第7話 「言えない」「わからない」
電話から数日後、ヤガミは意外にも、平然と学校にやって来た。二限目の数学の最中、おもむろに教室に入ってきたアイツを見て、俺は目が覚めるほど驚いた。
ヤガミは幾分暗い雰囲気を湛えてはいたものの、外見上は特に変わった様子もなく、至って普段通りの様子であった。ヤガミは教壇に軽く会釈すると、無言で窓際に移された自席に着いた。ヤガミの成績は悪くない…………どころか、ずば抜けて良かったので、特に誰も彼を咎めなかった。「家庭の事情」。皆、いつの間にか暗黙の内に納得していた。
俺はと言えば、だが、ちっとも釈然としなかった。俺はすました顔で座るヤガミをこれでもかと睨み付け、事情を話せとじりじり圧力をかけた。「俺たち、友達だろう!? 何でも話せよ!」…………なんて、青臭いことを言うつもりはさらさら無かったけれど、流していい問題では決して無かった。
アイツは迷惑そうに(本当に迷惑そうな表情をする)こちらを見ると、親指をクイと持ち上げ、「屋上」と口を動かした。どこか虚ろな眼差しが、かえって正直で、無防備だった。俺は「わかった」と返事をし、難解で退屈な数学の授業へと戻った。(余談ながら、俺の成績はロクに上がっちゃいなかった)
残りの授業中、アイツはいつものように、遠い目をして何かに耳を澄ましていた。何となく机に置かれた数学の教科書やレポート用紙の素っ気ない青い表紙が、俺の景色の片隅にいつまでも焼き付いているのは、間違いなくアイツのせいだ。アイツの影が落ちると、なぜか周囲の景色が全て、モノクロ写真みたいに陰影深く滲んで、そのまま焼き付いてしまう。
そう言えば、ヤガミは時々写真を撮った。特に趣味でもないくせに、カメラを向ける時には、やけにこだわりたがっていた。どこぞで貰ってきたらしい、古いけど大仰な一眼レフカメラをこれ見よがしに大切に手入れしていて、気が向いたら撮ったものを現像して渡してくれた。去年、「売った」とか言っていたけれど。
…………アイツも俺も、悪い意味で、よくいる今時の子供だったと思う。人の言うことをよく聞く良い子で、言葉にできない虚しさをいつも心に抱えている。…………いや、虚しさを言葉にするのが、絶望的に下手で、諦めて、下手なりに生き抜こう、って、さっさとスタンスを決めようとしていたんだ。あの頃の俺に言っても絶対に受け入れないだろうが、本当は俺とアイツとで違うところなんて、どこにも無かったんだろう。二人とも、虚しさからどうにか脱却したがっていた。…………でも、できなくて。
今の俺にしたって、そんな自分から少しでも変わったとは思っていない。「お前は、何がしたいんだ?」どれだけ問われても、答えに似たものは一つしか見つからない。「生きたい」。極端な話、本当に自分の魂が生きているんだと腹の底から思えるのなら、死んだって構わない。諦めることが大人だなんて、信じたくない。
…………俺は思っている。ヤガミは、たとえ自分自身のことは諦めるにしても、お母さんのことは「生かして」あげたかったんじゃないか、って。昔、ソラ君と一緒にいた時に見せたあの笑顔を知っていれば、自然とそう思えてくる。俺がアイツについて知っていることなんて、あれが全部だと言ってもいい。アイツは「生きている」ものが好きだったんだ。ごく当たり前の、ありふれたものばかり自分のファインダーに収めようとしていた。誰より勉強熱心だったのだって、時々たまらなくなってキレたのだって、何よりも「生」に執着していたからなんだ。
子供たちの渇望。あどけないそれは、まず間違いなく、まともな言葉にはならない。「通訳」の俺をもってしても。
一際空の高い、十五歳の秋の日に、俺はアイツが泣くのを初めて目の当たりにした。アイツは欄干に突っ伏して、声を押し殺して泣いた。
誰も来ないよう…………彼の哀しみが、せめて今だけは、何にも汚されないよう、俺は一途に祈っていた。
アイツの話は滅茶苦茶だった。とどめていた感情が堰を切ったように溢れて、抽象的で、どこまでいっても形にならなくて、臆病で、自己完結しがちで、俺には…………というより、この世界の誰にも立ち入れないってことが、痛いほど伝わってきた。本人だって自分の言葉の愚かしさに完全に参っていた。話しているうちに、自家中毒的に毒が回ってしまったのか、終いには、崩れ落ちるように口を噤んでしまった。
「…………忘れてくれ」
ヤガミが最後に呟く。
俺はその時、声をかけたかな。もしかけたとしたら、それはどうしようもなく上滑りした、愚にもつかない言葉だったろう。
いずれにせよヤガミは、高らかに鳴り響いたチャイムを潮に、あっという間に涙を拭い去った。そうして俺を振り返ったアイツの顔は、いつもの、すかした生意気な表情だった。俺の答えなんか一切求めていないと、目で語っていた。
「…………帰る」
アイツは低く、投げ捨てるように言うと、さっさと屋上から出て行った。
俺は残りの授業に出て、塾にも行った。それから帰って初めて、台所のワインに手を付けた。これがきっかけで、ワインが本当は美味しいものだと知るのに、その先十年近くかかる羽目になるけれど、やたらに煽るなら、あれ以上にふさわしい飲み物は無いと思った。
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