初夏  嫉妬

 エリザベスの言い分は決して大袈裟ではなかった。

 その夜、アメリアはひっきりなしに誘われるダンスを断るのに大方の時間を費やした。やっと伯爵の屋敷を辞した頃にはぐったりと疲れ切っていた。


 月が随分西に傾いていた。メイドがバスタブに湯を運んでいる間もアメリアはソファにぐったりと寄りかかっていた。用意が整った風呂に浸かりベッドに入ったアメリアはすぐに眠りに落ちる筈だった。

 しかし、どういう訳か横になった途端にエリザベスの噂話が蘇ってきてしまった。


『イザベラがローウッドに振られたのですって』


 イザベラは美しい娘だ。今年二十歳になったばかりで、一昨年ケズィック男爵と結婚した。

 ケズィックは結婚前からかなりな放蕩者で、結婚してからもその生活を改める気は更々ないらしかった。一方のイザベラも、男爵のそんな仕打ちを気にする風もなく浮名を流している。という噂だ。

 だから、あのときアメリアは笑ったが、エリザベスの話にはそれなりに信憑性があった。アメリアが信じたくなかっただけだ。

 エリザベスは早熟ませたことを言うくせに初心で可愛らしいとアメリアは思った。


 瞳が潤んでいるのは、泣いたからとは限らない。

 公の場で近付かないのは、反目しているからとは限らない。


 アメリアと会うすぐ前に、若しくはすぐ後に、二人の間に何かあったのだろうか。

 考えるだけでも嫌だった。イザベラがクイルに触れたかもしれないと思うと、全身の血が沸き立つほど腹が立った。そんな感情を持ってはいけないと言い聞かせても、理性は何の役にも立たなかった。



 アメリアは眠るのを諦めてベッドの上で起き上がった。

 殆ど透けているナイトドレスの上からクイルが付けた跡を指でなぞる。もう微かにしか残っていない紅い花びらを丹念に擽って次の花びらを探す。薄い衣越しに肌が艶付いてゆきアメリアは堪え切れずに敷布に沈んだ。


 クイルがそうしたように、ゆっくりと指を下に滑らせてゆく。

 甘い吐息が漏れた。

 この指がクイルのものだったらいいのにと思った。

 目尻に涙が滲んだ。




     *




「お手伝いしましょうか?」


 不意に声をかけられてアメリアはびくりと体を震わせた。まるで縫い止められたように体が動かない。脱いだ上着を椅子の背に掛けて近付いてくるクイルをアメリアは茫然と見上げた。


「ねえアメリア。あんな風に見つめられたら、男はその気になるものですよ」


 クイルは当然の権利のようにアメリアのベッドに上がった。上気した頬を撫でながら囁くクイルにアメリアは小さな声で反論する。


「嘘。だってあなた、こちらを振り返りもしなかったわ」


 恨みがましくならないように気を付けた筈なのに、クイルは低く笑ってアメリアの頬に接吻けた。


「かわいい人。同じ空間にいて私が貴女に気を払わないことはありません。もちろん、貴女が見つめているのにも気が付いていましたよ」


 するりと下りてきたクイルの指が、アメリアの首筋に残る微かな紅色に触れた。


「もうこの痣も消えてしまいますね」


 それを優しく辿られてアメリアは小さく呻いた。


「また付けて欲しいですか?」


「そんな……そんなこと……」


 自分の反応にアメリアは狼狽えた。クイルを遠ざけなければ、という常識的な考えさえ浮かんでこない。ただひたすらにクイルを求めている。

 首筋にクイルの唇を感じたとき、アメリアの心に溢れたのは純粋な悦びだった。


「ほら」


 強く吸われて再び艶付いた花びらをクイルが舌先でなぞる。アメリアは背を反らせて喘いだ。


「綺麗ですね。まるで薔薇の花びらが散ったようだ」


 アメリアの身体に刻まれたしるしがひとつずつ息を吹き返してゆく。


「あの貴族たちは貴女の何を見ているのでしょうね? 何故気が付かないのでしょう。貴女はこんなに熱いのに」


 ナイトドレスの胸元まで花びらを散らせたクイルの唇が、一度離れて薄い布地越しに胸のふくらみに触れる。


「もっとも、今夜カーライル伯爵の屋敷にいた方々は気付いたかもしれない。本当の貴女がどれ程美しいか」


 クイルの愛撫は執拗だった。何度も、何度も。解放されたと思ったら指に絡め捕られ、唇は反対の頂を見つける。


「あのような貴女を知っているのは私と……公爵だけだと思っていました。今は私だけだと」


 どこもかしこもが熱く溶けてしまったようで、アメリアは真面にものが考えられなかった。ふるふると首を振り枕に指を食い込ませる。


「でも、こんな貴女を知っているのは私だけですね」


 クイルが伸び上ってきてアメリアの唇を捕えた。深く接吻けられた悦びと、敏感な部分への愛撫を中断された落胆にアメリアが啜り泣きを漏らす。


「ねえアメリア」


 接吻けの合間にクイルが言った。


「先程から気になっていたのですが、これは邪魔ですよね?」


 呟きながらアメリアのナイトドレスをひょいと持ち上げる。布地が引っ張られてアメリアの白い腿が露わになった。


「脱がせても構いませんか?」


 ぼんやりと霞のかかった頭でアメリアは考えた。


「駄目よ」


「何故?」


 なぜかしら? アメリアはその問いへの答えを見つけられなかった。

 それでも、駄目よと繰り返す。


「アメリア、本当に止めさせたいのなら、駄目ではなくて嫌だと言ってください」


 クイルがアメリアの髪を撫でる。アメリアは潤んだ瞳でクイルを見上げた。


「駄目なことは充分承知しているのです。でもね、アメリア。私はそれを無視することに決めました。けれど、貴女が本当に望まないのなら私には出来ません。だからアメリア、止めて欲しければ嫌だと言ってください」


 クイルはゆっくりと優しく髪を撫で続ける。それはとても心地好くてアメリアの思考を奪ってしまう。


「わたくし……」


 アメリアは懸命に言葉を探した。

 こんなに探しているのにイエスという一言しか浮かんでこないなんて忌々しい。

 こんなにクイルが欲しいなんて愚かしい。


『アメリア、よく憶えておきなさい』


 何故こんなときに公爵の言葉を思い出すのだろう。


『貴女の幸せが私の幸せ』


 アメリアはかぶりを振った。駄目だ。そんなのは狡い。


『恋をなさい、アメリア』


 アメリアの瞳から涙が溢れた。


「泣かないでください」


 クイルが流れた涙を唇で掬い取る。その優しい仕種に涙はますます流れ出た。


「泣かないでアメリア。貴女を愛しています。貴女の幸せが私の幸せ。どうか、泣かないでください」


 甘い囁きがアメリアを包む。


 公爵と同じことを言うなんてクイルは狡い。


 アメリアは手を伸ばしてクイルのシャツを掴んだ。



「いいわ」


 消え入りそうな声でアメリアは言った。ダンスカードを手に立ち上がったときよりも、ずっと勇気が要った。

 クイルが驚いたように目を瞠る。

 次の瞬間、痛いくらいに抱き締められた。

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