第62話

 こっそりとシュンが何も知らないアキと楽屋に戻って来たのは、出番の直前だった。


 リョウは何事も無かったかのようにヘッドフォンを付けたままソファで目を閉じ、じっとしている。シュンはベースのチューニングをしつつ、おそるおそるリョウの反応を伺おうとするが、リョウは動く気配はない。一方、ミリアは微笑みを浮かべ、リョウとお揃いのMarshallのヘッドフォンを付けながら、生音ながらも勢いよくギターを奏でている。いつの間にやら、攻勢が逆転、している。


 シュンはリョウに歩み寄り、そうっと肩を叩いた。じろり、とリョウは目を剥き、シュンを睨む。


 「何だよ。邪魔すんな。」


 シュンは背後から赤いウィッグを取り出すと、「とりあえずさ、これ、着けとけ。」と言ってリョウに丹念に被せた。リョウはされるがままで、ヘッドフォンから鳴り響くこれから演奏する曲に耳を傾ける。


 「大丈夫か?」と言ってシュンはちら、とミリアを振り返る。


 「俺は、……三年後にミリアとヤるんか。」リョウは小声で囁く。


 シュンは噴き出す。何がどうなったらそんな結末になるのか、過程を見なかったことに一抹の後悔を覚える。


 「大丈夫だ。愛があれば。」


 「愛だぁ?」


 シュンは右手をリョウの肩に置くと、深刻そうに囁きかけた。「お前がミリアと暮らすためだけに突然バッサリ髪を切ったり、ミリアがモデルを始めるのに社長呼びつけて文句言ったり、それから大馬鹿なミリアが高校行けるようにユウヤに頭下げて家庭教師頼むっつうのが、愛だ。」


 リョウは詰まらなさそうにシュンを見上げた。「んなの、保護者として当たり前だろ。」


 「いやいや。俺はショージキ長らく、お前を欠陥男だと思ってたが、ミリアに関してだけは全然違ぇ。お前はミリアといるからこそ人間に近づけたんだと思う。良かったな。」シュンはウィッグを被ったリョウの頭を撫で摩る。


 「ああ?」


 そう睨め上げた瞬間、アキが「出るぞー。」とステージ入口から顔を出した。


 ミリアはすぐさまヘッドフォンを外すと、笑顔ですっくと立ちあがった。




 Last Rebellionの出番がやって来る。客席は満杯、前のバンドが終わるや否や、リョウを呼ぶ声が絶え間なく聞こえる。


 「久々だからなあ、客も興奮してる。」アキがステージを覗きながら、心底嬉し気に呟いた。


 ミリアも興奮し切りといった微笑みを浮かべながらギターのネックを握り締め、ステージ袖で足踏みをする。


 リョウは赤い長髪のウィッグを被せられ、どこか途方に暮れたような顔をしていたが、歓声を聞くたびにいつものデスメタルバンドのフロントマンの顔に戻っていく。シュンはその様を見て、安堵する。でもリョウもミリアも身勝手な事由でライブ直前に平気で落ち込んだり、興奮したりするのだから、困る。この兄妹は何て自己中心的なんだ、今更ながらシュンは呆れ返る。


 やがて聴きなれたSEが流れ出す。リョウが作ったギターのインストゥルメンタルで、どこか寂し気でありながらも、弦楽器特有の扇情的な音階に、次第に客の興奮も高まっていく。客席にあちこちから耐え切れないといったように、リョウの名が叫ばれる。


 やがてアキが「行くぞ。」と呟きステージに躍り出、歓声が倍増した。次いでシュン、ミリア、絶叫に近い歓声の中、リョウが登場した。最前列の客が圧され、苦し気な叫びを上げる。


 「お前ら、待たせたな。」


 リョウがそう言ってほくそ笑むと、客席は更に湧き返った。アキがスティックを高々と掲げ振り下ろそうとした瞬間、リョウも頭を振り下ろし、真っ赤なウィッグが、客席に、飛んだ。シュンは目を見開いてその様を見詰めた。赤い髪は空に舞い、ひらひらと広がって真ん中あたりの客の頭上に、落ちた。客は先程とは明らかに異なる、驚愕、呪詛、絶望、それらの綯交ぜとなった絶叫を上げた。


 「うるせえ!」リョウは叫ぶ。


 客は瞬時に静まり返る。


 「音で満足させてやっから、黙って聴け!」そう怒声を上げると、ドラムと同時に、凄まじい高速のリフが始まった。


 客の歓声はすぐさま歓喜のそれに変わっていく。ミリアも口の端に笑みを浮かべながら、前へ踏み出すと頭を何度も振り下ろしながら、リョウと同じリフを刻んだ。


 久しぶりの轟音に、否応なしに身が震え出す。観客も最初から暴れ回っている。ミリアは客席を睨みながら前へ出ると、やがて到来したソロを、天をも劈けとばかりに奏でた。いかに絶望しようとも、いかに苦境に身を置こうとも、そこから這い上がるエネルギーこそを得られれば、それは苦難とはならない。むしろ誰よりも強くなれる。誰よりも自分の過去を愛せるようになる。ミリアはそれを、リョウから、教わった。


 ソロを弾き終えるとリョウが微笑みながら、ミリアをちらと見た。身を突き上げるような歓喜が押し寄せる。シュンもいつの間にかミリアの傍にやってきて、地を引きずるような低音でミリアのリフを支える。


 ああ、この時間が永続すればいいのに――。ミリアはほとんどそればかりを懇願する。何も見えない。見えるのは、リョウががなり立てている痛苦と絶望の日々だけ。安穏とした秩序など、ここにはいらない。リョウはそう言っている。


 このステージでいつまでもいつまでもリョウと一緒にいられたらいいのに。ここは死を希った父親さえを愛せる、唯一無二の場。自分の全てが、自分にかかわるものの全てが愛しくて堪らなくなる。くるしくなる。


 そして、ラストのblood stain child―-。ミリアの目前には、身を焼くような暑さと、ミミズの死骸に彩られた絶望の日々が明瞭に浮かび上がってくる。かつてどうしてこれを憎んだろう、忘却しようと願ったろう。こんなにも強靭な魂を生み出し育て得るのに……。ミリアはその日々を愛おしく感じる。これこそが、自分のアイデンティティだと、はっきりと、そう、感じる。


 そうだろう? と客席を見た。自分に、自分の感情と過去に、こんなにも同調し、共有してくれる人々がいる。ミリアは歓喜に突き上げられ、前を見た。そこには、リョウがいる。悲しみしかなかった自分に絶望を愛する術を教えてくれた人。誰よりも愛しい人。知らぬ間にミリアの頬には涙が伝っていた。


 リョウだけを見詰めるミリアの眼差しには、背中に刻まれた無数の傷が鮮やかに浮かんでくる。リョウこそが人生の指針だった。リョウこそが絶望を糧にして、生きる方法を教えてくれた。自分に人生を教えてくれた。


 絶望という、血よりも濃い絆で結ばれた自分たちは、誰にも負けぬ音を生涯生み出していくんだ。ミリアはそう考えると、嬉してならなくなった。だから涙を流しながら、大声で、笑った。


L ast Rebellionの僅かな持ち時間を全力で楽しもうと、観客は挙って拳を突き上げ、バスドラムに合わせヘッドバンキングをし続け、暴れた。最後の曲では倒れ込むような者も何人も出た。何と強靭な徒花であろう、ミリアは感嘆する。Last Rebellionは全ての曲を弾き倒し、叩き倒した。全ての限界が、ステージの終焉を告げる。


 惜しむよりも賛美する声が、感嘆する声が、次々に上がった。時間、の長短では計れない満足感が、演者観客を問わずライブハウス全体に渦巻いていた。

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