第三十七話 上り坂に
大手出版のK社……と名前を伏せるのも妙だが、このサイトの運営元の本社ビルが建つ、そのすぐ近くで起きた話だ。
近隣のK駅を出て、有名な巨大神社の横を右手に折れると、細い上り坂がある。神社の敷地から伸びた樹々が頭上を覆い、どこか
K社の前をさらに進むと、すぐに大通りに面したI駅がある。そちらは常に人が多く、店も豊富で賑わっている。だからK社に用がある大抵の人は、I駅を利用する。
おかげでK駅からK社ビルへと至る坂道は、学生や会社員が多く行き交う日中はともかく、夕方を過ぎれば人通りも絶え、かなり寂しくなる。
かく言う僕も、何度もその道を歩いている。特に秋から冬にかけて、日が落ちてから打ち合わせで本社ビルへ向かう時など、点々と灯る街灯を追いかけて暗い坂道を上っていくのは、なかなか心細いものだ。
たまに人とすれ違うこともあるが、鬱蒼とした闇の中では、相手もただのシルエットでしかなく、かえって不安を覚えてしまう。
そんな上り坂の途中で――若手女性編集者のYさんは、恐ろしいものに遭ったという。
YさんはいつもK駅を利用していた。時刻は夜八時。退社して暗い坂道をすたすたと下り、神社の大鳥居を右手に臨んだところで、ふと会社に忘れ物をしてきたことに気づいた。
資料のために読み込んでおこうと集めておいた本だ。正直、取りに戻るのは億劫だったが、かと言って明日まで放置してしまうと、その分スケジュールにも影響が出てしまう。少し迷ってから、Yさんは会社へ引き返すことにした。
振り仰いだ暗い坂道は、Yさんの見慣れない景色だった。
いつもは明るい午前中にこの坂を上り、暗くなった帰りには、脇目もふらずに足早に下りる。だから、夜になってからこの坂道を上ることは滅多にない。
嫌だな、と思いながら、おずおずと歩き出した。
下りる時は早い坂道も、上りは自然と足が重くなる。季節は晩秋。次第に冬の空気が上着越しに染み込み始める中、Yさんは身を縮こまらせるようにして、街灯を頼りに、ひと気のない坂道を上っていった。
そんな時だ。少し先に、ふと誰かの気配を感じた。
見上げると、街灯と街灯の間――ちょうど灯りを
――人がいる。さっき下りる時は、誰もいなかったのに……。
Yさんはぼんやりと、ただそれだけを思いながら、足を進めようとした。
そこで妙なことに気づいた。
黒い影はその場に立ち止まり、微動だにしないのだ。
神社の横手の何もない、ただ真っ暗なだけの坂道の途中だ。普通なら佇む理由などない場所で、あの人影はなぜ、じっとしているのか。
もしかしたら自分を待ち構えているのかも――。
夜道の心細さも手伝ってか、Yさんはついそんなことを想像して、わずかに歩調を落とした。
――いや、それただの被害妄想だから。
心の中で自分にそう言い聞かせる。
ひょっとしたら相手は高齢者で、坂を上る途中で疲れて立ち止まっているだけかもしれない。べつにこちらを見て立っているわけじゃない……。
そこまで考えて、Yさんは不意に、新たな疑問を覚えた。
あの人は――いったいどっちを向いているんだろう。
顔の向きが分からない。坂の上を見ているのか、坂の下を見ているのか。そもそも年寄りなのか、若者なのか。男なのか女なのか。何を着ているのか。何を持っているのか。
それに――本当に人間なのか。
心細さと肌寒さが、あり得もしないはずの不安をかき立てる。
Yさんは、視線を自分の足元に落とした。
見ているから不安になるのだ。もう影を見上げるのはやめて、地面だけを見ていればいい。このままやり過ごして、坂が下りに変わるまで一気に進んでしまおう――。
意を固め、Yさんは俯いたまま、足早に坂道を上り始めた。
街灯の光が迫る中、自分の靴の爪先が交互にアスファルトを伝っていく。時おり落ち葉を踏みしめるが、夜気に湿っているのか、カサリとも音を立てない。
街灯の横を過ぎた。次の街灯に着くまでに、あの黒い影の横を通る。
――大丈夫。べつに何も起きない。怖いことなんかあるはずがない……。
Yさんの視線は、もはや地面だけしか捉えていなかった。黒一色に染まったアスファルトと、そこに
やがて、影が佇む辺りに差しかかった。
ぐにゃっ、と爪先が何かに当たった。
Yさんは思わず足を止め、俯いたまま目を凝らし、地面を見下ろした。
そこにはYさんの爪先を遮るように、あの黒い影が仰向けに寝そべって、Yさんの目をじっと見上げていた。
Yさんは声にならない悲鳴を上げ、一気に坂を駆け上った。そして会社で用を済ませた後は、I駅を使って帰り、以降は決してその坂道を通っていないそうだ。
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