夏 欲しいもの

「クイルはまだ子供なのね」


 くすくすと笑われて、クイルは声の主を軽く睨んだ。空をそのまま映し込んだような青い瞳が穏やかに彼を見返してくる。

 戸惑いのなかで始まった交際は、今では身に馴染んだものになってきている。アメリアの緊張が解け彼女が本来の落ち着きを取り戻すと、クイルは時折もどかしい思いを抱くようになった。


「そりゃあ、貴女から見たら私は子供でしょうよ」


 拗ねたような受け答えにクイルは内心舌打ちをした。その科白こそが子供の証ではないか。


「あら、そういう意味ではないのよ?」


 蜂蜜のように艶やかなブロンドの髪を高く結い上げたアメリアは、ありもしない後れ毛を気にするように軽く髪に触れた。いつもながら一部の隙もない。

 村の外れにあるお屋敷に住む彼女は自分たちとは違う種類の人間だ。本来なら交わるはずのない道が触れ合ったのは何の悪戯だろう。その綺麗な髪に巧みに編み込んだリボンの一片にさえ、ソニアは一生触れることも出来ないに違いない。

 艶々と輝くドレスの皺を伸ばすように撫でながらアメリアが立ち上がった。


「それはそうと、今日はスコーンを焼いたのよ」


 羽根のように軽やかにアメリアは歩く。


「それと、無花果のジャム」


 扉を開けて近くにいた召使に声を掛けると、向かいではなくクイルの隣に戻ってきた。


「食べてくれるでしょう?」


 小首を傾げて微笑む様も芝居の一場面のように隙がない。


「もちろん頂きますよ」


 触れ合ったとしても、決して交わることのない道だ。


「貴女のお菓子はとても美味しい。貴女と同じくらい……」


 クイルはアメリアをそっと引き寄せた。唇が触れ合う直前までアメリアはくすくす笑っていた。


「子供はこんな事しないでしょう」


 薄く開いた唇を首筋に滑らせながらクイルは呟いた。実際の年齢差が向けられた言葉以上にクイルを焦らせた。


「そうね」


 アメリアはなおもくすくす笑う。


 くそっ。


 クイルは心の中で毒づいた。腰をなぞられ呼吸が浅くなり始めてもくすくす笑い続ける彼女を溜息とともに開放する。


 好きだと言ってキスをして、抱き合うことの何がそんなに難しいのか――


 そう告げたクイルをアメリアは子供だと言ったのだ。


「私が言ったことはそんなに子供染みていますか」


 好きだと言ってキスをして、クイルは欲しいものを手に入れた。アメリアを。必要なのはほんの少しの勇気。それだけだ。

 アメリアはもう笑っていなかったが、片方の眉を少し上げてクイルに同調していないことを示していた。


「欲しいものを欲しいと言わなければ、手に入れることは出来ませんよ」


 挑むような口調になるところが子供なのだと思ったが、出てしまった言葉は仕方がない。クイルは合わせた両手を眉間に当てて黙り込んだ。


「そうね」


 同じ言葉をアメリアは繰り返す。

 穏やかに見つめ返すアメリアを憎らしいと思った。言い返そうと開きかけた口は、ひとつの言葉を発することも出来ずにまた閉じられた。

 控えめなノックとともに召使がトレイを手に現れても、ちらりと非難がましい目で見られても、一点を見つめたまま動かなかった。


 そんな目で見られなくても、自分が彼女に相応しくないことは承知している。でも、だからどうだというんだ? 俺はアメリアが欲しかった。そして手に入れた。


 クイルは紅茶を注ぐアメリアの仕草を見つめた。洗練された、社交界の所作を。差し出されたカップを受け取り口をつける。

 ふわりと微笑むアメリアを美しいと思った。


 自分は欲しいものを手に入れた。好きだと言ってキスをして、抱き締めることが出来る。何も問題はない筈だった。




     *




 心地よい倦怠感の中で微睡んでいたアメリアは震える瞼を開いて寝返りを打った。愛しい男はまだ夢の中を彷徨っているようだ。裸の胸に擦り寄って溜息を吐く。


 欲しいものを欲しいと言わなければ手に入れることは出来ませんよ――


 くすりと、アメリアは微笑んだ。可愛いクイル。そういう真っ直ぐなところが大好きだ。

 でも。


「欲しいものと失いたくないものは少し違うわね……」


 アメリアは呟いた。

 欲しいと思うだけなら、怖いものなどひとつも無いのだ。


 溜息が零れた。先程の満ち足りたものとは別の種類の。

 アメリアは更に身を寄せた。クイルの背に腕を回して抱き締め、足を絡ませる。


 今この瞬間、クイルは私のものだ。そして私はクイルのもの。規則正しく打つ鼓動さえ愛おしいと思う。執着しないことだ。傷付きたくなければ。


 いつの間にかクイルの温かい腕に包まれていた。はっとして見上げたが、クイルは静かに呼吸を刻んでいる。少し髭の生えた顎にキスをして目を閉じた。

 そして、すぐに心地よい眠りに堕ちていった。




     *




 失いたくないもの?


 アメリアの寝息を聞きながらクイルは目を開けた。乱れて絡まった金色の髪を梳きながら考える。

 欲しいと思うことと失いたくないと思うことは同じではないのか。せっかく手に入れたアメリアを手放したくないと思う。それはアメリアを欲しいと思うのと同じ感情のように思われた。

 どこが違う?


 優しく髪を撫でていた手が下へ滑ってゆき絡めた足の間に滑り込む。まだ濡れているそこへ指を這わせるとアメリアの唇から吐息が漏れた。


「起きてください、アメリア」


 花のような唇に接吻け白い脇腹をなぞる。


「もっと貴女が欲しい」


 キスを下ろしてゆくクイルの髪にアメリアの細い指が差し入れられた。


「わたくしもあなたが欲しいわ」


 切れ切れにアメリアが囁く。


 もっとアメリアが欲しい。



 どんなに求めても、幾度抱いても、渇望は治まらなかった。

 もっともっとと求めていた。

 渇望は募る一方で、失うことなど考えられなかった。

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