第10話 赤く染まる日
俺は今も、あの日見た風景をうまく思い描くことができない。何度辿っても、どこから眺めても、不思議といつも、真っ赤な血のような夕陽に全てが吸い込まれて行ってしまう。陽を負って影に染まったヤガミと、俺の足元に縋り付いて、小刻みに震える俺の妹の姿だけが断片的に浮かんでくる。
部屋でかじかむほど寒い日だった。学校は休みだった。俺は出掛けるのが億劫で、家で勉強していた。
ちっとも捗らなかった。英語も、数学も、国語も、理科も、社会も、何もかも大嫌いだった。酒だって少しも美味くなかった。延々と繰り返される、流行歌のちゃちなフレーズ。俺の耳は単語だけをむやみに拾っていく。希望。明日。光。友達。翼。夢。
ふいに血相を変えた妹が、何か叫びながら飛び込んで来た。俺と十違いの幼い妹。尋常でなく取り乱していた。俺は泣きじゃくる彼女が何を言っているのかもわからぬまま、急いでコートに袖を通して外へ出た。
――――早く。
――――死んじゃう。
支離滅裂な言葉の切れ端が、俺の不安を掻き立てた。
妹を追って、近所の高台へ向かって走る。沈みかけの陽が照らし出す坂道の凹凸が、鮮明に脳裏に焼き付いている。日頃の運動不足のせいで、かなり息が上がった。妹は興奮しきっていて、白い息を吐きながら、それこそ戦闘機さながらの勢いで坂をすっ飛んでいった。
――――セイ兄ちゃんが、刺した。
――――おじさんを。
――――セイ兄ちゃんの、パパを。
少しずつまとまってきた妹の言葉が、俺の鼓動を跳ね上がらせた。まさかと、腹の底が冷え込んだ。
俺は駆け続けた。掴んできた携帯を片手に、汗まみれになりながら、止まらず駆けた。本当にやったのか? 疑いがぐるぐる回る。行ってどうするつもりかなんて、これっぽっちも考えちゃいなかった。行かなければ取り返しのつかないことになると、それだけがハッキリしていた。
駆けて、駆けて。ようやく俺たちが展望台まで辿り着いたとき、そこにはヤガミだけが立っていた。鮮烈な赤い陽が丘に差し込む。ヤガミがじっと、こちらを見据えていた。怯えた妹が俺に縋り付き、震えながら隠れた。俺は肩で息をしつつ、割れんばかりに携帯を握り締めた。
「ヤガミ。何をした?」
ヤガミは軽く目を細め、低く答えた。
「…………その子から聞いてくれ。俺からは、言えない」
「ふざけるな! 親父さんのこと、お前…………」
「コウ。お願いだから、帰ってくれ。俺たちのことは、放っておいてほしい」
遮ったヤガミの声は不気味なぐらい淡々としていた。幾重にも厚く塗り重ねられた緊張が、かえって彼の調子を凪がせていた。アイツの手には包丁に似た、見慣れない刃物が頼りなげにぶら下がっていた。錆のこびりついた大きな刃面を、じっとりとした暗い液体が伝っていく。
ヤガミはこちらへ歩み出して、静かに語り継いだ。
「こうするしか無かったんだ。その子には気分の悪い思いをさせたと、反省してる。…………偶然、その子が通りがかったんだ」
妹が首を振って、俺を見上げた。俺は何も言わずに妹を抱き寄せ、ヤガミを見返した。ヤガミは相変わらず、深い影の中に沈んでいた。
「…………警察に連絡しよう。俺も行くから」
ヤガミが無言で刃物を握る手に力をこめる。背筋に一筋、冷たいものが走った。彼はわずかに上擦った、掠れた声で続けた。
「コウ。だから…………俺は行けないんだよ。俺はもうお前の言葉に…………いや、誰の言葉にも、染まりたくない。自分の行動が、お前のまっとうな言葉で言い換えられていくうちに、俺は動けなくなっちまう。だから何度も、繰り返しちまう。
…………コウ。お前は良い奴だよ。お前と、お前の家族に、すごく感謝してる。お前が知ってるかどうか知らないが、俺は今までずっと、その恩に報いたくて、生きてきたよ。…………だけど」
妹が何か小声で呟く。俺には聞き取れなかったが、ヤガミはちらりとだけ彼女に目を向けた。彼はそれから、少し疲れた口調でこぼした。
「それももう、限界なんだ。俺は所詮、人間のまがいものだ。どれだけ上辺を取り繕ったところで、性根が腐っている。自分でわかる。治らない。…………あの人だって、ずっと間違っていたんだ。どんなに親切に面倒見たところで、愛情なんかかけたところで、俺は裏切る。あの人を守れなかった。今だって、そうだ! 俺はあの人の頼みを、無視して、自分を抑えられなかった。アイツを目にした瞬間、何もかもが狂っちまったんだ!」
ヤガミがまた一歩、俺に近付く。震えながら持ち上げられた刃の先端が、夕陽を鋭く反射した。血走った目が、食い入るように、汚れた刃面と、俺とを映していた。
「コウ。お前、わかるか。…………タガが外れて、一気に自分が馬鹿になる…………陰鬱さが。お前には、もしかしたらわかるんじゃないか、って、俺は勝手に思い続けてたよ。わかんねぇヤツが、あんな目を向けると思えなかった。…………でも、お前は俺と違って、どこまで行ってもちゃんとした人間だった。絶対に誰も殴らない。どんな感情も、衝動も、器用に受け流して、当たり前みたいに生き抜こうとしてる。お前が正しい、お前みたいに生きるのが強いんだって…………よくわかってる。だけど俺は、お前のようには、生きられない…………」
「違う」と言おうとして、言葉が出なかった。ヤガミの突き出した刃が、何よりも強い言葉となって、俺の目の前に突きつけられていた。
「コウ。頼むから、これ以上俺に関わるな。お願いだから…………ここから消えてくれ。もう俺を見透かさないでくれ」
俺はヤガミを見続けた。俯いたら消えてしまうものが、わかっていた。
「…………できないよ」
妹がもう一度、今度は慌てた様子で何か騒いだ。彼女が泣き喚き、乱暴にコートの裾を引く。俺は携帯と一緒に、妹を後ろへ突き飛ばした。ヤガミの目の色が変わる。冷たい風が心臓まで凍てつかせる。
――――…………俺は今も、あの日見た風景をうまく思い描くことができない。何度辿っても、どこから眺めても、不思議といつも、真っ赤な血のような夕陽に全てが吸い込まれて行ってしまう。
影に落ちたヤガミの、表情はわからない。妹が俺の足元まで戻ってきて、声も無く震えている。涙と鼻水で、ぐしゃぐしゃだった。
刃物が地面に落ちる、場違いに軽い、甲高い音が冬の菫色の空に響く。
滴った血のくっきりとした丸い形が、「詩」の最後。
「…………セイ、ごめんな」
俺はポケットに入っていた相棒で、ヤガミを刺していた。
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