甘い夢が覚めても

早瀬翠風

甘い夢が覚めても

序章

「レディ・セントネービス?」


 名を呼ぶ声に、アメリアは物思いからうつつに引き戻された。


「どうなさったの? お顔の色が好くないみたい」


 扇で口元を隠しながら、エリザベスが可愛らしく小首を傾げる。

 アメリアは内心舌打ちしながらゆったりと微笑んだ。目の前の娘と同じように、扇で口元を隠し小首を傾げる。


「あら。昨夜ゆうべ遅くまで刺繡をしていたからかしら? なんだか夢中になってしまって」


 醜くならない程度に眉間に皺を寄せ首を振る。


「きっと寝不足ね。いやだわ」


 本当は、アメリアは刺繍なんて大嫌いだった。小さな枠の中にちまちまと針を刺すなんて、考えただけでもうんざりする。貴婦人として当然求められる嗜みなので人並みに出来はするが、間違っても夢中になって時を忘れることなど無い。


 それよりもアメリアは、粉だらけになってパンを捏ねる方が好きだった。オーブンの中で焼き上がってゆくビスケットの香りに包まれている方がずっと幸せな気分になった。小さな鍋の中で煮詰まってゆく果実をかき混ぜているときの方が時を忘れて夢中になった。


 まったくレディらしくないそれらの振舞いを笑って許してくれた公爵が恋しい。アメリアは幸福に包まれていたバイブリーでの日々を思った。

 あの頃が恋しい。

 ロンドンの屋敷での社交漬けの毎日は退屈で味気無かった。


 綺麗に紅を引いた唇から溜息が落ちる。



 望まなくても耳に飛び込んでくる低い声が胸の鼓動を忙しなくさせる。

 甘いジャムの香りよりも、実の父よりも父親らしかった公爵よりも。

 ずっと恋しいものが、何より焦がれているものが、すぐそこに在る。

 公爵が亡くなったときにアメリアが失った、一番大切なもの。



 手を伸ばせば届くだろう。


 けれど。


 決して手を伸ばしてはいけないのだと、アメリアは承知していた。

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