春  約束

「泣かないでください」


 細い指を握られて低い声で囁かれ、アメリアは物思いから醒めた。慌てて手を引こうとしたが、軽く握っているだけのクイルの手を振り解くことが出来ない。


「泣いてないわ」


 空いている方の手でシーツを引き上げながらアメリアは言った。冷たい拒絶の混じったその声に常なら皆言葉を失う。温かみのない深い青の瞳と相俟ってアメリアが冷たい青い薔薇と称される所以だ。

 しかしクイルは気にした風もなくそうですかと言ってアメリアの指先に接吻けた。


「もうすぐケイトが起こしに来るわ」


 内心の動揺を隠して冷たく告げる。しかしその科白にも、クイルはそうですかと呟いただけだった。


「ミスター・ローウッド。解ってくださらないかしら。あなたにここに居られると、わたくしとても困るのよ」


 クイルは漸く顔を上げた。まじまじとアメリアを見つめて首を傾げる。


「何故?」


 片肘を突いて半身を起こしたので、シーツがはらりと落ちてクイルの引き締まった胸と腹の筋肉が露になった。昨夜その滑らかな凸凹に指を這わせたことを憶えている。アメリアは顔を背けた。

 着るものを探して視線を動かすがそれらしきものが見当たらない。頭の中で目まぐるしく昨夜の記憶を探ったが、どうしても何時いつどうやって服を脱いだのか思い出せなかった。

 途方に暮れているとベッドが軋んでクイルが立ち上がった。

 朝日が照らし出した背中から足首までの筋肉は先程のものよりも刺激が強く、呻き声が漏れそうになるのを抑えるのにアメリアは意志の力を総動員しなければならなかった。クイルは裸のまま部屋を横切って行く。

 アメリアはその姿を追いたい誘惑と戦ってそっと息を殺していた。そうして息を詰めているとクイルが再び近付いてきてアメリアの肩にそっとナイトガウンを掛けてくれた。


「多分、貴女が呼ぶまでケイトは来ないと思いますよ」


 髪を撫でるように耳元で囁かれて背中の毛がぞくりと逆立つ。首筋まで朱に染まるのをどうすることも出来なかった。


「何故?」


 問い返すアメリアの声は僅かに震えていた。クイルに対して動揺を隠すのは容易ではない。特に他人の目のないところでは。

 くすりと笑ったクイルの息がまた、アメリアの髪を擽った。態となんじゃないかと思う。誘惑に屈してしまいそうで不安になる。


「非常に強力な味方を得たのですよ」


 直接触れられている訳ではないのに、クイルはとても近くてアメリアを落ち着かなくさせる。吹き荒れる嵐のような鼓動も朱に染まる肌も、アメリアの意志に従うつもりはないらしい。


「貴女を誘惑するのに」


 低く囁かれてアメリアは息を呑んだ。


「キスしてもいいですか?」


 昨夜も同じ問いを掛けられたと、アメリアはぼんやり思った。

 わたくしは、いいわと答えたのだ。


「わたくし……」


 声が震えてしまい、アメリアは一旦言葉を切った。


「いいえ」


 体の向きを変えてクイルを見上げる。毅然とした声が出たことにほっとした。


「いいえ、よくないわ」


「昨夜は構わないと仰いましたよ」


 クイルの視線が肌に散った紅い跡に落ちていることに気付いて、アメリアはガウンの衿をきつく合わせた。


「憶えていないわ」


 素っ気なく言う。

 クイルはきっと食い下がってくるだろうと思ったのに、あっさりそうですかと言ってアメリアから離れた。


「貴女がそう仰るなら」


 ひとつずつ衣類を身に着けてゆくクイルをアメリアは見守った。やがてすっかり身支度を整えると、クイルは少し離れたところで振り返りにっこりと笑った。


「また来ます」


 落胆の大きさにアメリアはたじろいだ。ほっとしなければならないのに、がっかりしてしまった。クイルが一歩近付くと安堵の溜息が漏れた。


「挨拶のキスならしても構いませんか?」


 クイルが言った。アメリアの胸で蝶が一斉に羽ばたいたように鼓動が跳ねた。


「もちろん、挨拶なら構わないわ」


 礼儀正しく答える。

 クイルが二歩近付いてアメリアの前に立った。そっとクイルの頭が下りてきて、アメリアの頬を唇がさっと掠めた。それは挨拶としても素っ気なさ過ぎるくらいのキスだった。


「また来ます」


 クイルがもう一度言った。


「もう来てはいけないわ」


 アメリアが答える。


「私もそう思います」


 クイルが笑った。


「しかしこれは命令なので、私はまた来なければなりません」


 クイルが手を伸ばしてアメリアの頬に触れた。アメリアは逆らわなかった。


「愛しています」


 優しく頬を撫でられて、うっとりと目を閉じたくなるのをアメリアは必死で堪えた。


「そんなことを言ってはいけないわ」


「知っています」


 クイルは相変わらず穏やかに微笑んでいて、一体どうして急に堂々と求愛する気になったのだろうとアメリアは訝った。


「命令と仰った?」


「さあ? そんなこと言いましたか?」


 アメリアが拒絶しないので、クイルは頬に当てた指をゆっくり滑らせた。


「夕べ私が言ったことを憶えていますか?」


 クイルの指がアメリアの顎を捉えた。


「いいえ。何も聞いていないもの」


 アメリアは惚けて言った。

 昨夜の夢を現にするつもりはない。

 クイルは低く笑った。もちろんそうでしょう、と言うように眉を上げる。


「貴女を愛しています」


 静かな声でクイルが言った。真剣な瞳がアメリアを見つめる。


「私の総てを貴女に捧げます。どうか、私のものになってください」


 昨夜の告白をそのままに告げられてアメリアは息を呑んだ。こんなにしっかりと目が覚めていては夢の所為にして逃げることは出来ない。

 震える唇にクイルのそれがそっと重なる。

 アメリアは押し返すことも、もちろん応えることも出来なかった。


「また来ます」


 クイルは返事を待たなかった。アメリアが肯定しないことをちゃんと解っているのだ。そして、否定もさせないつもりだ。

 静かに閉まった扉をアメリアは凍りついたまま見つめた。


 肯定するつもりはなかった。しかし、否定もしたくなかった。

 途方に暮れて、アメリアはいつまでも扉を見つめていた。

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