春  夢

「アメリア?」


 優しく名前を呼ばれたから、もちろんこれは夢だと思った。

 恐る恐る目を開けると優しい顔のクイルが見下ろしていて、やはりこれは夢なのだとアメリアは確信した。


「クイル?」


 夢のなかでなら、名前で呼んでも構わないだろう。何より、クイルがそうしているのだから。


「ええアメリア。私ですよ」


 優しく髪を撫でられてアメリアの瞳に涙が溢れた。

 これが現実ならどんなに素晴らしいだろう。こんな夢を見るなんて、私はなんて愚かなのだろう。


「何故泣くのです?」


 クイルの優しい指がアメリアの頬を拭う。


「あなたが欲しいわ、クイル」


 アメリアはクイルの手に自分のそれを重ねて言った。


「いけないと知っているのに。恨まれているのも分かっているのに。それでもわたくしは、あなたが欲しいの」


 止まらぬ涙はふたりの指先を流れて頬を伝う。嗚咽が漏れたがアメリアは気にしなかった。これは夢なのだから。


「アメリア」


 クイルの指が涙の後を追うように頬を滑った。


「キスしてもいいですか?」


「いいわ」


 いけない理由があるだろうか?


 クイルの顔がそっと近付いてきて、唇が頬に触れた。

 そこでは嫌だと、常のアメリアなら決してしないような懇願が口をついて出るのも、これが夢だからだ。引き寄せようと伸ばしたアメリアの腕を掴まえてクイルが溜息とも苦笑ともつかない声を漏らす。


「私を欲しがるということがどういうことか解っていますか?」


 アメリアは動きを止めた。ただじっとクイルを見つめる。


「解っているわ」


 腕を掴まれているから、顔を隠すことが出来ない。この狡い女の顔を、何より愛しいクイルに見られたくはないのに。


「あなたが抱き締めてくれるなら、他には何もいらないわ。公爵未亡人の地位なんて惜しくないわ。タウンハウスも社交界も、父や母も、失くして構わないわ。たとえ夢のなかだけだって、あなたが抱き締めてくれるなら、他には何もいらない」


 アメリアの瞳が揺らぐ。


「わたくしは狡いわ。公爵様はわたくしの為に娶ってくださったのに。とても大切にしてくださったのに。それを要らないと言うなんて。ジェイキンスやケイトはどうなるかしら? 両親は公爵家からの援助なしではきっとやっていけないわ。きっと、皆が困るわ。なのに、わたくしは皆の幸せよりもあなたのキスひとつの方が欲しいの」


 美しい青い瞳に涙が溢れる。岩に清水が湧き出すように静かに。クイルはそれをそっと掬い取った。


「あなたが欲しいわ」


 アメリアが囁くように言った。


「私も貴女が欲しい」


 掴んだままのアメリアの指先にクイルは接吻けた。


「貴女から何もかも奪ってしまうと解っているのに」


 細い指の一本一本に接吻ける。


「私は夢のなかだけでは嫌なのです。朝も昼も夜も、夢のなかでも、貴女を抱いていたい」


 クイルが顔を寄せてきてアメリアは目を閉じた。唇が合せられてアメリアが満足気に溜息を漏らす。


「愛しています」


 唇を離してクイルが言った。潤んだ瞳をじっと見つめる。アメリアも見つめ返した。


「私の総てを貴女に捧げます。どうか、私のものになってください」


「ええ」


 アメリアは震える唇を両手で覆った。


「ええ、ええ……! あなたのものになるわ、クイル。わたくしも総てをあなたに捧げるわ。愛してるわ」


 涙が止まらなかった。

 なんて素敵な夢だろう。

 神様はなんて残酷なのだろう。

 望む以上のものを与えて、朝になれば全部奪っていってしまうくせに。


 呼吸まで奪うように唇を重ねられてアメリアは唇を開いた。自分から舌を這わせてクイルを求めた。はしたないとは思わなかった。

 これが朝露のように消えてしまう夢だとしても、一滴ひとしずくも零したくなかった。



     *



 触れ合う肌と肌が熱い。


 なんてリアルな夢だろう。

 クイルの動きを追うように背を反らせながらアメリアは思った。


 あの頃、彼の手はこんなに熱かっただろうか。

 唇はこんなに激しく求めていただろうか。

 鼓動は狂わんばかりに打っていただろうか。

 まるで溶け合いそうなくらい、膚は合わさっていたのだろうか。


 全身にキスの雨を受けてアメリアの白い肌に紅い花びらが散る。ひとつそれが散る度にアメリアは身体を震わせた。




 朝なんか来なければいい。



 途切れ途切れに甘い悲鳴を上げながら、アメリアは広い背中に腕を回してクイルに縋りついた。

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