A県警察I警察署刑事課巡査 山内弘

 寝煙草で燃えた家はいくらでも見てきたが、それが自分になんらかの教訓を与えことはない。

 ただの間抜けだ。北沢隆典は黴臭い布団を下半身だけにかけて、鬱陶しい重低音を上げる古いエアコンの風に吐き出した煙を乗せた。

 食事のあと。眠る前。そうした場合に喫む煙草はやめられない。

 そしてもう一つ――北沢はこの倦怠感の中で煙草を吸わずにはいられない。言葉をかけるのはいつも面倒で、安物のライターで火をつけることでもう終わりだと宣告する。

 北沢の胸板に湿った手が乗せられる。舌打ちしそうになるのを煙を吸い込むことでごまかし、眠気も振り払って身体を起こす。

 手早く服を着てその家を出た。古い平屋建て。玄関には北沢の靴以外に男物はもうなかった。

 小山こやまという表札を去り際に見て、北沢は臭いものに蓋をした時に感じるあの背徳的なやるせなさを久々に実感した。まだそんなものを感じるだけの繊細さが残っていたのかと笑う。そんなもので身を滅ぼすような奴は――ただの間抜けだ。

「キタさん――?」

 聞き覚えのある声に、北沢は思わず振り返る。

 刑事課の山内――だけではない。物々しい一団が、北沢が出てきた家を包囲していた。

「なんの騒ぎだ、こりゃ」

 北沢の動揺を通り越した怪訝な声に応じて前に出た相手を見て、さらに怪訝な顔になる。

 若い女だった。一端にスーツ姿で険しい顔つきをして見せている。警察官の匂いはしない。県庁か市役所辺りから担ぎ出された小賢しいだけの女だろう。

「あんたが責任者かい」

 山内が慌てふためくが、北沢は語気を弱めない。女相手に下手に出てどうする。

 女は矢継ぎ早に日本語ではあるのだろうが意味不明な単語を並べ立てた。こいつはひょっとすると頭がおかしいのかもしれないと北沢が嫌悪を露わにすると、女はそのまま背を向けた。

「毒者ではありません。尋問はそちらにお任せします」

「アア?」

 女の物言いに恫喝の声を上げ――同時に複数の機動隊員に拘束された。

「キタさん、俺、信じてますから」

 山内が沈痛な面持ちで言う中、残りの機動隊が小山家に突入した。

 家の前にはあの女と、しょぼくれた若い男がじっと待機していた。北沢はその男を見て、小山誠司せいじを目にしていた時と同じ胸糞の悪さを覚えた。


 事態は思わぬ方向から動いた。愛知県警に渡した捜索者リストの中から、「当たり」が出たのだ。

 小山誠司。一九九五年三月二日生。無職。二〇一六年五月十七日没。

 この男が複数回、名古屋市内で目撃されているという情報を愛知県警は掴み、即座に特定大規模テロ等特別対策室に応援要請を出した。

 これを受けて氷川稲特務捜査官にナローシュを随伴させての初の出動の命が下った。

 まず小山の生家を機動隊を用いて制圧する。突入直前に小山の家から姿を現した一宮署の北沢隆典巡査部長に対し、稲はメジャーな「なろう小説」のタイトルを列挙して反応を窺い、知識を持たないと判断した。北沢は速やかに身柄を拘束され、県警本部に護送された。

 結果としてここで小山誠司は発見できなかった。

 稲は佐藤吉輝と、この二人の監視役を務める交代制の警察官と常に三人態勢で、愛知県警本部の一室ですでに三日間待機していた。

 小山誠司が毒者の協力者を得ていた場合、対抗措置として佐藤が必要になる。理解してはいるが、こんな男と三日間も同じ部屋に閉じ込められていては気が滅入るどころの話ではなかった。

 佐藤の調整はおおよその完成を見ていた。稲との力関係を理解できる程度の知能はあり、また稲を殺害した場合に自分がどうなるかを語って聞かせれば頷くまでの恐怖は与えて続けていた。

 それでもこの男がナローシュであるという事実は変わらない。必要な場合は敵対するナローシュを殺傷することを許可されると告げた時の喜びようは、いま思い返しても吐き気を催す。

 その哀れな標的である小山の行方を追うために北沢から引き出せた情報は、あってないようなものだった。

 小山は間違いなく、あの家に潜伏していた。だがそれを、あろうことか北沢が家から追い払ったのだという。

 稲が直接尋問に出向くと、北沢は自慢げに小山に切ったという啖呵を再現してみせた。

 北沢には特定大規模テロ等特別対策室及びナローシュの情報は一切明かさない方向で尋問を続けた。国家規模の重大事だという恐怖で吐かせるより、年少者として教え乞うように吐かせたほうがはるかにスムーズだと稲は判断した。それほどまでに北沢は愚かだった。

 俺はあの女を救ってやった――北沢はことあるごとにそう胸を張った。小山の実母である小山幸江さちえからも取り調べを行っているが、彼女から北沢への感謝の言葉は一切なかった。

 幸江はアンサモンされ実家へと戻ってきた息子に日常的に暴力を振るわれ、それを恫喝して追い出した北沢に、今度は肉体関係を半ば強要されていた。彼女には最初からそれを払いのける力などなかった。北沢もそこは理解していたはずだ。理解してもなお、恩を着せていると豪語しているのだから堂に入ったものである。

 ただ、わかったこともある。

 小山は少なくとも家庭を放逐されるまでは、毒者と接触していない。アンサモンされて以降、毒者の観測下に入ることなく実家に逃げ帰り、抵抗のできない母親に暴力を振るい続けた。それほどまでに彼の鬱憤は限界を超えていたのだろう。ナローシュとしての力を振るう機会がなかった証左である。

 しかし北沢によって、小山は野に放たれてしまった。実家という最もわかりやすい安寧の地に定住していれば即座に対処できただろうに、北沢の個人的な怒りを買って小山は行方をくらました。

 そう、極めて個人的な怒りだ。北沢が小山の話をする度に見せる苛立ちや侮蔑には、稲でさえ嫌悪を覚えた。

 ――ああいう人間の腐った奴が嫌いだ。

 北沢の鼻は確かに利くらしかった。彼が長年相手をしてきた警察にご厄介になる少年たちが食い物にするような人間を、直感的に見分ける能力があった。

 そして北沢は、決してそうした人間の側に立つことはない。

 自らが相手取ってきた人間を時に罰し、時に許してきた北沢には、その被害者のことなどまるで念頭になかった。彼にとって立ち向かうべきなのは馬鹿をやった未来ある若者であり、その悪意を向けられた相手の未来よりも罪を犯した当人の未来のほうがはるかに優先される。

 むしろ北沢自身が「人間の腐った奴」を直接害する人間以上に嫌っているように見えた。北沢の感性は彼の業務を簡略化するために先鋭化されていた。

 その感性によって、北沢は上手く立ち回っていた。

 一宮署にも伝令された「死人を捜せ」という捜査命令を聞いた北沢は、関連すると思われる話を彼に漏らした農家、横井大翔に厳重な口止めを言い渡した。自分以外の相手には絶対漏らさないこと――それに付け加えて横井になんらかの脅迫か贈賄を行ったと思われる。

 そして小山家に乗り込み、小山誠司から話を聞こうとしたが、即座に断念した。

 ナローシュの語る話などに、北沢が理解を示せるはずもなかった。頭のおかしいクズは殴っておけば言うことを聞かせられると信ずる北沢は、小山を滅多打ちにした。

 感情任せの説教をして、もうここにお前の居場所はない、失せろと小山を家の外へと蹴り飛ばした。

 その後何回か小山は家に戻ってきたが、その度に北沢の制裁が加えられ、二度と近寄ることはなくなった。

 これをどう見るべきか――稲はじっと考えていた。北沢の暴力に耐えかねたのか、あるいは、家に戻る必要がなくなったのか。

 部屋にスーツ姿の刑事が入ってきて、それまで監視役を務めていた制服警官と交代する。

「氷川特務捜査官――?」

 三十絡みの刑事はこちらを窺うように中途半端な会釈をして、稲の気を引こうとする。

「あなたは――」

 小山家の突入捜査の際に現地案内役を任された一宮署の刑事だ。

「はい。山内ひろし巡査であります」

 畏まった直後に砕けた笑顔を見せる。佐藤が怪訝な目を向けるが、稲は最初の合同作戦の際に佐藤からは目を離さない以外の気遣いは全くの無用であると断っている。山内もそれに従って佐藤には一瞥もくれない。

「キタさん、どうなりますか……?」

「それは警察及び検察、法律に任せるしかありません。我々が独自に刑を執行すれば、それは私刑にしかなりません」

「怖いですね……。最初から特テのことを明かしてもらっていれば、俺もキタさんに注意できたんですけど」

 愛想笑いの下に、試すような目つき。その手には乗らないと、稲は事務的な受け答えを続ける。

「北沢巡査部長には特定大規模テロ等特別対策室の存在は明かさないことは決定しています。今回協力していただいた県警内部においても、この機密を保持した人間には厳重な守秘義務が生じています」

「わかっています。いくらキタさんに恩があると言っても、カク秘に手をつけたりはしませんよ」

 山内はそこで部屋のドアに視線を投げ、スマートフォンを取り出す。

「NFCは」

 稲は即座に頷き、自らのスマートフォンのNFC機能をオンにして山内のスマートフォンに接触させる。

「じゃあ、俺は監視役に徹します」

 山内はそれきり口を開かずにドア付近で無言で立っていた。

 稲は山内から渡された画像データを開き、険しい面持ちへと変わる。予想通りそれは、愛知県警の作成した北沢の調書及びその要点を纏めた捜査資料をスマートフォンのカメラで撮影したデータだった。

 当然と言うべきか、その中には稲のあずかり知らぬ情報も多分に含まれていた。稲に直接北沢を尋問させたのも、体面作りの意味合いがほとんどだったのだとわかる。

 北沢が横井から話を聞いたのが五月末。最初に小山に暴力を振るったのが六月初週。

 最後に小山を家から追い出したのが、七月二十九日。

 稲は大きく息を吐いて強引に自分を落ち着かせる。安村と五代が名古屋へと出向いたのが、その一週間前だという事実に眩暈を覚えながら。

 金田忠明の死体が発見された当日に、安村と五代はここを訪れた。だからこそその異状死と不穏な符牒に気付くことができた。

 その一週間後に、殺人を犯したナローシュが実家に戻るのか――。

 毒者という協力者さえ得てしまえば、ナローシュは最悪の兵器へと化す。そうなればもはや生まれた家に縋りつく理由もなくなる。異世界に戻せと喚いていた佐藤を見ても、ナローシュが現実に執着を見せる場合は少ないことは明らかだ。

 一つ、明確な理由は思い当る。復讐である。自分を虐げた北沢に、ナローシュとしての力で制裁を加える。

 だが小山は北沢に殴られて締め出され、その後二度と姿を現していない。

 北沢は毒者ではないから、正面切っては勝てない――だがその観測外からであれば、如何様にも蹂躙できる。金田の殺害に当たっては毒者が介在したのは疑いようはなく、ならばその毒者が小山の個人的な復讐に手を貸さないとは思えない。毒者は「なろう小説」に毒されきっているからこそ毒者なのである。そのロジックには必ず理解を示す。

 窓の外の閃光ののち、照明が消えた。

「停電――いや」

 稲は山内に背を向けることを頼んでから慎重に頭を切り替え、佐藤に窓の外で起こる現象を「鑑定」するように指示を出す。

 佐藤のスキルのうち、「鑑定」は現実ではなんの役にも立たない。目に映るものの能力やステータスを表示するという代物が、現実に存在する人間や物品に有効なはずもないからだ。能力というものはそもそもが数値化できるほど単純ではない。それをわかりやすく可視化する行為は能力を有する人間への侮辱にほかならない。

 だが、似たり寄ったりの世界観ならば――再び閃光。

「出た! 『雷帝の裁き』ランクS魔法。雷属性最強。発動者は、七帝の賢者――雷帝セージ」

「位置の捕捉は」

「『サーチ』! クソっ、マップが作成できてないからやりにくい。ここからほぼ南に約1.5キロ!」

「栄近辺――厄介ですね」

 名古屋最大の繁華街である栄でナローシュが力を振るっている。最悪の事態を想像して身体の芯から凍えながらも、稲は冷静であれと必死に自分を律する。

「山内巡査、もうこちらを見ていただいて大丈夫です。私たちの監視はあなたにお願いします」

 そう言って稲は部屋から出て、視界に入った中かつ記憶にある人間の中で最も階級の高い警察官に詰め寄る。

「緊急車両の即時手配をお願いします。私、氷川稲――特定大規模テロ等特別対策室特務捜査官はこれよりナローシュを用いてナローシュの掃討を開始します」

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