第29話

 夜、レッスンが終わって帰宅をすると、リョウは絶叫した。腹の底から、絶叫した。

 「何、やってんだてめえはー!」

 一種ステージ上のそれよりも気迫と、絶望と、憤怒とを込めた声はアパート中に響き渡ることとなった。ミリアもだから、思わず耳を塞ぎ、身を固くした。

 その瞬間ぐい、と掴まれたのはミリアの、真っ赤に染め上げられた髪の毛である。

 「この時期に、てめえ、反抗期のつもりか! この俺に反抗してやがんのかあ、クソがあ!」

 ミリアが一言も発する間もなく、リョウはミリアの髪を掴んだまま、抱き上げるようにして洗面台に運び込むと、頭を蛇口の下に圧し付けた。そして勢いよく水を流す。

 「冷たいー!」

 「馬鹿野郎! 黙ってろ!」

 しかし髪は、水の中で一層色を濃くするばかり。

 「てめえ、何で染めたんだよ、スプレーとかじゃねえのかよ、クソがあ!」リョウはミリアの頭上で叫びまくる。

 「水じゃ、……水じゃ、落ちないんだもん!」ミリアはそう叫ぶとリョウの掌をすり抜けてしゃがみ込むと、濡れた髪の毛の合間から震えながらリョウを睨み上げた。

 「落ちねえって、どういうことだ! 明日から学校どうしやがるつもりだ!」

 どうしてこの期に及んで学校のことなんか言うのか。ミリアは顔まで真っ赤に染め、「リョウなんて、リョウなんて、大っ嫌い!」と叫び散らした。

 そう言って涙だか水だかわからないものに顔中を濡らしながら、ミリアは玄関を飛び出した。しかしそこにはちょうど家庭教師にやってきたユウヤが立っていた。ユウヤは一瞬ぎょっとして頭のびしょ濡れになった、そしてなぜだか赤く髪を染めたミリアを見、それからステージ上もかくやとばかりに殺気立っているリョウを見、もう一度二人を交互に見、今眼前で起きている問題の大かたを察すると、自分の脇を走って通り過ぎようとしているミリアの腕を慌てて掴もうとした。しかし咄嗟のことで、ミリアはそこをもすり抜けていく。ユウヤは慌てて身を翻し、ミリアを追い掛けた。リョウは二人を呆然と眺めた。


 ミリアが突っ掛けサンダルだったので、思ったよりも早くユウヤはミリアの腕を掴むことができた。息を切らせながら、「ミリアちゃん、……待って。落ち着いて。」と宥める。

 ミリアは髪から水を滴らせながら、その合間からユウヤを見た。「……ねえ、まずは、何があったのか、教えて。」ミリアは観念したのか、先程のリョウの様子を思い出したのか、わあ、とユウヤに縋り、泣き出した。

 ユウヤは路傍の人々の視線が注がれるのを感じつつ、周囲を見回した。するとすぐ近くに、小さなカフェがあった。手前の座席にはサラリーマンと学生風の二人組、そう混雑もしていないように見える。

 「ミリアちゃん、話を聞かせて。ね? ほら、ここで、何か甘いものでも食べながら。」


 店に入るなり、やけに理解のある店員によってミリアにはすぐに小さなタオルが何枚も与えられ、店の奥の席に案内された。泣きべそをかいた髪の毛のびしょ濡れの中学生に、長髪の学生の組み合わせは、さぞかし奇異な印象を与えるであろうと思われたが、ユウヤはとりあえず全てを保留としてミリアを気遣ってくれた店員に心底感謝した。そうして、黙って何も言おうとしないミリアに代わり、ロイヤルミルクティーとモンブランを注文してやる。泣いた女には甘いものがよい、といつぞやモテる友人から聞きかじったことがあった。まさかそれがこんなところで発揮されるとは。ユウヤは感謝の念を覚える。

 さっきからジーンズのポケットの中の携帯電話をぶるぶると鳴らし続けているのは、見なくても分かる。ミリアを追うに追えなくなった、どこぞの感情的な兄貴だ。ミリアがまだ顔を上げないのを確認すると、リョウはテーブルの下で電話をちらと確認する。

 《ミリアは見つかったか?》

 《ミリアが見つかったらすぐ連絡しろ》

 《ミリアを風邪引かせたら承知しねえ》

 お前が言うな、思わずユウヤはそう呟きそうになる。とかく、ユウヤは出されたコーヒーのコースターに書かれた店の名前を入れてメールに返信をする。

 少しは落ち着いてはきたのであろう。目の前でしゃくり上げる声は随分静まってきていた。

 ユウヤはふう、と溜め息を吐くと、「ミリアちゃん、似合ってるよ。髪の色。」と切り出した。

 ミリアは驚いたように一瞬、ユウヤの顔を見上げる。

 「リョウとお揃いだね。」

 これは失敗だったか、ミリアの双眸からまた涙が滲み出す。

 「ああ、ええと、リョウとお揃いに、したかっただけなんだよね?」

 ミリアはこっくりと頷く。

 「だから、学校で怒られちゃうとか、考えられなかったんだよね?」

 ミリアは激しく肯いた。ああ、やっぱりそうか、とミリアの猪突猛進の性格を思いやる。

 「リョウもだから、慌てちゃっただけなんだよ。髪の毛、とりあえず黒くするの買ってあげるからさ、これ食べたら、家に戻ろう。ね。」

 ミリアは唇を震わせ、そして、「黒くしない。」と言い張った。

 「え、でも、明日学校どうするんだよ? さすがにそんな真っ赤じゃあ、先生に怒られるだろ?」

 「……いいの。」

 ユウヤは途方に暮れる。

 「……そっか、……わかった。じゃあさ、何で、いきなり髪の毛、赤くしたくなっちゃったの? 何か、理由が、あったんだよね?」

 ミリアは目の前のペーパーナプキンを取ると、瞼にぐっと当て、荒々しい呼吸を繰り返した。「だって……。」

 「だって?」

 ミリアの唇がまた震える。明らかに言葉を躊躇している。

 「リョウには絶対言わないからさ。」ユウヤはミリアの手を取って優しく撫でる。「俺にだけ、教えてよ。」

 ミリアは本当に信じてもよいのか、と吟味するかのように暫しユウヤの顔を泣き腫らした顔で真っ直ぐに、見据えた。そして、やがて、是との結論を出した。

 「リョウを、取られたくなかったの。」

 「……誰に?」

 「大学生の、女の人。」

 ユウヤはふと、誰のことであろうと考える。しかしあれだけ女の影はないと言い張っていたリョウに、疑いを持てる訳もない。ミリアの勘違いである確率の方が遥かに、高い。

 「その、……女の人って、誰なの?」

 ミリアは涙と共に、ユウヤに全てを吐露した。自分がモデルを始めてからライブに女の客が増えて来たこと。それはそれで喜ばしいことであるが、リョウにやたら話しかける女子大生のファンがいるということ。終いには彼女と仲良くなったリョウが、そのファンに大学案内をしてもらえ、などとふざけたことを言い放ったこと。だからせめてその女の前で髪の色までお揃いになった自分を見たら、リョウを諦めてくれるのではないかと思い至ったこと。

 ユウヤは真剣なミリアの姿に何度も噴き出しそうになりながら、必死に堪えた。

 「あのね。」すっかり吐き出し終えたミリアの後で、呼吸を整えてユウヤは囁くように話しかける。「リョウはミリアちゃんが一番大切なんだよ。お客さんもバンドマンにとっては凄く凄く大切だけれど、それよりもミリアの方がリョウにとっては大事なんだ。」

 ミリアは疑い深い眼差しでユウヤを見上げる。こいつらは揃いも揃って人間不審か、とめげそうになるのを何とか叱咤する。そこで、ふと、思いついた。ええい、ままよとばかりに、ユウヤは囁きかける。

 「この間リョウが言ってたんだよ。俺らだけの内緒だよ? あんまりミリアちゃんが愛しいもんだから、つい、一緒のベッドで寝ちゃったことがあるって。」

 ミリアはさすがに目を見開いた。ユウヤは内心歓声を上げる。

 「今まではきっと、小さな妹としてしか見てなかったと思うんだけど、最近は違うみたいだよ。ここだけの、話ね。」

 「……本当?」喉の奥に張り付くような声で、ミリアは言った。

 「本当だよ。いつだったかな? 確か俺が最初に来た時、ほら、ミリアちゃんがスカウトされた時。あの日の晩。」

 ミリアは茫然と、「……夢の日だ。」と呟いた。

 「あれからリョウ酒飲んでないでしょ? 酒飲むとやばいんだよ。理性無くして、ミリアちゃんに手ぇ出しちゃいそうで。」

 ミリアの頬が紅潮し出す。もう一息だ、とユウヤは必死に頭を巡らす。

 「そうそう!」思わず声が大きくなったのを、慌てて制す。「ミリアちゃん、本当はさ、リョウと結婚できないって思ってない?」

 ミリアはしゅん、となる。「昔、リョウ、職質受けて恩を売ってるから、兄妹でも結婚できる、って言ってくれたの。でも、それは、違ったの。社会の先生に聞いたら、そう言ってた。。」

 聞いたのか、とユウヤは驚愕する。しかしすぐに「……結婚、できるんだよ。」と囁いた。

 「嘘。」と言いつつ、しかし、ミリアの瞳はどうやら半信半疑、ぐらいのところを彷徨っている。

 「それが、嘘じゃないんだ。あのね、俺らの愛すべきデスメタル産出国、スウェーデン。AT THE GATESにEMTOMED、それからDISMENBERの国、あるだろ?」

 ミリアはうんうん、と肯く。リョウから英才教育を受けているのだ。その辺りはどのアルバムだって幼少時代から徹底的に聴き込んでいる。

 「あの国は、デスメタル以外も素晴らしいんだ。なんと」ユウヤはにやりと笑って、「半分血が違う兄妹なら結婚できるんだよ。」と囁いた。

 「嘘!」ミリアはそう叫んで立ち上がる。

 「嘘なんか言わねえよ。本当本当。」ユウヤはミリアの手を取って座らせ、微笑む。「完全なる兄妹はさすがにダメなんだけどね。父か母が違えば結婚できるの。……いつか、リョウと行けるといいね。」

 ミリアの瞳が先程とは違う意味合いで濡れてくる。ミリアは天にも昇る気持ちである。八百万の神々に、片っ端から額づきたい気持ちである。世の中は間違いなくバラ色で、どんな苦労も愛しい。

 「ほら、元気になった? そしたらモンブラン食べて帰ろう。帰りには、髪染買ってな。」

ミリアは肯いた。満面の笑みで、肯いた。

 ユウヤの携帯電話に《店ついた。どこだよ。》と新たなメールが届いた。

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