第77話 最終話「心臓いっぱいの愛を」(33)
花の季節だというのに、果樹園に吹く風は初秋のような冷気をはらんでいた。
俺は隣を歩く紫蘭に、何気なく目を遣った。オフホワイトのワンピースに、サーモンピンクのカーディガンを羽織っただけのいで立ちは、目を離すと日差しに溶けてしまいそうなほど、儚かった。
「この薄いピンクがリンゴ、あっちの白いのがたぶん、梨の花……みんな、あまり特徴がなくておとなしい形ですけど、私は好きです」
紫蘭の瞳はいつになく力強い光を宿していた。まるで体がこの世から消え去っても、まなざしだけは残る……そんな輝き方だった。
「植物にお詳しいんですね。家にこもりがちだと伺っていたので、こんな風に生き生きとされるところを見られるとは思いませんでした」
「母がよく、庭を丹精していたので……すみません、はしゃいでしまって」
紫蘭は一旦口を閉じ、うつむくと、しばし考え込むそぶりを見せた。やがて顔を上げると、唐突に口を開いた。
「私、こうやって誰かと外に出て、自然を見ながら歩いてると「ああ、私、生きてるんだ」って感じるんです」
「生きてる……ですか」
「ええ。植物の命の営みが、まるで音楽のように聞こえる気がするんです。
地中から栄養を吸い上げ、喜びと共に身体の中を上ってゆく。葉は私たちの呼気を吸って、再び命の息遣いを聞かせてくれる……そんな風に感じるんです」
俺は感嘆した。果樹園を歩くだけでそこまで感じ取れるとは、感性が豊かなのだろう。
「神様は私に、多くの時間を与えなかったかもしれない。でも、その限られた時間の中で、私は命が陽に向かって伸び、次の命を育むさまを見ることができる。
……なんて素敵なんだろうって思うんです」
「命が短いと誰が決めたんです?人の生き死になんて、誰にもわからないことです。もしかしたら、これからもこういう時間がずっと続くかもしれない。お兄さんだって、それを願い続けて二十年以上、あなたに寄り添ってきたのだと思います」
「……すみません、どうしても病気のせいで物事を悲観的に見る癖がついてしまって」
「こんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、これからはお兄さんだけでなく、私もあなたの健康を望む一人に加わらせてもらいます。……参加がだいぶ、遅くなってしまいましたが」
俺が言うと、紫蘭は「ありがとうございます、青山さん」と遠慮がちにほほ笑んだ。
「でも……たぶんお仕事が終わったら、あなたはきっと遠くへ行ってしまうと思います。仮に今、おっしゃって下さったことが本当だとしても」
「なぜそう思うんです?それはありません。なぜなら……先ほどあなたがおっしゃられた「生きているという実感」それを私はまさに今、あなたといることで感じているからです」
「……本当ですか?」
「ええ。名目こそ関係者の聞き込みという形ではありましたが、あなたと会って短い時を過ごしている間、私は今まで感じたことのない軽やかな気分になれたのです。
刑事という仕事は嘘、またはかりそめの正義と言った物を呑めなければ務まりません。私には自分が迷ったり落ち込んだりした時に支えてくれる強さや信念がなかった。……でも、あなたと会うことで、生きていることを喜べる、それだけでいいんだと思えるようになったんです」
俺は一気に喋ると、紫蘭から視線を外した。木立の間を縫って伸びるプロムナードは、どこからともなく流れてくる弦楽四重奏と相まって、幸福へ続く道のようにも思えた。
「青山さん……もしご迷惑でなければ、これをもらっていただけませんか?兄がこしらえた物なんですが」
そういって紫蘭がおずおずと差し出したのは、智之が見せてくれた銀の指輪だった。
「「P」という文字は、私の「紫」を意味しているそうです。そしてこの「B」は……」
「私の「青」ですね。うれしいです。……受け取らせてもらいます」
俺は「B」と刻まれた指輪を受け取った。
「どの指にはめたらいいのかな。友達同士は薬指じゃないですよね」
「そうですね……どの指でもいいです」
そう言うと、紫蘭は左手の中指に指輪をはめた。俺はいろいろ試した結果、右手の小指にしか合わず、二人のちぐはぐさが笑いを誘った。
「……風が出てきましたね。どこか建物の中にでも、入りましょうか」
「……ええ」
俺はかすかな記憶を弄った。確かこの先に、レストハウスがあったはずだ。
「少し先に休める建物があるはずです。行ってみましょう」
俺たちは連れ立って歩き出した。果樹の木立を抜け、その奥にレストハウスらしい建物の影が見えた時、俺は思わずあっと叫んでいた。建物の上半分が、改装用のビニールに包まれていたからだった。
「すみません、どうやら閉まっているみたいです。……準備不足でした」
「いいえ、とんでもない。……どこか果樹園の外のお店にでも、入りましょう」
紫蘭の気づかいにほっとした、その時だった。ふいにポケットの携帯が、鳴り出した。発信者の名前を見た俺は、思わず息を呑んだ。予想外の名が、そこにあったからだ。
「青山さん、今、どちらにいらっしゃいます?言われた通り、果樹園のレストハウスに到着しましたよ」
彼は一体、何を言っているんだ?そしてなぜ、そんなところにいるのだ?
俺の頭の中は疑問符でいっぱいになった。電話の相手は、六道智之だった。
――六道がレストハウスで俺を待っている?俺はそんな約束をした覚えはないぞ。
俺は数十メートル先の建物を見た。どう見ても営業中には見えない。おそらく従業員もいないだろう。何か不条理なたくらみにはめられた、そんな気分だった。
「すみません急用ができたので、心苦しいのですが、お一人で帰っていただけますか」
俺が詫びると、驚いたことに紫蘭は即座に首を振った。
「いえ、私もご一緒します。今の電話……兄からだったのでしょう?昨日、兄と電話で話した時、奇妙なことを言っていたんです。「俺は警察にはめられたのかもしれない」って」
「なんですって」
俺は混乱した。俺も六道も、互いに呼び出されたと思っているが、どちらにもその覚えがないというのだ。しかも、場所は閉鎖中で人気のないレストハウスと来ている。行けばなにかよくないことが待っているであろうことは、想像に難くない。しかし――
――行かないことには、何も始まらないな。
振り返ると、紫蘭が覚悟を感じさせる瞳で俺を見ていた。ついてくるなと言っても、おそらくついてくるに違いない。
「わかりました。行きましょう。……ただし、私とお兄さんとのやり取りには、関わらないで下さい。いいですね?」
「はい、わかりました」
俺は頷くと、半ば閉ざされかけたレストハウスへと足を向けた。レストハウスの正面玄関に着いた俺たちは、まず出入り口が封鎖されているかどうかを確かめた。
驚いたことに、ドアは施錠されていなかった。中に足を踏み入れると予想通り、広いフロアに人の気配は皆無だった。
一階部分はフードコートと土産物売り場とに分かれていて、六道が隠れていそうな気配はなかった。
俺は「展望カフェテラス」という看板が掲げられているらせん階段を見つけると、迷わず上り始めた。すぐ後ろに紫蘭がついてくる気配があり、いくばくかの不安を覚えたが、構わず一気に二階を目指すことにした。
金属製の階段を上り終えると、目の前に全面ガラス張りのフロアが現れた。俺の目は、その奥でこちらを向いて立っている一人の男性に吸い寄せられた。
「六道……」
俺が呟くと背後で紫蘭も「兄さん」と小さく漏らした。
「青山さん……あなたがここまで思い切ったことをするとは思いませんでしたよ」
「何のことだ」
「私がすべてを話さなければ、特務課を総動員して「死者の国」を壊滅させると」
俺は絶句した。特務課であるはずの俺が、一度も耳にした事のない話だったからだ。
〈第三十四話に続く〉
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