春  決意

 クイルは傍らで寝息を立てるアメリアを見つめた。

 つい先刻同じように見つめたその顔は、今は満ち足りた微笑みを湛えている。頬には赤みが差し、唇は繰り返した接吻けの所為でふっくらと腫れ上がっている。先刻と同じように張りついた前髪を払ってやると、小さく溜息を漏らしてクイルの裸の胸に擦り寄ってきた。



     *



『寧ろ積極的にこちらに通っていただきたいのです』


 ジェイキンスの言葉が蘇る。執事の思惑が量れずクイルは無言で先を促した。


「このところのアメリア様のご様子はとても見ておれません。それには貴方様も少なからず咬んでいらっしゃるのではございませんか? アメリア様は誰かが不都合をこうむると分かっておいでのときに我を通したりはなさらない方です。しかし、欲しいと言わないからと言って欲していない訳ではないのです」


 お分かりでしょう? とジェイキンスはクイルを見つめた。


「私は公爵様よりアメリア様のことはくれぐれもと申し遣っております。アメリア様にはお幸せになっていただきたい。その為には貴方が必要です」


 ジェイキンスはクイルの目をじっと見据えたまま言った。


「どうかこちらに通っていらしてください」


 それを聞いて、クイルは小馬鹿にしたように鼻を鳴らした。


「公爵夫人は愛人をご所望なのか?」


 胸の前で腕を組み、長い脚を組む。深くソファに身を沈めて顎を上げ、蔑むようにジェイキンスをねめつけた。


「それはご立派な評判を疵つけてまで必要なものか?」


 必死で抑えている劣情を煽るような真似を何故するのか。クイルは腹が立った。言われるまでもなくそうしたいのだ。そして、そうしてはいけないのだ。

 この老獪な執事にそれが解らない訳はなかろうに。


「必要です」


 落ち着いた執事の言葉にクイルの張り詰めた神経は今にも切れそうになった。斜に構えて威嚇するよりも、喚き散らして泣きたくなる。


「まったく、貴方の考えていることは理解出来ない」


 クイルは肩を竦めて溜息を吐いた。


「私は確かに彼女を追い詰め過ぎた。我が身かわいさに抑制が効かなかった。そのことについて責められるなら甘んじて受けよう。しかし、彼女の品位を穢すような真似を私がすると思っているのなら、その考えは改めてもらわなくてはならない」


「もちろん、アメリア様の品位を穢していただいては困ります」


 ジェイキンスは相変わらず落ち着いていてクイルの神経を逆撫でする。


「アメリア様の評判を守ったうえでこちらに通っていらしてください。屋敷の方の人払いは致します。外でのことに関しては貴方が責任を持ってください。アメリア様はきっと拒絶なさるでしょうから、それも貴方が何とかなさってください。拒絶はアメリア様の本意ではありません」


 いくら何でも無謀すぎるとクイルは思った。

 ロンドンの暇な貴族たちの(とりわけ噂好きな貴婦人たちの)口に上らないように女性の許に通うなど到底不可能だ。

 この社交シーズンの真っただ中に? メイフェアの中心にあるこのタウンハウスに? まったく正気の沙汰とは思えない。


「いったいどうしてそんなことが可能だと思うんだ?」


 クイルは呆れて言った。


「可能かどうかは問題ではないのです」


 クイルの言葉にジェイキンスは片方の眉をぴくりと動かした。丸い眼鏡の向こうで皺に囲まれた明敏な目がすっと細められる。


「出来ますかとお伺いしているのではございません。してくださいとお願いしているのです」


 長年公爵に仕えたこの執事は、昨今の甘えた若い貴族たちよりよほど威厳がある。クイルは無意識に背を伸ばした。


「もちろん、アメリア様に愛人など必要ありません。貴方にはアメリア様の恋人になっていただきます。そうですね、二月ふたつき以内に」


 最早お願いですらないな、とクイルは思った。どうやらこれは命令らしい。


「わかった」


 少し思案してクイルは言った。断れる筈もない。結局、それこそがクイルの望みなのだから。


「それで具体的な話だが」


 クイルが手招きするとジェイキンスが傍に来て膝をついた。



     *



 今、寝息を立てるアメリアの表情はとても穏やかで満ち足りて見える。アメリアの縺れた髪をクイルは愛おし気に梳いた。


 どうやらアメリアは先程の一連の行為を夢だと思っているようだった。そうでなければクイルを受け入れたりはしなかっただろう。しかし、アメリアの肌にはクイルの付けた標が無数に散っているのだから、目覚めればすぐにそれと気付くに違いない。

 クイルはアメリアの蜂蜜色の髪に唇を寄せた。


 何れにせよ、アメリアは本心を打ち明けた。

 クイルは覚悟を決めた。

 小石は坂道を転がり始めた。

 何処かにぶつかるまで、それは止まらないのだ。

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