■五月二十七日(水) 夏凛 1

「ただいまっす」


 ぼそぼそと小さい声で、バイトを終えて山麓園に戻ってきて、夏凛は呟いた。食堂に入る。


「夏凛、お帰り!」


 すでに十年近く住んでいるのだ。顔見知りになっている食堂の女の人が声をかける。


「どうも」


 夏凛は軽く会釈をして、今日の晩御飯の盆を受け取った。それからきょろきょろと食堂内を見回す。


 食堂では、栄美の横で望が何やら熱心に話しかけていた。


「ただいま」


 夏凛が言って、顔を上げて夏凛と目が合った望に、顎で合図した。望があわてて夏凛の場所を空け、一人分横にずれる。


「お帰り」


 栄美が、今のやりとりをまったく気にしてない顔で笑う。


「夏凛が帰ってくるの待ってたんだ。さ、食べよう。いただきます」


「いただきます」


 小さい声で呟いて手を合わせ、夏凛は箸に手を伸ばした。


「夏凛、……何てゆーか、すごいね」


 栄美が笑みを含んだ声で、おそらく今の一連のやりとりの感想を述べる。


「栄美の横はあたしでいいしょ?」


「うん、いいんだけどね」


 苦笑いで栄美が答える。


「でもさ、こうやって会ってみると、博之さんや美佐さんの気持ちも判るよなぁ」


 どんぶりに大盛のご飯をつつきながら、望が呟く。


「博之や美佐の、何の気持ち?」


 夏凛は味噌汁の椀を左手でつかんで、直接口に持って行って飲み物のように飲みながら、自分の右横にいる望に訊く。


「あの二人、栄美ちゃんのお母さんにめっちゃハマってたんだよ。栄美ちゃん見たら、なるほどこういう雰囲気かぁって判るっていうか」


 夏凛は顔をしかめた。


 栄美のことは友達だし好きだが、前に会った栄美の母親には特別興味を惹かれるものはなかった。


「いやもう、お嬢さんって感じで別世界じゃん? それなのに話しかけたら気さくに返事してくれるし、俺のしょうもない冗談で笑ってくれるし、そりゃ美佐さんたちハマるよなって感じ」


「惚れるなよ」


 夏凛があきれたように感想を言う。それからまじまじと栄美の顔を見た。


「なに?」


「そりゃあたしらから見たらお嬢さんだけどさぁ。そんなこと言ったら大概の女はそうじゃん?」


「そういうんじゃなくて、……何て言ったらいいのかなぁ」


 望がひじをついて、栄美と夏凛を見た。


「金持ちのお嬢さんじゃなくて、育ちのいいお嬢さんって感じ? こんな人に優しくされたら、そりゃ美佐さんハマるよ」


「優しいかどうかはともかく、母と美佐さんは仲よかったみたいね。……あれ?」


 栄美は言葉を切って、ひじをついている望の手首をじっと見た。


「ブレスレット? 数珠?」


 望が右手首に透明の石をつないだ数珠を着けている。


 望の表情が、ふやっとにやけたものになった。


「彼女が『おそろいで着けよう』って言うからさぁ」


「あっそ。よかったな、彼女ができて」


 あきれて夏凛が言うと、望は幸せそうに笑った。


「うん。いい子なんだよ。勉強は苦手だけど、『親が金出してくれてるから絶対高校は卒業する』って言っててさぁ。高校は公立でもお金かかるからって小遣いはもらわないでバイトしてるんだ。一見ちょっとコワ系だけど真面目なんだよ」


「なるほど、コワ系なんだな」


 夏凛が突っ込むと、望は不満そうに黙り込んだ。

 夏凛が黙っていると、栄美が口を開いた。


「あたしは、親に出してもらったお金のことを考えるけど、考えない子は本当に考えないじゃん。望さんが見ていい子だと思うんだったらいい子なんだよ」


 栄美の言葉に望はぱっと笑顔になった。


「やっぱり栄美ちゃん、めっちゃいい子だ」


「栄美はいい子だけど」


 そこで夏凛は言いかけた言葉を切った。さすがに栄美の前で「栄美の母親がいい人かどうかは別じゃん」とは言えない。


 けれど言いたいことは伝わってしまったらしい。栄美が苦笑いする。


「正直、うちの親はいい人ではないよ。うちの会社の会員やめてつきあいが続く人もいないし、本当の利害関係ゼロの友達とかいないんじゃないかな」


「利害考えたら、あたしと友達になるメリットなんてないねー」


 夏凛がけらけらと笑う。


「……あたしは、親の仕事が仕事だから、友達なんてほとんどいないよ」


 栄美が思いつめた声を出す。


「そんなのここにいる奴らみんな経験してるよ。ここに来る前はたいてい親で、ここに来てからは住んでる場所が理由だけどね」


 夏凛が笑いながら言う。


「……そうなんだ」


 栄美が目を丸くする。それを見てなぜか望が自慢げに笑う。


「な、いい子だろ? ……あ」


 不意に望が顔を歪めた。ぽろぽろっと涙がこぼれる。あわてた様子で望は、夏凛と栄美に背を向けた。拳で乱暴に顔をぬぐう。


「こいつ、中学校の頃に、ちゃんとした家の子と付き合って、その子の親に『養護施設で育ってるような不良がうちの娘に手を出すな』って言われたことあるんだよ」


「ひどい」


 夏凛の解説に、栄美が即答した。


「じゃあ俺が栄美ちゃんと付き合ったら、栄美ちゃんの親文句言わない?」


 涙の残る顔に意地の悪い表情を浮かべて、望が訊く。しかしその表情に気づかない様子で、栄美は真剣に考え込んだ。


「たぶんね、言わないと思うんだけど、もし万が一彼氏ができたなんて言ったら、心の教室に連れて来いとか、バイトしてるんだったら商品をお試しで買えるだろうとか、工業高校だったら高卒で働くだろうから高校を卒業したら本格的にビジネスやれとか、でも売上とかノウハウに関しては責任取らないよ、って感じが、むしろ、彼氏を親に会わせたくない、なぁ」


「それビジネスじゃないじゃん。商品提供してるだけ?」


 夏凛が訊くと、栄美は渋い表情で頷いた。


「イベントできれいごとは言ってるよ。今『ない』って言っちゃったけど、うちの商品売るノウハウはある程度はあるみたい。異性に勧誘された方が買う率が高いとか。あとやっぱり続く人は、連れて来られた人が一番言ってほしいこととか見抜くのが上手で、そこからすごい上手に商品に誘導してる」


「普通の会社の営業のノウハウと違う感じだね」


 夏凛の感想に、栄美は頷いた。


「うん、きちんとした会社で営業ができるんだったらうちなんか来ないでしょ。だいたい仕事ができなくて、でも本当の俺は違うって思ってて、『金持ち父さん』なんかがバイブルな人が多いかな」

 栄美の説明に、夏凛は首を傾げた。


「金持ち父さんって何?」


「本。うちは父が書籍を出してるからあんまり金持ち父さん本は推してないけど、よそのネットワークビジネスから来た人がたいてい読んでる。お金は寂しがり屋だとかお金がお金を産むから投資しなきゃとか、その投資の一環としてネットワークビジネスを薦めてるとこが、ネットワークビジネスと相性いいらしいよ」


「あ、それ、博之さんが言ってた!」


 不意に望が大きな声を出した。


「ラットゲームがどうしたとか、お金がお金を産むとか、そんな話で、西尾さんの友達の友達と意気投合しちゃって、西尾さんに『借金してまで投資するバカがいるか!』って怒られてた」


「その通りだよ、あのバカ」


 うんざりと夏凛は大きなため息をついた。


 そのとき栄美の携帯が鳴った。

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