全部、ノー!

 入って来いよ、と、カティは再び静かに呼びかける。レベッカはゆっくりと身を起こし、立ち上がった。そして足音を忍ばせて洗面所に向かう。涙でぐしゃぐしゃになった顔を洗おうとでもいうのだろう。


 カティもおもむろに立ち上がり、ドアの所へと向かう。ノブに手を掛けようとしたその瞬間、勢いよくドアが開けられた。そこには落ちくぼんだ目でカティを睨むヴェーラがいた。その視線には負の感情がみなぎっていた。嫌悪や軽蔑、ともすれば殺意のようなものまでが、そこにあった。


「わたし、やっぱり許せない」


 それが三日ぶりに聞いたヴェーラの言葉だった。


「わたしからエディットを奪ったのは、あの女なのに。わたしの心とあの女の命を天秤にかけたんだ、カティたちは」

「ヴェーラ、座れ」


 カティはヴェーラの肩に触れる。ヴェーラはそれを振り払い、ソファの一つに深く身体を沈めた。カティもさっきまで座っていた場所に戻り、はす向かいで唇を引き結んでいるヴェーラを眺める。カティは小さく息を吐いて、ブランデーを少し注いだ。ヴェーラはその様子を冷淡な目で追っている。


「姉さんは、最期に何か言ったのか?」


 カティの問いかけに、ヴェーラはしばらく沈黙する。空色の瞳が、どんよりと曇っていた。その指先が苛々と組み合わされてはほどかれ、解かれては組み合わされる。そしてその沈黙は、レベッカが洗面所から戻ってくるまで続いた。


「――ごめんねって」

「ごめんね、か」


 まったくだよ――カティは溜息を吐き、ブランデーを一口、胃の中に流し込む。ヴェーラは瞬きもせずに輝きのない瞳でカティを見つめていたが、レベッカが向かいのソファに腰を下ろすと、今度は彼女を睨みつけた。純然たる怒りのようなものが、その双眸を燃やしている。


 カティは静かに息を吐き、そして、ブランデーの香りを吸い込んだ。


「薬は? 飲んでるのか?」

「飲んでる」


 ヴェーラは短く答える。カティは心の中で舌打ちした。


 その時、ヴェーラはすっと身体を起こし、エディットの写真の前にあったブランデーの入ったグラスに手を伸ばした。ヴェーラがグラスを手にする直前に、レベッカがヴェーラの手を押さえていた。


 ヴェーラは「ほらね」、と笑みを見せる。


「君は、こういう時だけは手が早いんだ」

「ヴェーラ……」


 その視線と声音に圧倒され、レベッカは手を引いた。ヴェーラもゆっくりとソファに戻る。


「ヴェーラ、私――」

「言わなくて良いよ、ベッキー。わたしは別にどうとも思っていないから」


 ヴェーラは冷淡に言う。レベッカは唇を噛んで耐えている。


「わたしがハーディを殺せていれば、今のわたしはもう少しマシだっただろうけれどね」

「ヴェーラ、お前」


 カティはグラスを置いて、ゆらりと立ち上がった。ヴェーラは無表情にカティを見上げ、ほんのわずかに口角を上げた。酷薄な微笑だった。


「お前さ、ハーディを殺せたら満足なのか? 殺していれば、姉さんが死んだことが帳消しになったりするってことか?」

「それは……」

「言えよ、ヴェーラ」


 カティは腕を組んで、じっとヴェーラを見下ろした。ヴェーラは前髪の奥に表情を隠して黙り込む。しかしカティは諦めない。しゃがみこみ、目の高さを合わせ、そしてその小さな右肩に手を置いた。


「姉さんの命って、アレキサンドラ・ハーディが死んだくらいでつりあう程度の重さだったのか?」


 ヴェーラは両手を握りしめたまま答えない。その表情は冷たく、硬い。カティはヴェーラの目を見つめたまま、静かな口調で問いかけた。


「お前の手を汚してしまうほど価値のある仕事なのか、それが。そんなことして姉さんのためになるとでも思ってるのか? 喜ぶとでも思っているのか?」


 ヴェーラは顔を伏せ、唇を戦慄かせ、拳を震わせる。カティは待つ。レベッカは固唾を飲む。


 ややしばらくの時間が過ぎ、ヴェーラはようやく顔を上げた。その頬には涙が伝っていた。

 

「ノー! ノーだよ! 全部、ノーだ!」

「そうだ」


 カティは精いっぱいの優しさを込めて言った。


「それでいい」


 そしてヴェーラを抱きしめる。ヴェーラも震えが止まらないその手で、腕で、カティの背中を力いっぱい抱きしめた。


「ごめんな、ヴェーラ」


 カティはやや上ずった声でそう囁いた。薄暗く静かな部屋の中に、その声はやけに響いた。カティはヴェーラを一層強く、抱いた。


「ごめん」


 結局行き着くのは、いつもその言葉だ。辿り着くのはいつだってこの言葉なんだ――三人は同じことを考えた。


 ヴェーラがしゃくりあげながら言う。


「そんなの、うんざりだよ」

「ああ」


 カティは頷いた。


「ほんとうに、うんざりだな」

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