底の見えぬ願望

 それきりヴェーラは口を開かず、マリアやレベッカの呼びかけにも応えずに、自分の執務室に籠ってしまった。


「ヴェーラ……どうしたのかしら」


 仕方なく、レベッカはマリアを伴って隣にある自室に場所を移動した。その部屋は五メートル四方程度と、中将のものとしてはとても狭い。第一艦隊および第二艦隊の維持管理コストをわずかでも節約するためにと、参謀本部は一番狭い部屋を用意した――という経緯がある。調度品の類も皆無で、机や椅子も実に一般的な事務用のものであった。スペースの関係で、応接セットすら置かれていない。


って、何?」

「たぶん、あんなことに遭遇して動揺しておられるのだと思います」

「そうかしら……」


 レベッカは自分のデスクチェアに腰を下ろして、座面をくるりと一回転させた。マリアはレベッカの背後にある窓際に移動し、窓枠に軽く背中を預けた。レベッカは今度は椅子を半回転させて、マリアの方へ身体を向ける。


「あの時、ミサイルが飛んできた時ね、感じたのよ」

「安堵、ですか」


 マリアは静かに応じる。黒い瞳がレベッカを穿つ。レベッカはその視線を真っ向から受け止め、深く頷いた。


「私には、こんなことが起きるかどうかわからないけれど。でももしかしたら、ASAって、その発動のトリガーって、私たちの想い……いえ、願いじゃないかって」

「彼らの暴走は、ヴェーラ姉様の願いを実現させるための、ということですか?」

「ええ」


 レベッカは長い灰色の髪を一束、右手で掴み、弄ぶ。


「でも、そんなこと――」


 だが、否定の言葉が続かない。レベッカの内に、外に、ヴェーラの想いのようなものが渦巻いて、絡みついていた。増幅器アンプリファイアを通さなくても伝わるほどの強い感情が、隣の部屋から発されているのだ。レベッカはその感触を一つ一つ拾い上げ、その意味を考える。


「ヴェーラは、苦しんでいる。孤独だって」

「あの歌が……」

「ええ。は、なのかもしれない。ヴェーラを縛る鎖のような。でも、人々にはその本当の思いは……」

「だって、彼らは知らないじゃないですか」


 マリアはゆるゆると首を振る。


「ヴェーラ姉様と、アーシュオンの飛行士の間に何があって、どんな感情が生まれたのか、なんて」

「それでも、よ」


 レベッカは目を伏せる。


「それでも伝わってほしいって、ヴェーラは本当に思っているのよ。笑いながら手を振るよりも、みっともないほど泣きわめきたい――。ヴェーラがその時どんな気持ちだったのか。その苦しみ。後悔。無力さへの嘆き……」

「そんなこと、当事者以上に理解できる人なんていないでしょうに」

「それでも」


 レベッカは膝の上で拳を握る。


「結局……私たちは孤独なのよ、マリア。誰かのために戦ったって、感謝されることなんてない。誰かのために傷ついても、誰も癒してなんてくれない。私たちの間で、互いに傷を舐め合ってごまかしていくしかない」

「待ってください、姉様。カティは、カティ・メラルティンという存在が――」

「カティはね、私たちなんかよりずっと大きい悲しみの中に生きているの」


 レベッカは大きく息を吐き、背もたれに体重を預け切った。マリアはレベッカの白い喉をじっと見つめている。


「カティがいなければ、私もヴェーラも、とっくに壊れていたと思う。私たちよりも壮絶な境遇の人がいるって教えてくれたから。でもね、マリア。不幸や苦悩は相対論じゃないの。誰かよりもマシだから、誰かの方が辛いから。そんな理由を踏み台にできるほど、人間は都合よくできていないのよ」

「でも、レベッカ姉様。私たちは、そんな中でも生きなければ――」

「ならない?」


 レベッカが言葉を奪う。そのレンズ越しの視線は、普段のレベッカとはまるで違う、ナイフのような鋭さを持っていた。


「生きなければならない――その言葉は誰のためのもの? 私たちは私たちの生き様まで、誰かのためを思って作り出さなければならないの? 顔も知らない、名前も、人生も知らない人たちのために。そしてその人たちも、私たちのこのうわべの姿しか見ない。認めもしない。でしょう? 弱音を吐かずに、生きなければならない――したり顔でそんなことを言うそんな人たちのために、私たちは生きなければならないの?」

「姉様……」


 マリアの顔が曇る。


「姉様は、姉様方は、一人ではないのです。たとえ世界中が姉様方の想いから目を逸らそうと、たとえ何をのたまおうと、姉様方が姉様方でいられなくなってしまったら、少なくとも私は悲しむでしょう。私はそんなことで悲しみたくはありません。だから、姉様は生きなければならないのです」

「勝手ね」

「勝手ですとも。姉様が生きることを苦痛に思うのも勝手です。生きることに疑問を持つことも勝手です。多くの人々を嘆くのも勝手です。ですから、私も勝手に姉様を想います。私は姉様のことを、姉様方の事を一人の人間として、愛しています。私のこの想いを裏切れるほど、姉様が消えてしまいたい、そう思うのなら、私には止められません」

「マリア……」

「ですが、不幸や苦悩が相対論ではないのように、愛することもまた相対論ではありません。私は姉様を愛しています。ヴェーラ姉様もレベッカ姉様も。この愛は、なにものとも比較されて良いものではありません」


 マリアはレベッカの肩にそっと手を置いた。レベッカは俯き、拳を握りしめる。


「レベッカ姉様。姉様と、ヴェーラ姉様のつらさを理解しきれているとは思いません。ですが、それと同様に、私がどれほど姉様方を愛しているか、姉様方は理解できているはずがありません。ですから信じてください、私を」


 マリアの黒い瞳がレベッカを捕まえる。レベッカは視線を動かせなくなる。


「……マリア、ありがとう。でもその言葉を本当に必要としているのは、私じゃない」

「いいえ、姉様も、です」

「それは」

「受け止めてください、どうか」


 マリアはレベッカの髪に触れた。レベッカはマリアの華奢な背中に腕を回す。


「あなたは……無条件に優しいのね、マリア」

「いいえ」


 マリアは首を振る。


「私はただひたすらに論理的なんです」

「論理もつきつめれば優しさになる。そういうことで、いいんじゃない?」


 レベッカはマリアの胸に顔をうずめた。マリアは黙ってその頭を抱きかかえる。


 私は、に過ぎないんですよ、姉様――。


 マリアはそっと、懺悔した。

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