夏 モーリス

 バタバタと廊下を近付いてくる騒がしい音に混じってジェイキンスの慌てた声が響く。


「お待ちください、モーリス卿。どうか」


 クイルは抱き締めていたアメリアから渋々身体を引き剥がした。頬に接吻けて微笑むと、キスで腫れたアメリアの唇を指でなぞって立ち上がる。


「お願いですモーリス卿。私が叱られます。どうか」


 クイルは箱に蓋をしてもう一度アメリアに接吻けた。


「モーリス卿!」


 今や声は扉のすぐ外まで迫っている。アメリアはスカートの皺を伸ばしてうなじの解れ毛を素早く整えた。


「どうしたジェイキンス、そんなに慌てて。お前らしくもない」


 扉を開けて入ってきた背の低い男が振り向きながら声を掛ける。


「わたくしが誰も近付けないようにお願いしていたのですわ。モーリス卿」


 椅子からゆったりと立ち上がりながらアメリアが言った。扇で腫れた唇を隠して冷たい瞳で微笑む。


「どなたともお会いしたくなかったのですけれど……もちろんあなたはそんなことお気になさいませんわね? モーリス卿」


「もちろんですとも」


 モーリス男爵は胸を張ってアメリアを見遣った。高価な上着は彼の体にぴったりと合っていて突き出たお腹を目立たせたりはしないが、かと言って隠すほどでもない。


「私がそれを考慮する必要がありますかな?」


 初めの頃、モーリス卿の不遜な態度はアメリアを苛立たせた。しかし七回も同じ遣り取りを繰り返せば、今更心に細波を立てることもない。


「もちろん、ありませんわ」


 アメリアはモーリス卿の後ろでジェイキンスが顔を巡らせ、クイルが居ないことを確かめてほっと息を吐くのを見て微笑んだ。執事に向けた笑みには冷たさはなかったがモーリス卿にはその違いは判らないだろう、とアメリアは思った。理解出来ないのではない。する気がないのだ。


「きっとお茶をご一緒しにいらしたのではありませんわね?」


 アメリアはモーリスに形式的に椅子を勧めて言った。毎年この時期にだけやって来る男爵の目的は分かっている。


「遺言のことでしたら何度来ていただいても同じですわ。わたくしには何の権限もございませんもの」


 モーリスはアメリアが勧めた椅子には座らずにちらりとジェイキンスを見た。

 夫には子供がいなかったから、甥に当たるモーリスが正式な公爵の後継者だ。当然、ジェイムスが亡くなった後は彼がセントネービス卿を名乗れる筈だった。ところが公爵は二通の遺言状を遺した。一通は葬儀の後間を置かずに開封され、モーリス卿はその遺産の殆どを相続した。アメリアにはロンドンのタウンハウスと信託預金が遺された。しかしその遺言状に記されていたのはそれだけではなかった。


 バイブリーのマナーハウスは所有者を定めず現状を維持すること。

 遺言状はもう一通あり、然るべき時が来れば開封されること。

 その遺言状が開封されるまで、何人もセントネービス公爵を名乗ってはならないということ。


 その不可解な遺言の所為でモーリス卿は公爵を名乗ることが出来なくなった。そして公爵の命日が近付くとアメリアを訪ねて来ては遺言状の開封を迫る。

 それがいつになるにしろ、開封されるのは命日だとジェイキンスが明言したからだ。しかしジェイキンスは『然るべき時』がいつなのかについては頑として口を開かなかった。

 だから、いくらモーリスに迫られてもアメリアは途方に暮れるばかりだ。その遺言状を見たこともないのだから。


「弁護士にお訊ねになったら?」


 毎年と同じ提案をアメリアがする。


「あの男は何も知らん」


 毎年と同じ答えをモーリスが返す。


 そこへお茶とお菓子の載ったワゴンを押してジェイキンスが入ってきた。カップの置かれた席に渋々腰を下ろした男爵がたっぷり三杯砂糖を掬って混ぜるのをアメリアは見守った。

 開け放ったフランス窓から風が夏草の香りを運んでくる。もうすぐ社交シーズンも終わりだ。ロンドンも静かになるだろう。

 アメリアがひっそりと公爵の死を悼む夏がやってくる。


「だいたい遺言状なんて本当にあるのか?」


 モーリスが二つ目のスコーンにたっぷりとクリームを載せながら言った。その上から更に砂糖を散らすのを見てアメリアは眉を寄せた。一体この人の味覚はどうなっているのだろう。


「公爵があると仰ったのですから、もちろんあるのですわ」


 その点についてアメリアは少しも疑っていない。




「旦那様の遺言状でございますか?」


 珍しくジェイキンスが口を挟んだ。


「そうだ。開封されていないもう一通だ」


 モーリスが答える。三つ目のスコーンに砂糖をかけていた。


「それでしたら、今年の旦那様の命日に開封致します」


 アメリアのカップに紅茶を注ぎ足しながらジェイキンスが言った。まるで以前から予定されていたパーティーの話でもするみたいに。

 砂糖とクリームにまみれたスコーンがテーブルの上にぽとりと落ちる。


「何だって?」


「遺言状を開封致します」


 落ち着いた声でジェイキンスが答える。


「然るべき時が来たということか?」


 モーリスの顔が赤らんできた。


「左様でございます」


 ジェイキンスは落ち着き払っている。

 がたんと音を立ててモーリスが立ち上がった。


「命日と言ったな?」


「はい。改めてご案内させていただきます」


 訪れるときも騒がしかったが、出て行くときにも騒がしい。モーリスがバタバタと大きな音を立てて去って行くと、アメリアはくるりと目を回して溜息を吐いた。紅茶を啜ってジェイキンスを見上げる。


「あなたのすることにはいつも意味があるわよね?」


「もちろんでございます」


 執事はゆったりと微笑んだ。


「総て、旦那様とアメリア様の為に」

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