十年前 

十年前 春  結婚

 緩く吹く風が薔薇の香りを運んでくる。

 アメリアは植え込みの脇にある小さなベンチに腰掛けて溜息をいた。

 気持ちの好い春の風も、馨しい薔薇の香りも、アメリアの滅入る心を静める役には立ちそうになかった。

 ランプが柔らかな光を投げる前庭とは違い、この辺りに灯りは無い。ぼんやりと明るい月の光だけが、アメリアの美しい輪郭を白く浮き立たせていた。


 屋敷を出る前の母親との口論を思い出して、アメリアは綺麗に弧を描く眉をひそめた。

 歯向かったところでどうなるものでもない。歯向かうつもりもない。貴族の娘は、年頃になれば告げられた相手の許に嫁ぐものだ。婚姻は家同士のもので、個人の意思は考慮されない。その必要がない。


 そんなことは、社交界にデビューしたときから分かっていたし、不満もなかった。母も祖母も、この遣る瀬なさを呑み込んで嫁いできたのに違いない。もちろん、自分もそうするつもりだ。なのにどうして、未来の夫の名を告げられたときあんなに取り乱してしまったのだろう。


 アメリアは頬杖をついてもうひとつ溜息を吐いた。

 母には謝らなくてはならない。

 怒らせたい訳でも、困らせたい訳でもないのだから。



「美しい花にそのような溜息を吐かせるなぞ、今宵の月は些か罪作りですな」


 不意に声を掛けられてアメリアは弾かれたように顔を上げた。頼りない月明かりでは面立ちまでは分からないが、すらりと背の高い紳士がアメリアを見下ろしている。声の感じからして、彼女の父親よりも年上だろうと思われた。


「何か心配事がおありですかな?」


 芝居がかったその台詞に、アメリアは思わずくすりと笑みを漏らした。


「あら」


 静かに扇を開いて口元を隠す。


「女の悩みなんて、明日のドレスの色のことくらいですわ」


 目元だけ見せて微笑むアメリアに、紳士は身振りでベンチに腰を下ろして好いか尋ねた。アメリアは無言で左に少し移動して了解の意思を示す。暗い屋外で男性と二人きりでベンチに腰掛けるなんて以ての外だが、その紳士とはあまりに歳が離れすぎていて、構わないような気がしたのだ。


「私の経験から申し上げますなら」


 空いたスペースに腰を下ろしながら紳士が言った。


「女性は悩み多きもの。我が妻も終始悩んでおりましたよ」


 愛おしそうに暗闇に笑みを向ける紳士を、アメリアは好ましいと思った。

 月明かりが紳士の顔に刻まれた皺に影を落とす。その一本一本に愛情が織り込まれているような優しい笑みだった。


「奥様を愛していらっしゃるのね」


 アメリアの問いに紳士は片方だけ眉を上げて応える。それを見てアメリアはまた溜息を漏らした。月よりも冴えた美しい瞳を闇に向ける。しかし、紳士が見ていた辺りにどんなに目を凝らしても、その素晴らしい愛を見つけることは出来なかった。

 そんな愛される結婚生活があるなんて知りたくなかった。だって、自分には望むべくもないのだから。皆同じなのだと思っていたかった。


「私がここで貴女を独り占めしていては紳士諸氏に恨まれてしまうでしょうね」


 悪戯っぽく訊ねられてアメリアは小さく笑った。


「わたくしの評判をご存じないのね?」


 アメリアは隣に座る紳士に微笑んだ。

 確かに、アメリアのダンスカードにはびっしりと紳士たちの名前が並んでいる。しかしその中の誰一人として、アメリアと踊ることを期待している者などいない。デビュー以来、アメリアがただの一度も踊っていないことは周知の事実だからだ。

 それでも、カードは毎夜隙間なく埋まる。

 アメリアは不思議だった。皆、何を思って名を連ねるのだろうか。叶わないものなら初めから望まない方が、うんと楽に生きられるのに。


「実は存じております」


 紳士は申し訳なさそうに言った。


「咲き誇る薔薇のように美しいアメリア・ウインターには、なるほど棘があるらしい。深い海のような瞳そのままに心は揺らぐことはなく、冬の名前そのままに冷たくあしらわれる」


 アメリアの瞳からすっと色が引いた。扇で隠された紅い唇が自嘲気味に引き上げられる。

 実際、そう思われるように仕向けたのは自分だ。やがて望まぬ相手に嫁ぐのだから、誰とも恋に落ちたくなかった。誰とも踊りたくなかった。


「しかし、噂の『冷たい青い薔薇』は人々が思い描いているような女性ではないようです」


 気紛れな雲が月の明かりを遮りアメリアの歪んだ表情を隠した。鼻の奥が震えて瞳が潤む。アメリアの評判は確かに自ら仕向けたものだが、だからと言って嬉しいものではなかった。


「なるほど貴女は誰のものにもならないようですが、だからと言って心が凍っている訳ではない」


 優しい声が柔らかい闇と混ざりながらアメリアを包む。


「愛されたいと願うことは罪ではありませんよ。うんと恋をなさったらいい」


 移り気な雲が紳士の顔を照らし出した。微笑む彼は父親のように優しい表情をしている。もっとも、アメリアの父はこんな顔をしたことはないが。

 アメリアは顔を背けた。涙がこみあげてきて、扇を目元まで上げる。


「望んだものと望んでいいものが同じだとは限りませんわ」


 どういう訳かアメリアの唇から言葉が滑り出た。これまで誰にも打ち明けたことのない胸のうちを曝け出してしまいたくなる。


「それに恋なんて……わたくしの評判はその通りなのです。そういう風に生きているのですもの」


 だけど、


 アメリアは言葉を続けた。自嘲が漏れる。


「だけど、『誰のものにもならない』というのは正しくありません。もう、誰のものになるか決まってしまいました」


 実際に言葉にするとますます追い詰められたような気がした。アメリアをじっと見つめていた紳士が片方だけ眉を上げて首を傾げる。


「いいえ」


 無言の問いにアメリアは微笑んで首を振った。


「不満がある訳ではないのです。申し分のない縁組です。ただ、わたくしが変わり者なのですわ」


 アメリアは顔をしかめた。月がアメリアの横顔に影を落とす。


 薔薇が強く匂うから。

 だから、理性が狂ってしまうのだと、アメリアは思った。

 初対面の男性にこんな告白をすべきではないのに。


「結婚してしまったら、パンを焼いたり泥だらけになって花壇をいじったり出来なくなる。そう思うと堪らなく寂しいのです」


 アメリアは溜息を吐いた。


「男の方は、鼻の頭に小麦粉が付いていたり指の先が真っ黒だったりする妻なんてお嫌でしょう?」


「私は可愛らしいと思いますが」


 紳士が笑った。

 そう言えばこの方の名前も知らない、とアメリアは思った。今更のような気もするが。


「ちなみに私は蝶が好きです。それはもう、変人と言われるくらいに」


 紳士の告白にアメリアは笑みをこぼした。アメリアの心を軽くしようとしてくれる心遣いが嬉しかった。


「奥様は本当にお幸せね」


「そうでしょうか?」


 紳士の瞳に悲しみがよぎる。


「私は蝶ばかり追いかけて、あれに寂しい思いをさせてしまった。子を生すことも出来なかった。愛しむ子供がいれば、あれの寂しさも紛れたでしょうに」


 そのとき初めて、アメリアは気が付いた。妻を語る紳士の言葉は過去形で、闇を見つめる瞳には愛と同じくらいの哀しみが揺らめいている。

 息を呑んだアメリアに紳士が微笑んだ。


「もう三十年も前の話です」


 膝に突いた手を口の前で組み、くぐもる声で紳士は言った。


「私は妻を愛していました。とても幸せだった。彼女もそうだと信じて疑わなかった。彼女はいつも笑っていましたから。でもね、アメリア。私は本当は知っていたのですよ」


 紳士は笑った。それは温かい笑みではなく、己を傷付けようとするかのような痛々しいものだった。


「私が見ていないとき、物思いに沈んでいるのを。私を送り出すとき、瞳が寂し気に揺らぐのを。その度に私は思ったのです。そのうちに、と」


 紳士の瞳がアメリアのそれを捉えた。


「そのうちに、世界中飛び回るのはやめて彼女とたくさんの時を過ごそう。そのうちに、子をたくさん儲けて賑やかな屋敷にしよう。そのうちに、そのうちに、そのうちに……そうやって自分に言い訳していたのです」


 紳士の瞳がきらきらと輝いた。男性が涙を流すのをアメリアは初めて見た。


「後悔と言うものは」


 紳士は涙を拭おうともしない。もしかしたら、泣いていることにさえ気付いていないのかもしれない。


にがいものです。胸の奥に澱のように溜まって決して消えることがない」


 だからアメリア、と紳士は言った。


「この縁談に気乗りがしないなら断っておしまいなさい」


 思わぬ紳士の言葉にアメリアは驚いて扇を取り落としてしまった。震える手でそれを拾い上げながらアメリアは囁くように言った。


「そんなこと……そんなこと、出来る訳ありませんわ」


 腕の震えは唇まで伝わり戦慄わななかせる。


「我が家にはあの方の庇護が必要なのです。わたくしの我が儘で家族を路頭に迷わせる訳にはまいりません」


「ご家族の為に貴女が犠牲になるのですか?」


 かっとなってアメリアは喚いた。


「女の……結婚なんてそんなものですわ。結婚に必要なのは、愛ではなくて条件です。より条件のよいところに女は嫁ぐのですわ」


 氷のようだとアメリアが評されるのは、どんなときにも冷静さを失わないからだ。何を言われても、怒りもしなければ心から笑うこともない。他人前ひとまえで取り乱すなどあり得ないことだった。


「あなたには関係のないことでしょう? 口出しなさらないで」


 アメリアは肩で息をしながら言った。頬も目元も怒りで紅潮している。


「よりよい条件とは何でしょうか」


 あからさまな質問にアメリアは呆気に取られて溜息を吐いた。俄かに冷静さが戻ってくる。


「ごめんなさい、取り乱してしまって。忘れてくださるかしら?」


「条件を仰ってください」


 アメリアはもう一度溜息を吐いた。


「ねえ、サー……いやだ。わたくしったら、あなたのお名前も伺っていないわ」


「セントネービスです。アメリア」


「セントネービス卿。こんな風に言い争うなんておかしいわ。せっかく素敵な夜なのに。わたくしの婚約の話はこれでお終いにしましょう」


「まだ婚約していらっしゃらない」


「つまらない言葉遊びは……」


「私のところにいらっしゃい」


「何を……」


「私のところにいらっしゃい、アメリア。好きなだけパンを焼いて、好きなだけ花を植えたらいい」


「セントネービス卿……」


 アメリアは途方に暮れた。どうしてそんな話になるのだろう。


「私は妻として貴方を愛することは出来ませんが、娘のように愛しむことは出来る。もう既にそのように感じています。貴女の仰る条件も、十分に満たすとお約束しますよ」


「セントネービス卿!」


 いったいこの人は何を考えているのか。どうして私は求婚されているのか。


「もしその気になったら、ダンスカードを持って私のところにいらっしゃい。今夜は終わりまでいることにいたします」


 セントネービス卿はアメリアの頭を撫でると立ち上がった。一人残されたアメリアは闇を照らす月を見上げた。



 セントネービス卿。


 その名前をアメリアは知っていた。


 セントネービス公爵ジェイムス。


 公爵!



 ああ、なんてこと。

 もし家族が知ったら、小躍りして喜ぶに違いない。公爵に求婚されるなんて、申し分ないどころか勿体ない縁談だ。今日決めたばかりの子爵のことなどすぐに忘れてしまうだろう。


 私はどうだろうか。


 アメリアは考えた。

 あの方といると、とても自然でいられた。本当に父親のように愛しまれていると感じられた。

 アメリアはこれまで家族の愛に触れたことがなかった。家族は大切だし守るべきものだが、愛とは幻なのだと思っていた。

 亡くなった奥様を語るあの優しい瞳。あの瞳に守られるのはどんな気分だろう。


 かさりと、ダンスカードが指先に触れた。


『もしその気になったら、ダンスカードを持っていらっしゃい』


 アメリアはドレスの皺を伸ばして立ち上がった。



 薔薇が強く匂っていた。





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