春 しのび逢い

 その日の午後、広間で独りぼんやりと本のページを捲っていると戸口に人の気配がしてアメリアは顔を上げた。


「どうやって入ってらしたのかしら」


 アメリアは本をぱたんと閉じて言った。クイルは肩を竦めただけで何も言わない。アメリアは暫くクイルを見つめていたが、やがて溜息を吐いて顔を逸らした。カウチの端に本を置きスカートの襞を撫でつける。


「何をしにいらしたの?」


「貴女に逢いに」


 その質問にはクイルはすぐに答えた。


「せっかくいらしたのだから、どうかゆっくりしてらして。ジェイキンスを呼ぶわ。わたくしは失礼してもよろしいかしら」


 アメリアはかぶりを振って立ち上がった。そのまま出て行こうとしたが、戸口に立つクイルに行く手を阻まれる。


「行かないでください」


 触れられた訳ではないのに、アメリアは弾かれたように一歩後退った。カーライル伯爵の図書室で苛まれたときのように、膚が粟立って鼓動が乱れる。それは警戒ではなくて期待なのだとアメリアは知っていた。けれどそれを認める訳にはいかない。


「ジェイキンスを呼ぶわ」


 アメリアはもう一度言った。ふたりきりで居たくなかった。自分が何をするか分からなくて怖かった。


「彼は来ませんよ」


 クイルがそう言っても、アメリアは少しも驚かなかった。もちろんそうだろう。二人はグルなのだから。


「あなたたちが何を考えているのか、ちっとも分からないわ」


 アメリアは溜息混じりに言った。


「ジェイキンスが何を考えているのかは私にも分かりませんが」


 クイルがすっと手を上げる。頬を薄く掠められてアメリアは身体を震わせた。昨日接吻けられたところが熱く疼く。


「私が何を考えているかは今朝お伝えした筈です」


 蝶が。


 アメリアは公爵の美しい標本を思い出した。美しく翅を広げたそれは少しも羽ばたかなかったのに、アメリアの蝶は姿は見えないくせに煩いくらいに翅を震わせる。


「夕べもお伝えしたでしょう?」


 クイルの指先がアメリアの顎を捉えた。


「それからお詫びを。申し訳ありませんでした」


 アメリアは動けなかった。

 蝶が煩い所為だ。

 そっと唇をなぞられて期待に頬が染まる。理性でいくら否定してもクイルを求める本能を止めることが出来なかった。


「貴女をひどく苦しめたこと。後悔してもしきれない」


 クイルの瞳が苦痛に歪む。唇に触れる指が刹那動きを止める。


「貴女に赦してもらいたいなんて、虫のいい話です。だけどそれでも」


 クイルの指はあやすようにゆっくりと動いた。アメリアは自分の鼓動が激しく打っているのか、それとも止まってしまったのか、それすらも判らなかった。


「私は貴女が欲しい。どうかイエスと言ってください」


 はいと答えたかった。何もかも投げ出したかった。けれど、アメリアの肩には大切な人たちの生活が、名誉が懸かっている。


「いいえ。あなたがしたこと、怒ってないわ。だけど私の答えは変わらない。あなたにも分かっている筈よ」


 アメリアは静かに言った。


「ええ、分かっています」


 クイルの指がアメリアの頬を滑り落ちる。


「ではお茶を」


 穏やかに笑ってクイルが言った。


「お茶をご一緒させていただいてもよろしいですか?」


 アメリアは一瞬躊躇ったが、いいわと答えた。


「どうぞお座りになって。今用意させるわ」


 アメリアはクイルを残して部屋を出た。閉めた扉に寄りかかって大きく息を吐く。

 心臓がどきどきした。


 クイルをお茶に招いてしまった。そのくらい、許される気がした。

 ひとつ許せば次が欲しくなるものだが、そのことには蓋をした。


 アメリアは今度は小さく息を吐き、背筋を伸ばしてスカートの襞を撫でた。厨房に向って歩き出す。誰かを呼ぼうとは思わなかった。

 どうせ誰も来ない。

 ジェイキンスの仕事は徹底している。彼が誰も寄せ付けないと決めたのなら、たとえ女王陛下でもあの部屋には近付けないに違いない。アメリアは苦笑した。


 何を考えているにしても、ジェイキンスはきっと思い通りに事を進めるだろう。

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