夏 お見合い? 

「アメリア」


 公爵に呼ばれてアメリアは顔を上げた。戸口に立つ夫がくすりと微笑むのを見て首を傾げる。


「今日は何を作っているのですか?」


 なおもくすくす笑いながら公爵が訊ねる。


「スコーンですわ。公爵様」


 捏ねた生地を丸くまとめてアメリアは答えた。


「ジャムもありますか?」


「もちろん。今日は無花果を煮詰めました。お口に合うといいのですけど」


 アメリアは小首を傾げた。


「貴女の作るジャムはいつもとても美味しいですよ。フランツも貴女には敵わないと言っていました」


 屋敷の料理長の名前を出されてアメリアの頬が喜びにほんのり染まる。公爵はそれを見て相好を崩した。


「鼻の頭に小麦粉が付いていますよ? 想像通り、とても可愛らしい」


 それでずっとくすくす笑っていたのだ。アメリアは慌てて拭おうとしたが、両手も粉だらけなことに気付いて溜息を吐いた。


「可愛らしいと言っているのに」


 公爵がまた笑う。


「ところでアメリア。今日はお客様がいらっしゃるのです」


「お客様?」


「ええ。とても大切なお客様です。その方の分も、スコーンとジャムを用意してくださいますか?」


 アメリアは驚いた。


「大切なお客様に、わたくしが作ったものをお出しして宜しいのですか?」


「大切なお客様だから、ですよ。アメリア」


 公爵は言った。


「今日のお客様は特に、ね。だからアメリア、うんとおめかししておいてください」


 言いながら公爵はアメリアを見つめた。


「その方もきっと、その鼻の頭を可愛らしいと仰ると思うのですがねえ」


 くすくすと嬉しそうに笑いながら、公爵は去っていった。



 スコーンをオーブンに入れて後のことをフランツに頼むと、アメリアは急いで部屋に戻ってケイトを呼んだ。

 ケイトは結婚前からアメリアの身のまわりのことをしてくれている侍女レディースメイドで、公爵と結婚すると告げたとき僅かに顔を顰めた。きちんと立場を弁えているからあからさまに非難したりはしなかったが、打算的にしか映らないこの結婚に納得しなかったのだろう。


 だけど、貴族の娘の結婚なんてそんなものだ。ましてや、この結婚は打算ではない。アメリアは生まれて初めて愛される喜びに浸っていた。

 薔薇色に頬を染めて瞳を輝かせるアメリアを見て、本当に好うございました、とケイトは微笑んだ。



 今日の空のように澄んだ青色のドレスを纏ってアメリアは階下に戻った。

 この屋敷に来客があるのは結婚以来初めてのことだ。

 公爵は人と会うとき、オックスフォードの館を利用していた。それは宮殿と言ってもいいくらいの豪壮な館で、夫の公爵という地位に相応しい。

 本来ならそちらに住むべきなのだろう。

 しかしセントネービス卿は、ロンドンの大方の貴族たちが躍起になって守っている名誉にも見栄にも興味がないようだった。小川の流れるこの小さな美しい村で、妻が朝露に濡れて幸せそうに笑うのを嬉しげに眺めた。


 だから、こちらの屋敷に招いたとなれば、それは個人的なお客様だということだ。とても大切なお客様、と公爵は言った。夫が大切にしている方なら、万に一つも粗相があってはならない。アメリアはドレスの襞をそっと撫でて背筋を伸ばした。



 厨房を覗くと、ちょうどスコーンが焼き上がったところだった。


「本当にお客様にお出しして大丈夫かしら?」


 アメリアが不安気な目を向けると、トレイにスコーンを並べていたフランツが顔を上げて微笑んだ。


「奥様が作られるお菓子はどこに出しても恥ずかしくないものですよ。特にジャムは、本当に教えていただかなくては」


 多分、フランツの言葉にはお世辞が混じっている。分かっていても、アメリアの頬は喜びに輝いた。好きなことを認めてもらえるのは嬉しい。


「では、後のことはあなたとジェイキンスにお任せするわ」


 アメリアは香ばしいスコーンの匂いを吸い込んだ。本当は焼き立てを摘むのがいちばん好きなのだが、今日は諦めるしかない。



 公爵を探して広間に行くと、彼は大きなフランス窓の側に佇んでいた。明るい陽の射す窓辺で庭の隅に植えられたハーブを眺めている。それはこの夏アメリアが植えたものだ。植えたばかりの苗はまだ小さいが、しっかりと根付いている。まるで公爵に対する愛情のように。この愛は強いハーブと同じように根を張り大きく育つだろう。

 公爵もそうであってくれたらいいと思う。そして公爵が示してくれる優しさは、アメリアの願いを肯定しているように見える。


「公爵様」


 アメリアは愛する夫に声を掛けた。振り返った夫が名を呼んでアメリアに微笑みかける。


「お客様はいつ頃いらっしゃいますの?」


 傍に寄って乾いた手を握ると、その手の甲に公爵がそっと接吻けた。


「もうすぐですよ」


 微笑んだ公爵がアメリアを繁々と見つめて、やっぱり貴女はとても可愛らしい、と言って笑う。アメリアは頬を染めた。アメリアは世間的には『可愛らしい』と評されることは殆どない。しかしあまりに頻繁に公爵がそう言うので、なんだか少しそんな気になってしまいそうだ。

 アメリアは夫を見つめた。優しく微笑まれて笑みを返す。


 とても幸せだった。




     *




 コンコンと軽く扉をノックする音がして戸口にジェイキンスが現れた。


「お客様がいらっしゃいました、旦那様」


「ああ、ではお通しして」


 執事に命じると公爵はアメリアに向き直って微笑んだ。


「さてアメリア、とても大切なお客様です。くれぐれも失礼のないように」


 アメリアも夫に微笑みかけた。もちろん、そうするつもりだ。否。つもりだった。しかしジェイキンスが客人を伴って部屋に入ってくると、アメリアの微笑みは凍りついた。


 クイル。


 アメリアは蒼白になり、挨拶すら出来なかった。繋いだままの公爵の手を震える指で更に強く握る。公爵はその指をぎゅっと握ると繋いでいた手を放してクイルに差し出した。


「ようこそいらっしゃいました」


 にこやかに挨拶を交わしクイルにソファを勧める。アメリアはそれを茫然と見つめた。


 公爵に自分の気持ちを指摘されて以来、アメリアは早朝庭に出るのを控えていた。だからクイルともそれ以来会っていない。

 気付かされた感情と向き合うのが怖かった。時が経てば胸を震わす蝶の群れも消えてなくなると思っていた。


 それなのに。


 信じられない。



『恋をなさい、アメリア』



 数週間前の夫の言葉が頭の中で谺する。頭を抱えてしゃがみこんでしまいたい。

 今アメリアを立たせているのは、社交界で身に付けた醜態を曝さないという習慣だけだった。


「ああジェイキンス」


 席を外そうとした執事を呼び止めて、公爵はケイトを連れてくるように言った。そうしてアメリアに手招きをして自分の隣に座るように促す。


「実は夕べ、この方がこちらに来られましてね」


 穏やかに微笑む夫をアメリアは震える瞳で見つめた。


 信じられない。

 信じられないが、夫が何をするつもりなのか大方想像がつく。


「公爵様。あのときわたくしが申し上げたこと、憶えてらっしゃいますわよね?」


 無駄だと分かっていても縋るようにアメリアは言った。


「もちろん憶えておりますよ」


 公爵は言った。


「貴女も、私が言ったことを憶えているでしょう?」


「こんなのおかしいわ」


 アメリアは頭を振って両手に顔を埋めた。


「貴方はどう思われますか?」


 急に水を向けられたクイルは暫し押し黙った後静かに口を開いた。


「やはり貴方がしようとなさっていることは常識的ではないと思います。セントネービス卿」


 片方の眉だけ上げて先を促す公爵を見てクイルが自嘲気味に笑う。


「でも俺……いえ、私の行動も常識的とは言えませんでした」


 クイルに見られているのを感じたが、アメリアは顔を上げられなかった。


「申し訳ありません、奥様。貴女を困らせるつもりではなかったのです」


 ただ逢いたかった。朝靄のなかの愛らしい娘に。まさかそれが公爵夫人だとは夢にも思わなかったのだ。


「アメリア」


 夫に名を呼ばれてもやはりアメリアは顔を上げられなかった。

 初めてクイルと言葉を交わしたとき、彼が勘違いしているのだとアメリアはすぐに気が付いた。そして、きっと本当のことに気付けば彼はもう来ないだろうと思った。だからアメリアはわざと毎朝お仕着せを着て庭に出たのだ。

 夫に指摘されるまでそれが恋だと気付かなかった。ただ、クイルに逢いたかった。


「アメリア」


 もう一度名前を呼ばれた。

 アメリアは俯いたまま頭を振った。このまま地中深く穴を掘って閉じ籠ってしまいたいと思う。


「アメリア」


 公爵が溜息を吐く。


「貴女がずっとそうしているつもりなら、クイルと二人で何もかも取り決めてしまいますよ」


「何も決まりませんわ」


 アメリアは小さな声で言った。


「決まりませんわ。わたくし、そんなことしないと申し上げましたもの」


「つまらない常識など棄てておしまいなさい」


 優しく髪を撫でられてアメリアは固く目を閉じた。


「私は貴女に恋をして欲しいし、貴女は恋をしているし、その恋しい相手が貴女を好きだと言っているのですから、それでいいではありませんか」


 アメリアはなおもかぶりを振った。


 そんなのは駄目だ。


 公爵は溜息を吐いてクイルに向き直った。


「アメリアは頑固なのです。手強いですよ」


「肝に銘じます」


 男二人が低く笑い合っているところにジェイキンスがケイトを伴って入ってきた。


「さて」


 表情を引き締めた公爵が皆の顔をぐるりと見渡した。


「今この時から、クイルをアメリアの恋人と認めます」


「公爵様!」


「皆そのつもりで対応するように」


 アメリアを無視して公爵は続けた。


「ただし、くれぐれも内密に。ここに居る五人以外に悟られてはなりません」


 どのように感じているにしろ、ジェイキンスはそれを表情に出したりはしなかった。ケイトは少し戸惑った表情を見せたが、それでも黙って頷いた。

 アメリアは相変わらず両手に顔を伏せている。

 公爵は黙って座しているクイルに向き直った。


「私が貴方に要求するのはアメリアを傷つけないこと、それだけです。貴方がただアメリアと過ごすだけで満足するなら、我々はそれを看過致します。お好きになさい。しかし、もし貴方がそれ以上を望むなら、相応の覚悟と努力が必要です。私はそれを応援致しますよ」


 公爵は紙とペンをジェイキンスに用意させ、インクを付けた羽ペンを紙に滑らせた。


「ローウッド?」


 手元を見ていたクイルが首を傾げる。公爵は満足気に頷いた。


「字が読めますね。結構です」


 流麗な筆致で描かれたそれをクイルに渡す。


「もしそれ以上を望むなら、いつか必要になります」


 クイルはしたためられた文字を見つめた。


「いつかその時が来たら、ローウッドを名乗りなさい。必要になると信じていますよ」


 公爵は微笑みながら頷いた。

 クイルはアメリアを見た。顔を伏せた手が震えている。

 なるほど手強そうだ。しかしクイルは諦める気はなかった。



 何しろ、いちばんの障害は早々に取り払われたのだから。

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