第九十七話 幽霊の絵
主婦のKさんが、父親を亡くしてから半年ほど経ってのことだ。
実家にいる母から、父の遺品の一部が箱で送られてきた。遺品と言ってもほとんどはガラクタだが、もしいるなら引き取ってくれ――とのことだ。
さっそく中身を検めていると、箱の底の方に一枚の絵を見つけた。
大きな画用紙に青いペンで描かれた、落書きのようなものだ。画力も高くない。幼児が描いた、と言われれば素直に信じるレベルである。
描かれているのは、人の形をしたものだった。
髪が長く、着物を着ている。手を前にダラリと垂らしている。足はない。
幽霊だ――とすぐに分かった。
実に古典的な幽霊のスタイルだから、間違い様もない。もっとも絵が下手なので、凄みはまったくないのだが。
「Nちゃん、ほら、お化けだよ」
近くでおもちゃの車を振り回していた、今年四歳になるNちゃんに、その絵を見せてみた。
Nちゃんはきょとんとした顔で絵を見返し、それから突然わっと泣き出した。
下手な絵とは言え、幼い子供にとっては充分怖いのかもしれない。Kさんは慌ててNちゃんを宥めた。
ところが、Nちゃんは泣きやまない。幽霊の絵から懸命に顔を背け、延々と泣き続ける。
いくら何でもそこまで怖いか――と不思議に思ったが、Kさんは仕方なく、絵を寝室に持っていった。
「Nちゃん、もうお化けはいないよ」
そう言うと、Nちゃんはようやく泣きやんだ。
ただ、相変わらず怯えた様子で、今度は寝室に近づこうとしない。
Kさんは苦笑し、それから絵をどうするか考えた。
そもそも、なぜこんな絵を、父は持っていたのだろうか。
父が小さい頃に描いたものか。そう思って画用紙をひっくり返してみると、汚い字で何やら名前のようなものが書いてある。
作者のサインといったところか。しかし、少なくとも父の名前ではない。
気になって電話で母に聞いてみたが、「そんな絵を入れた覚えはない」と言われた。
捨てよう――と決めた。
Kさんは絵をくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱の中に放り込んだ。
その夜のことだ。Kさんは、隣で寝ていたNちゃんの泣き声に目を覚ました。
Kさんのご主人もすでに目を覚ましていて、Nちゃんを宥めている。
見ると、Nちゃんの枕元に絵が置いてある。
あの幽霊だ。
くしゃくしゃになったものを無理に伸ばしたと見えて、画用紙全体がデコボコしている。
「K、この気持ち悪い絵、どこから持ってきたの?」
ご主人がKさんに、不審げに尋ねた。
確かに――気持ちが悪かった。
もともと単純だったはずの線が、画用紙がデコボコになったことで細かく歪み、妙な立体感を出している。特に異様なのが顔で、目鼻口がグネグネと曲がり、「ぐちゃぐちゃになった人間の顔」そのものに見えてくる。
まるで、未完成だった幽霊の絵が、一度丸めて伸ばしたことで完成した――。そんな風に思えた。
いや、それよりも不可解なのは、捨てたはずの絵がここにあるということだ。
「Nちゃん、この絵、拾ってきちゃったの?」
Kさんが尋ねると、Nちゃんは泣きながら首を横に振った。
「おこされたら、ここにあった」
Nちゃんはそう答えた。
……だが、この家にいるのは三人きりである。Kさんもご主人も寝ているのに、誰がNちゃんを起こしたのか。
とにかく――Kさんはもう一度絵をくしゃくしゃに丸めて、ゴミ箱に突っ込んだ。
「明日捨ててくるからね」
そう言ってNちゃんを落ち着かせようとしたが、まったく泣きやむ気配がない。
仕方なく、今すぐ捨ててくることにした。
Kさんはマンション住まいで、ここの共用のゴミ収集所は、住人ならいつでも利用できる。時間どころか曜日すら気にしなくていいのは、ありがたい。
夜中だったが、Kさんはゴミ袋をぶら下げて、一階のゴミ収集所に向かった。
ゴミ収集所は、それ自体が巨大な倉庫のような建物になっている。施錠してあるドアは、部屋の鍵で開く。中に入ると、可燃ゴミ特有の嫌な臭いが鼻を突いた。
早く捨てて出ようと思いながら、「可燃用」と書かれたボックスに向かう。そこにゴミ袋を放り込もうとして――。
ふと、手が止まった。
半透明の袋越しに、しわしわの幽霊の顔が見えた。
……あれ、この絵、丸めなかったっけ?
首筋を何かが伝うような、嫌な感じがした。
Kさんは、急いでゴミ袋を可燃用のボックスに入れ、そそくさと収集所を後にした。
あとは明日の朝、回収車が持っていってくれるはずだ。
それから三日後の、夕方のことだ。
不燃ゴミの回収日が明日なので、今のうちに持っていくことにした。
Kさんが袋をぶら下げて出ようとすると、Nちゃんも一緒に来たがった。
Nちゃんには小さい袋を持ってもらい、二人でゴミ収集所に行った。
ところが――ドアを開けた途端、Kさんはビクッとして、足を止めた。
すぐ隣で、Nちゃんが泣き出したのが分かった。
……収集所の壁に、あの幽霊の絵が、べたりと貼りつけられている。
まるで、KさんとNちゃんが来るのを、待っていたかのように。
ぞぉっと、全身を悪寒が走った。
Kさんは震える手で絵を剥がし、またぐしゃぐしゃに丸めた。
そのまま可燃用のボックスに放り込みたかったが、剥き出しのゴミを捨てるのはルール違反だ。それに、今持っている不燃用のゴミ袋に入れて、小うるさい住人に見つかってもまずい。
Kさんは、一度部屋に戻ることにした。
しかし手に絵を持っているせいで、Nちゃんが怯えて、ついてこようとしない。Kさんが困り果てていると、そこへ泣き声を聞きつけた管理人が様子を見にきた。
Kさんはすかさず、絵のことを尋ねた。
いつから収集所に貼ってあったか、と聞かれた管理人は、「収集所は毎日見回ってますけど、その絵を見たのは今が初めてですよ」と、首を傾げただけだった。
可燃ゴミを回収してから、すでに日が経っているはずだ。いったい、誰がいつ絵を袋から出し、いつ壁に貼ったのか――。
……とにかく気味が悪かった。Kさんは改めて、絵を捨て直すことにした。
丸めた上から、ガムテープでぐるぐる巻きにした。
まるでガムテープで出来たボールのようになったそれを、二重にした小さなビニール袋に入れて、口を固く縛り、その日のうちに収集所に捨てた。
それだけでは安心できなかったので、可燃ゴミの回収日の朝、回収車が来る時間に合わせて収集所に行き、回収されるところをしっかりと見届けた。
これで大丈夫だ。もう二度と、あの絵は現れない――。
Kさんは、ようやく胸を撫で下ろした。
その日の夕方のことだ。
寝室に入っていったNちゃんが、凄まじい悲鳴を上げて泣き出すのが聞こえた。Kさんは夕飯の支度の手を止めて、慌てて飛んでいった。
見ると、寝室の窓から、あのしわしわの幽霊が覗いていた。
絵は窓ガラスに、外側からガムテープでべったりと貼りつけられていた。
ここは六階である。窓の外には、ベランダなどはない。
Kさんは、自分も泣きそうになるのを堪えながら、絵を剥がしてビリビリに破った。
そこへご主人が帰ってきたので、代わりに捨てにいってもらった。
それ以来、ゴミ出しはすべて、ご主人の役目になった。
ご主人曰く、絵は今でも、収集所の壁に貼られているらしい。
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