初夏 マナーハウス


 朝露に濡れる薔薇の花びらをそっと撫でて、アメリアは満足の溜息を吐いた。

 公爵と結婚して一週間が過ぎていた。



 あの日、アメリアからダンスカードを受け取った公爵はカードに連ねられた紳士を一人ずつ廻り、皆の了承を取り付けてからアメリアをダンスフロアへ連れ出した。

 部屋中がどよめきに包まれた。長年社交界に姿を現さなかった公爵が、デビュー以来誰とも踊らなかった美しい壁の花をその腕に抱いて踊っている。

 噂はセンセーショナルに駆け巡った。


 誰も知らなかったアメリアの婚約は誰も知らないうちに反故にされ、代わりに公爵との婚約が発表された。自分に残された時間はあまりに少ない、という公爵のたっての願いでふたりはすぐに結婚し、ウェールズとの境に近いコッツウォルズの公爵領に居を移した。


 初めて出会ってから二週間しか経っていなかった。



 小さな美しい村のマナーハウスは一瞬でアメリアを魅了した。

 石造りの屋敷は荘厳だが、絡まる蔦や周りを囲む花々が優しい印象を与えている。英国様式の庭は美しく手入れされており、そこここに咲く薔薇の花が馨しく匂っている。


 何よりアメリアを惹きつけたのは温室に植えられた無花果の木だった。まだ実は付けていないが、夏になればたくさん実るだろう。

 アメリアは無花果を収穫したことがなかった。木から直接捥ぎ取れるなんて考えただけでどきどきした。ジャムにしても構わないかと訊ねると、公爵は笑って頷いた。


 厨房や作業小屋に顔を出してはあれこれ聞いて回るアメリアに使用人たちは戸惑ったが、好きにさせるようにと言う公爵の言葉に異を唱える者はひとりもいなかった。

 そして庭師のウォルターからは花の手入れをしても好いという了解を取り付けた。必ず彼の了解を得てからという条件付きだが、アメリアは満足していた。

 丈夫な木綿のお仕着せを着て、結い上げた髪に洗い晒しのスカーフを捲いて現れたアメリアを見たウォルターは、口をあんぐり開けて首を振った。それでも土を掘り返すのを手伝わせてくれたし、薔薇の花の手入れの仕方を教えてくれた。




     ***




 数本の薔薇を摘んで腕に抱え、アメリアはその香りを吸い込んだ。花びらに付いた滴が鼻の頭についてひんやりする。アメリアはくすくすと笑った。


 ロンドンの知り合いたちが今のアメリアを見たらきっと驚くに違いない。冷たい人形のようだったアメリアが、瞳をきらきらと輝かせ、頬を染めて笑っているのだから。


 朝露に濡れた草を踏む音がしてアメリアは振り返った。厨房の裏口から出てきたのであろう若い男性が道の途中で立ち止まり、じっとこちらを見つめている。少年と青年の中間くらい。アメリアより少し年下だろうか。日に焼けた肌と淡い金色の髪。すらりと伸びた四肢はしなやかな猫科の獣を思わせる。何故だか分からないが、アメリアのお腹の辺りに蝶が羽ばたいたような擽ったさが広がった。


 思わずぎゅっと抱きしめた薔薇の棘がアメリアの指を刺す。白い指にぷっくりと赤い血が盛り上がるのをアメリアはぼんやりと捉えた。


 蝶はどんどん増えてゆき、体中がざわざわと波立つ。

 危険だと思った。

 何故だか分からないが、逃げなければと思った。


 数歩後退り、踵を返して一目散に駆けだす。

 アメリアは逃げ出した。


 何から?


 その問いには、答えてはいけない気がした。

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