春 努力と覚悟

 クイルは静かに寝息を立てるアメリアの傍らに腰を下ろし、汗で額に張り付いた前髪をそっと払った。そのまま指を滑らせた頬は蒼白く、目の下には隈が浮いている。入念な化粧の下に覆い隠した苦悩にクイルの心が痛んだ。


 こんな風にアメリアを追い詰めるつもりではなかった。

 この七年必死に働いたのは、アメリアに求婚できる立場に立つ為だった。広大な屋敷を構えるだけの資産と貴族と対等に渡り合えるだけの力があれば、それが手に入るのだと思っていた。

 しかし、アメリアに近付く為の七年は、埋まらない距離を思い知る為の七年だった。


 あのまま、パン屋の息子のままでいれば、領主の奥方に懸想する後ろめたさは感じても、欲しいものを欲しいと言うことに躊躇いを感じたりはしなかった。求めることも、思いを寄せることすら許されないのだと、知らずに済んだ。

 あのとき、欲しいものと失いたくないものは違うと呟いたアメリアの言葉が蘇る。


 アメリアを欲しいと認めることは彼女を永遠に失うことだ。戯れに肌を合わせることは許されても、その先を求める権利が自分にはない。


 身動ぎしたアメリアの吐息が指にかかり、クイルは弾かれたように腕を引いた。視線を逸らそうと壁に目を向けて、そこに掛かる小さな額に息を呑む。

 茶色く色褪せた押花には見覚えがあった。

 かつて白かったそれを嬉しそうに抱えるアメリアを憶えている。



     *



 空は澄み渡って木々は青く、笑い声に満ちていた。

 妹のソニアが投げたブーケが、たまたま通りかかったアメリアの腕のなかに落ちたのだ。

 長い片恋の末の結婚だった。傍から見れば想い合っているのは明らかなのに、何故さっさと想いを告げて結ばれないのか。あの頃クイルは訝ったものだった。


 好きだと言ってキスをして、抱き合うことの何がそんなに難しいのか。


 アメリアを腕に抱きながらクイルは言った。

 欲しいものを欲しいと言いさえすれば手に入るのだと。自分は手に入れていると。

 困ったようなアメリアの微笑みも、ソニアの躊躇いも、クイルには解らなかった。


 失くして初めて気付いた。


 公爵が身罷っただけで、手に入れているつもりだったものは指の間から擦り抜けてしまった。クイルにはアメリアを引き留める術がなかった。彼女が去ったという事実さえ知らされなかった。

 その権利がないのだと、その時初めて気付いた。




 だから頑張ったのに。上り詰めたその先でさえ、アメリアの足元にも届かない。


『相応の努力と覚悟が必要ですよ』


 クイルに姓を与えたとき、公爵は言った。

 努力はした。けれど、肝心の覚悟が自分には足りなかったのだ。アメリアの拒絶を受け止める覚悟すらなかった。


 クイルは再び、眠るアメリアを見下ろした。

 愛おしさと狂おしいほどの渇望が押し寄せてきて、頬に指を滑らせそっと接吻ける。


『欲しいものと失くしたくないものは少し違うわね?』


 アメリアの言葉が蘇る。それらはやはり同じだとクイルは思った。

 欲しいと思うのも失くしたくないと思うのもアメリアだけだ。

 ただ、欲しいと思う気持ちと失いたくないと思う気持ちは必ずしも同居しない。アメリアを永遠に失うくらいなら、手に入らなくていい。

 傍らに腰掛け、愛しい寝息を聞きながらクイルは思った。



     *



「ミスター?」


 控えめなノックと共に遠慮がちに声を掛けられてクイルは顔を上げた。戸口まで歩いて扉を細く開ける。


「ジェイキンスさん」


「ジェイキンスで宜しゅうございますよ。ミスター・ローウッド」


 腰を折ったまま答えるジェイキンスの態度がクイルの立場が上がったことを示している。だが十分ではないのだ。白いものの多くなった執事の頭を見下ろしながらクイルは思った。


 爵位は、買おうと思えば金で買える。そして爵位があれば、アメリアに求婚することが出来る。表向きは養子縁組や婚姻といったかたちをとって、それは公然と売買される。それほど困窮している貴族はごまんといる。彼らは見栄ばかりを気にして資産と生活のレベルを合わせることをしない。霞を喰いながら生きていけるとでも思っているのだろうか。

 クイルには望めば貴族になれるだけの金がある。そしてクイルはそうなりたかった。しかし、子爵や男爵の称号を買ったところで公爵未亡人のアメリアとはやはり釣り合わないだろう。


「少しお時間を頂戴しても宜しゅうございますか?」


 控えめなジェイキンスの言葉がクイルの物思いを遮った。


「あちらにブランデーをご用意致しましたので」


 クイルは一瞬躊躇ったが頷いた。振り返って見るとアメリアは静かに寝息を立てている。

 その姿を焼き付けるように見つめて、そっと扉を閉めた。



     *



 クイルはソファに深く座って長い脚を組んだ。テーブルに置かれたブランデーのグラスをちらりと見たが手は伸ばさなかった。代わりに戸口に立つジェイキンスに目を向ける。

 控えめな態度にクイルは苛々と髪を掻き上げた。ジェイキンスの態度は使用人としては正しいが、貴族ではないクイルにしてみればまどろっこしい。言いたいことがあるのなら、主人の許しを待たずに話せばいい。そもそも、クイルは主人でもないのだし。


「それで?」


 水を向けるとジェイキンスは僅かに頭を下げてやっと口を開いた。


「私から申し上げるのは些か差し出がましいのですが、奥様……アメリア様は決して仰らないと存じますので」


 含みを持たせるジェイキンスの言葉にクイルは顔を顰めた。


「確かに」


 苛立ちが募ってクイルはブランデーに手を伸ばした。熱い液体が咽を焼いたが気を静める役には立たない。


「今夜の行動は軽率だった。屋敷まで上がり込むべきではなかった。しかし、細心の注意は払ったつもりだ。二度としないよ」


 もちろん、クイルはこの行動が不適切であることを承知している。責められることに不服はない。

 アメリアが頽れたあの瞬間、自分の世界も崩れてしまったかと思った。心臓を鷲掴みにされて捻り上げられたようだった。常識も配慮も、冷たい恐怖に覆い尽くされた。確かに打っているアメリアの鼓動に縋りついていないとどうにかなってしまいそうだった。


「そうではございません」


 両手に顔を埋めたクイルにジェイキンスが静かに言った。


「寧ろ、貴方様には積極的にこちらに通って戴きたいのです」


 驚いて顔を上げたクイルにジェイキンスは片目を瞑って微笑んだ。


「もちろん、細心の注意を払って」

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