希望なるもの。

 マリアはその一部始終を見ていた。閉じられた目蓋を割るようにして、涙が止めどなく溢れてくる。


 今、マリアはセイレネスのシミュレータを経由して二人のやりとりを見つめていた。マリアはそんなものを使わないでもセイレネスを操る能力を持っていたが、今はほんの少しでも鮮明に、そして誰にも邪魔されずに二人のを感じたいと思っていた。その結果、どちらかの最期を看取ることになることも知っていた。だからこそ、マリアはブルクハルトにすら黙って、シミュレータに乗り込んでいた。


 もっとも、ブルクハルトはマリアの挙動を把握していたし、シミュレータを使って何かをしようとしていることも分かっていた。だが、ブルクハルトは何も言わず、飄々とその機材の微調整を行いさえもした。


「レベッカ姉様……」


 ARMIAとしての自分。アーマイアとしての自分。そして、マリアとしての自分。それぞれは独立したでありながら、相互に意識を参照し合う、不可解な関係にある自分たち。その中に在りながら、マリアはひときわ強い無力感を覚えていた。自分には見ていることしかできないのだ、と。


「姉様……!」


 死の淵にあるレベッカに、マリアの声は届かない。涙だけが流れていく。レベッカはもう二度と帰っては来ないのだ。あの家に皆が揃うことはもうないのだ。


 私には何もできなかった――マリアは悔いる。むしろ、二人の背を押すようなことをしてしまったと、悔いる。


 誰にも罪なんてない。だが、誰もがとがびとだった。


「あらあら――」


 ログアウトしようとしたその瞬間、世界が暗転する。その闇の中には、アトラク=ナクアが銀の揺らぎとして存在していた。


「あなたはまだ自分の役割に迷いがあるのね。私とて、ユイ・ナラサキであり、ヒトエ・ミツザキではあるのだけれど。まぁ、気持ちはわからないではないわ」

「あなたたちの遊戯おあそびと一緒にされては困ります。私たちはもっと切実な生き方をしているんです」

「切実? ……うふふ」


 アトラク=ナクアは微笑んだ。


「それは否定しないわ、マリア。悲劇的なほどに悲観的なその思考。自分たちが何とかしなければならないのだという使命感。そのためには命すら投げ打っても構わないんだという自己犠牲の精神――どれをとっても切実だわ」

「ならば揶揄するような言い方はやめてください」

「揶揄? そうね、そうと言うのならそうでしょうね」


 アトラク=ナクアの姿が闇の中に薄れ始める。


「でも、あなたにはまだできることがある」

「できること?」

「そう。新たなるディーヴァを導き、旧世代のディーヴァたちの死を無駄にしないこと。これがあなたの今の役割ではなくて?」

「言われるまでもありません」


 マリアは毅然と顔を上げる。険しい表情で、アトラク=ナクアの深淵の瞳を睨みつける。


「私はアルマとマリオンを守ります。何もかもをあなたがたの思い通りにはさせませんから」

「あら、勇ましい」


 アトラク=ナクアは艶然と微笑む。


「でも、あなたがそうと言うのなら、そうなんでしょう」

「私は、あなたがた深淵の存在には負けません。勝てなくても、負けません」

「ふふふふ」


 銀の揺らぎが笑う。


「あなたがそう思うと言うのなら、そうなるのでしょうね」


 嘲弄するかのようなその言葉にマリアの怒りは高まる。だが、マリアは何も言わずに奥歯を噛み締めた。


「あなたの創造主にも、ツァトゥグァにも、ディーヴァたちにも、漏れなくそれぞれ役割がある。悉皆しっかい、私のティルヴィングによって振り回され、惑星軌道のように一定の共鳴の下にバランスを取って、そして何とか関係性を維持している。壮大なようで単純、単純なようで繊細。それがすべからくるべき関係性。だからね、あなたがその軌道共鳴から外れようというのであれば、存外簡単な事なのかもしれないわよ」

「言うだけなら簡単でしょう」


 薄れゆくアトラク=ナクアの揺らぎを逃がすまいと、マリアは目を細める。アトラク=ナクアは姿を一層薄れさせながら、ふわりと揺らいだ。


「簡単なことです。本当にそう思いさえすればね」


 から抜け出せない自分が、確かにここにいる。マリアは自分自身の不甲斐なさを呪う。もう一人の自分、アーマイアは粛々と淡々と、己の役割を果たしているというのに。


「まさか――」


 もしかして、自分マリアがこうして苦悩していることは、不確定要因なのではないだろうか。だとすれば、希望もある。悪魔にも天使にも確定させられていない未来の事象を、自分自身で作り出せるかもしれないのだと。


 それならばまだ希望はある。


 マリアは再び、アトラク=ナクアを睨みつけた。その姿はほとんど闇と同化していたが、それでもマリアは確信を持って睨みつけた。


「希望というものがあるとすれば」


 アトラク=ナクアが朗々と詠う。


「それはパンドラのはこの中にある。パンドラのはこは心の中にある。その想いが強ければ、或いは私たちにでさえ影響を与え得るものになるかもしれないわね」

「パンドラの……」

サンタマリア、あなたをそう呼ぶのなら、そう呼んだって良いのかもしれない。だって、あなたはそのためにその名前を与えられたのだから」

「アトラク=ナクア。あなたはなぜ、私にそんなことを言う? まるで私に、あなたがたに反逆して欲しいとでも言っているかのようだけれど」

「いいえ、私は別に。どう転がったとしてもそれはただのエンターテインメント。であればね、見たことのない未来を見たいと感じたって、それはしなことではないのではなくて?」


 それはそうかもしれないと、マリアは思う。この混沌の悪魔は、幾度となくこんな景色を見てきたに違いないのだ。


「私にとって、ディーヴァたちの潰し合いは既定路線だった。でもそこから先は、マリア、あなたという存在によってまだ未知。あなたがくだらない選択肢を選んでしまわない限りはね」

「私はあなたがたの、そして創造主の思い通りにはなりません。私は姉様方の意志を無駄にしないために、全てを捧げる」

「そうね」


 アトラク=ナクアはほとんど姿を消していた。マリアは追いかけようともしない。


「それが良いでしょう、マリア」


 姿が消える。声も消える。


「あなたの本当の望みは何なの、アトラク=ナクア……」


 まだ知らぬ未来を見ること――。


 マリアの意識の中に、アトラク=ナクアの静かな声が響いた。

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