ペンデュラム

 硬直してしまったエディタを見て、ヴェーラは温度の低い微笑を浮かべつつ首を振った。


「まぁ、冗談はさておくとして」

「ヴェーラ、脱線し過ぎよ」


 レベッカはブランデーのボトルを抱きかかえたまま抗議する。ヴェーラは面倒くさそうに右手をひらひらと振って、話の主導権をレベッカに譲渡する。レベッカはあからさまに溜息を吐いてから、バトンを受け取った。


「知っての通り、というか、見ての通り。ヴェーラは冗談では済まされないくらいに深刻な精神状態にあるんです。のおかげで何とかコミュニケーションは取れていますが――」


 レベッカはブランデーのボトルをテーブルに戻す。ヴェーラはそれをすかさずかすめ取り、嬉々とした表情でティーカップの中に注ぎ込んだ。


「飲み忘れると、ちょっとえらいことになるそうなんだよね、当のわたしはまるで覚えてないんだけどさ。でも、薬を飲んでいてもね、過度の興奮状態になると、薬の抑制をぶっちぎってしまうなんてことも少なくないんだ」

「あ……」


 エディタは思わず声を出す。


「この前のも、もしかして」

「見られた? ああ、まぁ、見られるか」


 ヴェーラはもはや紅茶の気配さえなくなったティーカップを持ち上げつつ、難しい表情を見せる。エディタは、黒髪の少女を殺し尽した後のヴェーラのあの微笑を思い出し、無意識のうちに下唇を噛み締めていた。


「なら話が早いや」


 その様子から、ヴェーラは状況を悟る。


「えぇとね、わたし、ああなることが少なくないんだよね」

「あの状態はいわゆる暴走モードです」


 レベッカが言葉を引き継いだ。


「ああなると、自分で落ち着いてくれるまでは、私の声すら聞こえなくなってしまいます。そして、その状態が切れると、きまって激しい鬱状態に落ち込みます」

「限界ギリギリの薬を使っても、なかなか回復しないんだな、これが」


 そうなんですか……と発したつもりの言葉は、音になっていない。息が抜けただけだ。エディタは声すら出せないほどにショックを受けている自分に驚いた。


「政治の都合というか、大人の事情というか」


 ヴェーラは立ち上がって、今度は冷蔵庫を物色し始めた。冷蔵庫の中を眺めながら、「でも嬉しいよ、エディタ」とぽそりと呟く。


「わたしたちの理解者が増えるのは本当に嬉しい。エディットがいなくなった今、わたしたちと共苦できるのは、カティくらいしかいなかったから」

「でもこれからは」


 レベッカが穏やかな視線をエディタに向ける。


「あなたたち新たな歌姫セイレーンたちが生まれてくる。はやく私たちを超えるディーヴァが誕生してくれることを願っているわ」

「お二人を超える……?」

「そうよ。それは私たちの希望みたいなものなのだけれど。そんな歌姫セイレーンが現れた時、私たちはようやく解き放たれるんじゃないかなって思っているの」


 レベッカは空になったティーカップをじっと見つめる。

 

「エディタ。あなたには、その子たちを導いてあげて欲しいのよ」

「じ、自分が、ですか?」

「ええ。あなた以外にはいない」


 レベッカは静かに断定した。ヴェーラは無言で頷いている。レベッカはエディタを見つめ、落ち着いた口調で続けた。


「エディタ。そのためには、あなたにはセイレネスの何たるかを知ってもらわなければならないわ。先日見せた戦闘は、私たちの見ている世界の何十分の一。そういうふうに情報量を制限してあったから。でも」

「次は君に、あのグロテスクな世界を見せるよ。わたしたちがはまっている深みに案内する」


 ヴェーラは空になってしまったブランデーのボトルを振りながら、エディタにウィンクした。エディタは唾を飲み、背筋を伸ばす。


「わたしたちにはね、これから殺す相手の顔が見えている。死にゆく人の呪詛が聞こえている。船なんか沈めたら、そりゃもうえらいことになるよ」


 ヴェーラは立ち上がり、今度は冷蔵庫からビールを持ってきた。レベッカは何も言わない。


「核を落としたときは――地獄を見た」


 そうだ、それがヴェーラの精神に決定的なダメージを与えたのだ。エディタは喉を鳴らして唾を飲む。


「もう二度となければいいのだけれど、どうかな」


 ヴェーラはレベッカを見て、目を細める。レベッカの目は前髪に隠れて良く見えない。エディタは言葉もなくじっと座っている。その様子を半ば愉しんでいたヴェーラは、小さく指を弾いた。


「ま、空気も澱んできたところで。一つ二つ、昔話でもしようかな?」

「昔話……ですか」

「そう」


 ヴェーラは頷いた。そして、ソファの背もたれに両手をかけ、天井の方に視線を動かす。


「馬鹿なわたしの恋の話。アーシュオンの飛行士を好きになってしまったなんていう、絵に描いたような馬鹿な話」


 ヴェーラはそう言って、密やかに息を吐いた。

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