初夏  恋


「おはよう」


 後ろから声を掛けられてアメリアは肩をびくんと震わせた。恐る恐る振り返ると昨日の男性が薔薇の植え込みの手前で笑っていた。


「見ない顔だね。新しい人?」


 そのひとの質問の意味を理解しきれないまま、アメリアは曖昧に頷いた。


「俺はクイル。パン屋をやってる。親父が、だけどね。このお屋敷の配達は俺の担当なんだ。よろしく」


 差し出された手をアメリアは反射的に握り返した。


「アメリアよ」


 この青年の非礼を窘めるべきだ。

 そう思うのに、今日もお腹の辺りに現れた蝶が煩く翅を震わせて邪魔をする。まともに考えることが出来ない。


「アメリア」


 その名を刻みつけるようにクイルは呟いた。


「明日もここにいる?」


 緑がかった湖のような瞳で見つめられてアメリアは言葉に詰まった。


「ええ……いいえ。分からないわ」


 しっかりと握られたままの右手が熱い。アメリアは手を引こうとしたが、逆に強く引かれてクイルの胸にすっぽりと納まってしまった。小さな悲鳴がアメリアの唇から漏れる。そのままぎゅっと抱きしめられてアメリアは狼狽えた。


「じゃあまた明日。アメリア」


 クイルに耳元で囁かれてアメリアの鼓動が狂ったように打つ。返事をしようにも、唇は打ち上げられた魚のように空気を求めるばかりで本来の用を為さない。


 クイルが低く笑った。

 そっと頬に接吻けられてアメリアは真っ赤になった。


「明日。必ず」


 クイルは白い歯を見せて笑い、使用人用の門から出ていった。


 薔薇の真ん中に取り残されたアメリアは、朝の光がすっかり薔薇を乾かしてしまってもまだ、そこに立ち尽くしていた。




     *




 土曜日の晩餐の席で、セントネービス公爵ジェイムスは微笑んだ。


「それは恋ですよ。アメリア」


 アメリアは驚いて取り落としそうになったフォークを慌てて握り直した。心臓が早鐘のように鳴り始める。溜息と集中力の欠如を指摘されているのだとすぐに分かった。恥ずかしさに首筋が赤く染まる。


「可愛いアメリア。いったい誰が貴女の心を射止めたのでしょう?」


「恋なんて……公爵様。わたくし、恋なんてしていませんわ」


 アメリアは俯いた。小さな声は先細りになり、終わりの方は殆ど聞き取れなかった。


「貴女はロンドンの社交界で薔薇と謳われていた頃よりもずっと綺麗になった」


 公爵は優しく微笑んだ。


「憂いも溜息も、その輝きを隠すことは出来ない。恋ですよ、アメリア」


「そんな……あり得ませんわ。だってわたくし、結婚していますもの」


 公爵を愛している。とても大切なひとだと思っている。


「父親を愛するのと恋しい殿方が出来るのとは全く違うのです」


 アメリアの戸惑いを包み込むように公爵は言った。


「初めてお会いした日に私が言ったことを覚えていますか? 貴女を妻のように愛することは出来ない。けれど娘に抱くような愛情を感じていると。それは貴女も同じなのです。私への愛は父親への愛。恋をなさい、アメリア。貴女が幸せになることが私の歓びです」


「わたくし……わたくし、出来ません」


 アメリアは皿の中の小さな桃の実を掬い上げるのを諦めた。何度も失敗して、きれいな角切りだった果実は見るも無残な姿になっている。フォークを置いてアメリアは公爵を見た。


「妻に浮気を勧める夫なんて、聞いたことがありませんわ」


 アメリアの言葉に公爵は声を上げて笑った。


「貴女が思っているより世界はずっと広い。聞いたこともないようなことがすぐ隣の部屋で起こっているかもしれませんよ。ねえ、アメリア。ここには雀みたいに煩いレディたちはいません。少々羽目を外しても大丈夫です。自分の心に正直になりなさい」


「嫌です。わたくし、しません」


 アメリアは首を振った。不貞を働くなんて考えられなかった。


「恋は知らずに落ちるもの」


 穏やかに公爵が言った。


「貴女がいくら抗ってもその瞬間ときはやってきます。だから覚えておきなさい」


 にこりと、公爵が笑む。




「貴女が幸せになることが、私の歓びです」

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