第四十九話 ぐるぐる巻き

 今はOLをしているKさんが、まだ小学生だった頃の話だ。

 当時のKさんは、いわゆる「鍵っ子」だった。

 母親と二人暮らしで、その母親が昼間は仕事で家にいないため、学校から帰ってきても一人きりである。

 もっとも、それで寂しいと感じたことはなかったそうだ。外で友達と遊ぶこともあったが、大抵はテレビを見たりゲームで遊んだりと、夜母親が帰ってくるまで、一人で自由気ままに過ごしていたという。

 住んでいる場所は都内の団地だった。時々同じ階に住む世話焼きのおばさんが、作りすぎた煮物などを持ってきてくれた。今にして思えば、子供が一人だけでいるのを心配して、様子を見にきてくれていたのだろう。

 そんなKさんだが――三年生のある日を境に、家に一人でいることができなくなったという。


 放課後、いつものように学校から団地に戻ってきたKさんが、一階でエレベーターに乗ろうとした時のことだ。

 ふと後ろから、カツカツと靴の鳴る音が聞こえてきた。

 誰かが一緒に乗ろうとしているのだと思い、中で「開」ボタンを押して待っていると、案の定、Kさんの後に続いて、すぅっと入ってきた者がいた。

 その姿を見て――Kさんは思わず強張った。

 相手は、黒い背広の男だった。

 ずいぶんと背が高い。手には何も持っていない。

 しかし、問題はそこではない。顔だ。

 顔が、包帯でぐるぐる巻きになっている。

 いや――顔と言うよりは、首から上すべて、と言った方がいいかもしれない。

 髪の毛から顎の先に至るまで、すべてが真っ白な包帯で、ぐるぐると隙間なく覆い尽くされているのだ。

 ……思わず逃げ出したくなった。

 しかし、すでに自分が降りる七階のボタンを押してしまっている。

 それに――もしここで自分が逃げ出したら、この男の人はどう思うだろうか。

 きっとこの人は、顔に大きな怪我をしているに違いない。それを怖がって逃げたりしたら、この人を傷つけてしまうのではないか……。

 Kさんがそう思った時だ。男の手がすぅっと伸びてきて、「閉」ボタンを押した。

 ……逃げられなくなった。

 閉まる扉を前にして、Kさんは強張ったまま、立ち尽くした。

 男の指が、続いて八階を押した。Kさんより一つ上の階だ。

 エレベーターが動き出した。

 男は、エレベーターの奥に立った。

 Kさんはそっと、扉の真正面に移動した。着いたらすぐに降りられるようにと、そのまま扉を向いて立つ。

 包帯の男は、すぐ真後ろにいる。

 エレベーターの窓に、じっと佇む姿が映って見える。

 ……だが、ここでKさんは、妙なことに気づいた。

 男の包帯の量が、いくら何でも多すぎるのだ。

 隙間がまったくない。目も、鼻も、口も、耳も、輪郭も――すべてが包帯の奥底に隠れてしまっている。

 まるで、包帯で出来た真っ白なボールが、人間の胴体の上に載っているかのようだ。

 この人は、どうやって周りを見ているのだろう。

 この人は、どうやって音を聞いているのだろう。

 この人は、どうやって息をしているのだろう。

 この人は――

 不意に恐怖が込み上げてきた。その時だ。

 扉の窓に映る男が、ゆっくりと動き出した。

 両腕を持ち上げ、自分の頭に手をかける。

 包帯をつかむ。

 それを――ぐるぐると、解き始めた。

 真っ白な包帯が、男の頭から少しずつ剥がれていく。

 Kさんは、とっさに視線を逸らせた。

 どうして男が、こんなエレベーターの中で、いきなり包帯を解き始めたのか。

 Kさんに見せるため――としか思えない。

 ……見たくない。

 包帯の下にどんな顔が隠れているのかは、分からない。しかしどうあれ、まともな状況ではない。

 モソモソと包帯の擦れる音が、すぐ背後で鳴っている。思わず全身があわ立つ。

 その時だ。ようやくエレベーターが七階に着いた。

 扉が開いた。Kさんは走って飛び出した。

 すぐ後ろから、カツカツと、男がついて降りてくる音がした。

 ――何で?

 ――八階に行くんじゃないの?

 叫びたくなる声を押さえながら、Kさんは自分の部屋の前まで走った。

 カツカツと、靴の音が迫ってくる。

 震える指で鍵を取り出した。だが鍵穴に挿し込もうとした途端、手が滑り、足元に鍵を落とした。

 身を屈めて拾うのと、すぐ間近で男が足を止めるのと、同時だった。

 Kさんは――ギュッと目を瞑った。

 目を瞑ったまま、素早く鍵を開けた。

 毎日繰り返してきたからこそ、できた動きだった。

 ドアを開け、隙間から一気に部屋に滑り込んだ。

 後ろ手にドアを閉めた瞬間、ドンッ、と何かがドア越しにぶつかってきた。

 急いで鍵をかけ、靴を放り出すように脱ぎ捨てて、部屋の奥に逃げた。

 ドンッ、とドアがもう一度鳴った。それから二度、インターホンが押された。

 すべて無視した。

 全身の震えが収まらないまま、Kさんは男が立ち去るのを待ち続けた。

 ……やがて二十分が過ぎた。

 玄関からの物音は、いつしか消えていた。

 ランドセルを背負ったままだったのに気づいて、Kさんはそれを下ろした。それから冷蔵庫の牛乳を一杯飲んで、ようやく震えが治まった。

 ……さっきのは、何だったんだろう。

 思い出すだけで涙が滲み出てくる。頭の中がグチャグチャになりそうだ。

 せめて、気を紛らわしたい――。

 Kさんはそう思って、テレビのリモコンに手を伸ばした。

 そこで――不意にインターホンが鳴った。

 ひぃっ、と思わず小さな悲鳴が漏れた。

 しかし、続いて玄関から聞こえてきたのは、Kさんがよく慣れ親しんだ声だった。

「Kちゃんいる? ××だけど」

 それは同じ階に住んでいる、例の世話焼きのおばさんだった。

「カレー作ったんだけど、ちょっと多く作りすぎちゃったの。よかったらどうぞ」

 いつもの調子で、おばさんはドア越しに語りかけてきた。

 普段は「おせっかいな人だな」と思うこともあったが、今のKさんにとっては、まさに天の助けだった。

「今開けます」

 そう返事をして、Kさんは小走りで玄関に向かい、ドアを押し開けた。

 そこには――首から上が包帯でぐるぐる巻きになったおばさんが、立っていた。

 あっ、と叫ぶ間もなかった。

 おばさんは……いや、は、Kさんの見ている前で、凄まじい勢いで包帯を解き始めた。

 Kさんはすぐさま目を伏せ、ドアを閉めた。

「Kちゃん、閉めないでよ。見てよ。ねえ、顔見てよ」

 おばさんに似た声が騒ぎ立てる。

 Kさんはもう一度鍵をかけ、部屋の奥へ逃げた。

 壁にもたれ、膝を抱えて座り込む。できるだけ身を縮こまらせ、悪意のある声から、少しでも遠ざかろうとする。

 やがておばさんの声が聞こえなくなっても、Kさんは座ったまま、動かなかった。


 それから――どれほど時が経っただろうか。

 ふと、ドアを叩く音で目を覚ました。

 いつの間にか眠っていたらしい。窓の外は、すっかり暗くなっている。

「K、開けて?」

 母親の声がする。玄関からだ。

 帰ってきたんだ――。

 Kさんは思わず立ち上がり、玄関に走ろうとした。

 しかし――そこでふと気づき、踏み止まった。

 ……どうして、自分で開けないんだろう。鍵は持っているはずなのに。

「お母さん?」

 恐る恐る、ドア越しに声をかける。

 本物だろうか。もしかしたら、またが来たのでは……。

「ちょっと手が塞がってるの。K、開けて?」

 母親の声が繰り返す。

 Kさんは、息を殺すようにして、ドアスコープから外を覗いてみた。

 小さなレンズのすぐ先に、母親の笑顔があった。何の変哲もない――しかし今はとても心強い、笑顔が。

「お母さんっ――」

 思わず涙が溢れそうになった。Kさんはすべての恐怖を忘れ、ドアを押し開いた。

「ただいま、K」

 笑顔で、母親が言った。

 笑顔の下にある体すべてが、包帯でぐるぐる巻きだった。

 もはや人の形かどうかも怪しい、ぼってりとした巨大な包帯の塊が、母親の笑顔だけをちょこんと載せて、ドアの前に広がっていた。

 強張ったKさんの目の前で、包帯がバラバラと解け落ちた。

 Kさんは――意識を失った。


 気がつくと、Kさんは病院のベッドにいた。

 あの後帰ってきた本物の母親が、玄関で倒れているKさんを見つけて、慌てて救急車を呼んだらしい。

 幸い気を失っただけで、体に異常はなかった。ただ、Kさんの記憶は、一部がすっぽりと抜け落ちていた。

 あの包帯の下に何があったのか――。確かに見たはずなのに、思い出せない。

 何かを見たのは、間違いない。しかし思い出そうとすると、それが母親の笑顔にすり替わってしまう。

 包帯の下には、巨大な笑顔があった――。そんな奇怪な記憶が、Kさんの頭を埋め尽くす。

 結局が何だったのかは、最後まで分からなかった。

 ただそれ以来、Kさんは学校が終わると、母親が帰ってくるまで、おばさんの部屋で過ごすようになったという。

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