の音が延々と続く。
この時点で、だいたい夜の十時前後だ。
家事の音が終わると、今度はテレビの音声が聞こえてくる。あるいは走り回ったり、ピアノを演奏したり――と、この辺からいろいろな種類の音が入り乱れることになる。
休日には、金槌やドリルの音が延々と響いてくることもある。日曜大工だろうか。
……改めて言うが、昼間ではなく夜に、だ。迷惑なことこの上ない。
このような生活音が夜中の間もずっと続き、明け方になるとパタリとやむ。
幸い、音の一つ一つはそれほど大きくない。だから寝不足になるほどではないのだが、さすがに毎日繰り返されると、ストレスも溜まろうというものだ。
おかげでYさん夫婦は、すっかりノイローゼ気味になってしまった。
いったいどれだけ、周りに夜型の人間ばかり住んでいるのか知らないが、さすがに限度がある。
「これじゃ、まともに生活できないじゃん。文句言いにいこうよ」
奥さんにそうせっつかれて、Yさんもその気になった。
……ただ、この時Yさんは、まだ音がどこから聞こえてくるのか、意識したことがなかった。
そして次の土曜日――。夕方、いつものようにアラームが聞こえたタイミングで、Yさんは奥さんと一緒に、家の外に出た。
……しかし、何も聞こえない。
家の中まで響いてくるはずの近隣の生活音が、玄関から一歩出た途端、まったく消えてなくなったのだ。
Yさんは奥さんと顔を見合わせ、一度家の中に戻った。すると、やはり音が聞こえる。
耳を澄ませてみると、どうやら上から響いてくるらしいと分かった。
「どういうこと……?」
奥さんが気味悪げに尋ねた。
……Yさんの家は、一戸建てだった。
それからYさんは、音の出所を探って、家の中をうろうろする羽目になった。
この新居は二階建てだが、一連の生活音は、当然二階から出ているわけではない。もしそうなら、二階に別の誰かが住んでいることになってしまう。
「屋根の上から……かな」
二階で耳を澄ませながら、Yさんはそう考えた。音が、二階のさらに「上」から聞こえているからだ。
しかし、試しに外に出て見上げてみても、特に誰かがいるわけではない。
そうなると――他に可能性がある場所は、一つしかない。
……屋根裏だ。
Yさんは朝を待って、屋根裏を調べてみることにした。
屋根裏には、押し入れの中から上がることができた。
懐中電灯を手に、暗い空間に体を差し入れると、すぐに
朝だからか、音はしない。まったくの静寂が、屋根裏の闇の中に横たわっている。
Yさんは恐る恐る、懐中電灯の光を巡らせてみた。
すると――ふと、奇妙なものが目に留まった。
屋根裏の一角に、それはあった。
「……何だこれ?」
思わず素っ頓狂な声が、Yさんの口から飛び出した。
そこにあったのは、高さ十センチほどの、木造家屋……のミニチュアだった。
それも、一つだけではない。それぞれ形の違う小さな家が、全部で八つ。屋根裏の一角に、まるで町でも作るかのように、ひっそりと並べてある。
ドールハウスというやつだろうか。しかし、どうしてこんなものが屋根裏にあるのだろう。
前に住んでいた人の置き忘れか。それとも、もっと前からあったものか。
いずれにしても――これが音の原因としか思えない。
Yさんは一度屋根裏から下りると、奥さんに事情を説明して、問題の小さな家をどうするか相談してみた。
「捨てちゃえば?」
当然、他に答えがあるはずもない。Yさんは奥さんと協力して、八つの小さな家をすべて運び出し、金槌で叩き壊してゴミ袋に詰めた。
こうして、Yさん夫婦が音に悩まされることは、ようやくなくなった――。
……と、この時はまだ、そう思っていた。
ミニチュアを壊した、その日の夕方のことだ。
Yさん夫婦がすっかり油断していると、五時になったタイミングで、突然目覚まし時計のアラームが聞こえてきた。
屋根裏からではない。屋根裏にしては、いつもより音が大きい。
「……寝室か?」
Yさんが呟いた。確かにアラームは、二階の寝室で鳴っているようだ。
二人は恐る恐る、寝室を覗いてみた。
しかし――誰もいない。鳴っている時計もない。
にもかかわらず、音だけがはっきりと聞こえている。
しかも距離が近いせいか、いつもよりけたたましい。
Yさんが顔をしかめていると、不意にそのアラームが、ピタッと止まった。
続いてベッドの方から、カサカサと衣擦れの音がして、何かがペタペタとYさん夫婦のもとへ歩いてきた。
……いや、実際に歩いてきたわけではない。あくまで「音」だけだ。
「うわぁ!」
つい悲鳴を上げて仰け反ったが、足音はYさん夫婦を無視して、廊下へ出ていった。
そして洗面所へと向かい、バシャバシャと顔を洗う音が鳴り響いた。
……だがもちろん、これは始まりに過ぎなかった。
それから三十分ほどすると、また寝室でアラームが鳴り、すぐに別の誰かが起きてくる。また三十分後には、次の誰かが。そのまた三十分後には、さらに次の誰かが――。
こうして家中が足音だらけになると、今度はドアがバタンと鳴ったり、掃除機の音が行き来したり、テレビのない部屋から延々とテレビの音声が流れたり、ベランダで布団が叩かれたり、台所で炒め物が始まったり……と、とにかくやかましい。
もはやすべての生活音が、家のそこかしこで鳴り響いていた。これでは気味が悪い以前に、騒音に等しい。
「なあ、もしかしてあの小さい家って、これを防ぐために、わざと置いてあったんじゃ……」
Yさんがハッと気づいて言うと、奥さんも表情を強張らせた。
とは言え――すでに後の祭りだった。
それからYさん夫婦は、別の家に引っ越すかどうかで、大いに揉めた。
しかし結局は金銭的理由から、「新しいミニチュアを買い直した方が早い」ということで、話がまとまった。
最近はホビーショップなどで、完成品が簡単に手に入る。さっそく小さな家を八つ、屋根裏に置き直したところ、ようやく音は家の中から「上」へと帰っていった。
こうしてYさん夫婦の家は、多少ましな状態に戻った……となればよかったのだが。
しかしあいにく、まだまだこれだけでは終わらなかった。
騒動から半年後――。Yさん夫婦がようやく音に慣れた頃、屋根裏とは別にまた家の中で、新たな生活音が聞こえてくるようになったという。
慌てて、新しいミニチュアを買って屋根裏に並べると、音もそちらに移った。
だから今、Yさんの家の屋根裏には、九つの小さな家が並んでいる。
いずれもっと増えるかもしれない――。
Yさん夫婦は、とにかくそれが気がかりなのだそうだ。
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