八年前

八年前 夏  片恋

「持って行かない」


 腕組みをして横を向いたクイルは、ふんと鼻を鳴らした。泣きそうに顔を歪めたソニアを見て一瞬緩みかけた表情を慌てて引き締める。涙を堪えてソニアが顔を上げたときにはもう厳しい顔に戻っていた。


「いい加減にしろよ、お前ら」


 可愛い妹が涙を堪えて震えているのを見るのは辛いが、いつまでも庇っていてはそれこそソニアを泣かせることになってしまう。苛々とクイルは頭を掻いた。


 クイルはソニアが差し出しているパン籠を見つめた。

 それはこのところ日曜毎の習慣になっている。


 ソニアがパンを焼き、クイルがそれを親友であるジャックに届ける。


 ソニアがパンを焼くのはジャックに逢う口実が欲しいからだ。

 ソニアの片恋はもうずっと長いこと続いている。そしてソニアは知らないが、ジャックの片恋はそれよりも前から始まっていた。


 それなのにここ最近、届ける役目がクイルに回ってくる。何かあったのだろうと容易に察しがついた。

 どこからどう見ても二人は想い合っているのに、何を躊躇っているのだろう。

 クイルには理解出来なかった。

 好きだと言ってキスをして、抱き合うことの何がそんなに難しいというのか。


「お願いよ」


 ソニアがクイルの腕に縋りつく。濡れた榛色の瞳で見つめられてクイルは溜息を吐いた。


 この目で見つめられるのは二度目だ。

 一度目もジャックの所為だった。六年も前の話だが。



 次第に少女へと成長してゆくソニアは、それでもクイルたちと遊びたがった。

 木に登り、野山を駆け、水に飛び込む。実際、ソニアはそこにいる大方の少年たちよりも器用にその遊びを楽しんでいた。

 根を上げたのはジャックだ。

 走り回って裾が捲れることに。濡れた衣が柔らかい肌に張りつくことに。その様が他の少年たちに晒されていることに。

 ジャックは耐えられなかったのだ。もう連れてくるな、とクイルはジャックに請われた。


「どうして?」

 濡れた瞳でソニアはクイルを見返した。到底納得出来ないと食い下がった。


 あの時、クイルは折れなかった。ジャックの為に。



 ちらりとパン籠を見遣る。

 逢いにも行けないくせに、ソニアは毎週朝早くからパンを焼く。

 六年前からずっと。

 気が付くとクイルはソニアの髪を撫でていた。ソニアはこの籠だけが自分とジャックを繋いでいると思っているのだ。


「今日だけだ」


 くしゃくしゃと髪を撫で、頬を挟む。


「次は持って行かない。絶対だ」


 じっと瞳を見つめるとソニアは目を瞬いた。


「いいな」


 頷くソニアを見てクイルは微笑んだ。

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