綯い交ぜの呪詛

 気が付けば、エディタの意識は、巡洋戦艦デメテルの上空数十メートルの所を漂っていた。それだけであれば今までのとさして変わらない。だが、今のエディタには聞こえていた。敵味方それぞれののようなものが。ざわざわとした波の揃わない囁きが、意識を不愉快に撫でていく。


 アーシュオンの兵士たちはまだ知らないのだ。これから何が起きるのか。


 頭痛がするほどに張り詰めた緊張の中、エディタの前に一つの圧倒的な気配が現れる。姿は見えないが、確実にそこにいるとわかる、強大な何か――つまり、ヴェーラだ。それに導かれるようにして、トリーネたちの気配も近付いてくる。


 数秒の間を置いて、ヴェーラが一種厳かに言った。


『君たちのセイレネスに向けて、わたしが受け取った情報をフィードバックする。ハンナは……まだやめておこう。でも、一期生は覚悟を決めてくれ』

「はっ……」


 エディタが応じると、トリーネ、クララ、テレサもまた同調した。


『君たちはこれから地獄を見るだろう。呪詛を聞くだろう。だけどこれは、歌姫セイレーンである以上、決して避けては通れない事象なんだ。もし、無理だと思ったら、もう二度とセイレネスには近付いてはいけないよ』


 ヴェーラはそこで一度言葉を切り、そして一呼吸を置いて、重々しく宣告した。


『君たちは、これからの数十分で、確実に魂を殺される。でも、この一度に関しては、逃げることはできない。逃げるなら、今のうちだ』


 ヴェーラのその執拗とも言える脅しに、エディタたちは少なからず身を竦ませる。ヴェーラの言葉がただの脅しではないことは火を見るよりも明らかだった。ヴェーラは、その地獄を幾度となく経験し、その魂を幾度となく殺されているのだ。


『ログアウトしてもわたしは責めない』


 エディタたちは無言でそれぞれの気配を探っていた。誰も身動きできない。一言も発せない。心が怯え切っていた。


『……時間切れだ』


 数分の後、ヴェーラは静かに宣言した。


 すっかり日の落ちた海は暗い。海と空の境界線がもはやわからない。ただの濃紺の世界が視界一杯に広がっている。空の星はやけに鮮明で、静かな海面にも無数の輝きを映していた。


恍惚トランスに、酔え――!』


 ヴェーラの声が聞こえたその直後、デメテルが主砲を一斉射した。呼応するようにして防空駆逐艦らが対空ミサイルを打ち上げ始める。


 地獄が、始まった――。


 デメテルから放たれるそのは、十重とえ二十重はたえにも連なり、水平線の彼方へと吸い込まれていく。薄緑色の光が波紋となり、対空砲弾と共に、海に鮮烈な反射像を描きながら、空を渡っていく。


 その幻想的な光景を目にしたエディタたちは総じて「美しい」という感想を抱いた。だが、それはほんの一瞬だった。


 空の彼方で何十何百もの光が閃いたその瞬間に、エディタたちの意識の中に、いくつものおぞましい光景がえぐり込まされてきたからだ。


 端的に言えば、それはである。驚愕、恐怖、絶望、それらすべてが包含された何か。その声は、音は、エディタたちの意識の中を無茶苦茶に走り回る。そしてまるで手当たり次第に精神を傷付けていく。圧倒的強者に蹂躙される彼らアーシュオンの兵士の肉体が、精神が、打ち砕かれていく様を、エディタたちは如実に見た。目を閉じることすらできないセイレネスの中で、理性や知性が関与することすらできない領域で、この上なく無慈悲でグロテスクなものを叩き付けられた。


 ある程度の覚悟はしていたエディタだったが、現実はそんなものをはるかに凌駕していた。の顔も声も見える、聞こえる。その人の大切な人の姿も見える。思い出さえ流れ込んでくる。良き恋人もいた。良き親もいた。だが、その思い出に触れた刹那、彼らは数センチ単位の肉片になって砕け散るのだ。そこには一切の情状酌量はない。全く無慈悲に、全く公平に、ヴェーラは大鎌を振るっているのだ。


「こんなの……」


 耐えられる方がおかしいじゃないか!


 エディタは心の中で絶叫する。だが、その声はどこにも響かない。断末魔に掻き消される。あまりに無力なその叫びは、仲間たちにすら届かない。叫んでも誰も助けには来ない。わかっているのに、止められない。そうでもしなければ、自分というものが砕け散ってしまうのではないかと、そんな恐怖が全身に絡みついていたからだ。


 揺れに揺れる視界の向こうに、アーシュオンの艦隊が浮かび上がる。いや、エディタたちが敵艦隊の方向へと引っ張られているのだ。もはや自力で意識を管理することすらできないエディタの襟口を、誰かの手が強引に引き摺って行く。


 地獄は続く。航空機は面白いように叩き落とされ、艦船もまた、情け容赦なく蹂躙されていく。彼らはデメテルを射程距離に収めることすら叶わず、ただ一方的に粉砕されていく。そこはもはや、処刑場だった。抵抗することも逃げることも許されぬこの海原で、彼らは捕えられ、撃滅されていく。


 命が消えるたびに、エディタたちは彼らの記憶を見た。喜びも悲しみも、そして断末魔の叫びも。まるで古い友人でもあるかのように思ってしまえるほどに、彼らの思い出に触れさせられた。そしてその直後の生命の廃棄処分である。


 血を噴き、腹を裂かれ、或いは焼かれ、溺れ、貫かれ、割られ、人であったことすら怪しいほどに変わり果てた肉骨片と化した彼らの姿まで、エディタたちは記憶の中に刷り込まれた。忘れることなど永遠にできないほどに強烈に、視覚、触覚、嗅覚、とにかく全ての感覚器に、彼らの死は関連付けられた。


「もういい、もうやめて、もう、やめてください!」


 エディタは半狂乱になって叫ぶ。だが、誰も応えない。死神の乱舞は延々と続き、全くの無分別にそして無差別に、死が量産され続けた。


「ヴェーラ・グリエール提督! お願いです、もう、もういいじゃありませんか!」

『――それを決めるのはわたしではないんだよ、エディタ』


 寒気がするほどに温度の低いその囁きは、わずかに残った思考能力を破壊した。


 エディタは泣き叫ぶ。


 その声はしかし、終わらない呪詛と断末魔によって――。

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