第六話 早朝に歩く
K県に在住の、今は五十代の男性会社員のSさんが、もう十数年も前に体験した話だ。
当時Sさんは、太り気味の体型に気を遣って、早朝のジョギングを日課にしていた。近所のジョギングができる市民公園まで速足で向かい、コースを何周かして、それから速足で家に帰る……という流れだ。
何週間か続けていると、自然と顔見知りも出来る。同じジョギング仲間だけでなく、公園に犬の散歩をさせにきたという人も多かった。しかしひとたび公園を出れば、そこにはまだひと気のない、静かな早朝の世界が待っていた。
そんなひっそりとした帰り道の途中で、Sさんはある時、奇妙なものに遭った。
始めは、音だった。
チャッ、チャッ、チャッ、チャッ……。
最初のうちは、アスファルトを蹴る自分の息遣いに紛れて気づかなかった。だが、次第に違和感を覚えて耳を澄ませると、すぐ近くで何かが鳴っているのが分かった。
チャッ、チャッ、チャッ、チャッ……。
それはSさんのすぐ後ろから聞こえていた。
何かが近づいている。早朝のひと気のない道を、Sさんの後ろをついて。
チャッ、チャッ、チャッ、チャッ……。
もっともSさんは、特に恐怖などは覚えなかった。夜中ならまだしも、今は早朝だ。周りも民家ばかりで、常に人が生活している場所なのだから、怖がる理由などない。
そもそも――何か怖いものがついてきているなどとは、思いもしない。
チャッ、チャッ、チャッ、チャッ……。
音はすぐ背後に迫っていた。
Sさんは歩くスピードを落とし、軽く振り返ってみた。
犬だった。
一匹の、大人ほどもある白い大きな犬が、リードを引きずり、我が物顔でアスファルトの上をついてきていた。奇妙な音は、犬の爪がアスファルトを擦るものだった。
迷い犬が公園からついてきたのだろうか。一瞬ギョッとしたが、犬は振り向いたSさんに反応を向けるでもなく、そのまま迂回するような素振りを見せた。放っておけば、Sさんを追い越して先へ行ってしまうだろう。
Sさんは犬をやり過ごそうと、足を止めた。
そこで――奇妙なことに気づいた。
犬がズルズルと引きずっている長いリード。その先に、薄汚れた白いボロ布が絡まっているのだ。
一見シャツか何かにも思える布の塊は、しかしもはやボロボロになりすぎていて、原形を留めていない。犬はそれを、まるで自分の召し使いのように引きずっている。
チャッ、チャッ、チャッ、チャッ……。
ズル、ズル、ズル、ズル……。
足を止めたSさんの横を、犬が軽やかに通り過ぎていく。
犬の引きずるリードが、早朝のアスファルトの上を蛇のように這う。
ズルズル、ズルズル……。
リードの先に引っかかったボロ布の塊が、Sさんの立つ、すぐ横まで来た。
白い手が見えた。
布の塊の中から、真っ白な、小さな子供の手がはみ出して、リードをしっかりとつかんでいた。
「えっ?」
思わず声を上げたSさんにはまったく目もくれず、犬はリードの先に「何か」を引きずったまま、突き当たりにある一戸建ての家まで行き、門の隙間から中に入っていった。
Sさんはその場に立ち尽くし、少しの間、犬が消えた家をポカンと眺めていた。
その家が火事で焼け落ちたのは、数時間後の日中のことだ。
あの時、もし犬の興味が自分に移っていたら――。そう思うとSさんは、今でも得体の知れない悪寒に見舞われると言う。
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