現在

現在  春  後悔

「いい加減にしろよ、クイル」


 小さな珊瑚の欠片を磨く手を止めてジャックは友人を睨みつけた。磨いていた珊瑚をトレイの上に置いて椅子の背を抱えるように向き直り、背凭れに顎を載せる。


「これ以上鼠みたいにうろうろ歩き回るつもりなら、俺はバイブリーに帰る」


 不機嫌に告げられてクイルは足を止めた。向けられた強い視線の中に僅かな同情を見て取ってクイルの肩が落ちる。


「すまない」


 ジャックに今帰られては困る。妹を拝み倒して連れて来たのだから。クイルにはジャックの助けが必要だった。それが分かっているから、ジャックも愛する妻と娘を置いてロンドンくんだりまで出て来てくれたのだ。

 しかし、だからといって気が鎮まる訳でもない。苛々と掻き上げると綺麗に整えられた髪が乱れて、クイルは舌打ちをした。


 出掛けたくない。


 顔を売る為にも商談の為にも社交の場に出ることは必要だ。

 しかしクイルはうんざりしていた。無責任な噂話にも嘘臭い微笑みにも。そして何より、逢う度にアメリアを傷付ける自分自身に。


「悪かった」


 手櫛で髪を整えながらクイルは言った。

 アメリアにもそうやって謝ってしまえばいいのかもしれない。

 きっといちばん初めに、冷たく『レディ・セントネービス』と呼び掛ける代わりに『アメリア』と呼んで抱き締めればよかったのだ。みっともなく恨み節を言う代わりに、愛していると言えばよかったのだ。


 臆病風に吹かれて逃げた所為でクイルはがんじがらめになってしまった。行動に整合性を持たせる為に、逢う度に冷たい視線を送り冷たい指でアメリアを苛んだ。


「好きだと言ってキスをして、抱き合うことの何がそんなに難しいんだ?」


 落ち着いた低い声で問われてクイルは顔を上げた。


 難しいさ。


 叫びだしたい衝動を抑えてジャックを睨みつける。


「怒るなよ」


 ジャックは肩を竦めた。


「昔、お前が俺に言ったんじゃないか。何がそんなに難しいんだ?」


 クイルは答えなかった。答える必要もなかった。何が難しいのかをジャックは知っている。かつて親友に同じ問いを投げたとき、知らなかったのはクイルの方だ。


「あの人を泣かせたらソニアが悲しむ」


 視線を逸らせたクイルにジャックが言った。


「俺はお前の行動にとやかく口を出したりしたくないが、ソニアを泣かせたら赦さないからな」


 自分こそ、散々ソニアを泣かせたくせに。クイルは思ったが口には出さなかった。それこそ言う必要のないことだ。その苦悩を乗り越えて二人は幸せになったのだから。


 ジャックは再び珊瑚を磨き始めた。ジャックの武骨な手からは、とても繊細な装飾品が作り出される。今磨いている桃色の珊瑚も、小指の爪ほどに小さくて薄いのに柔らかに波打っていた。トレイの上には同じような欠片が何枚も並んでいる。小さな薔薇の花弁のようなそれはアメリアを思い出させた。

 朝露のなかでくすくす笑う、愛らしい姿を。

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