□五月十八日(月) 栄美

 栄美は、ほとんど寝られないまま朝起きていつものように一人でパンを食べ、バスに乗った。月曜日なので、『ターゲット』という単語集のテストがあるので、バスの中でそのチェックをする。高校生向けの単語集とはいえ、中学の塾で習った単語もそれなりにあり、全部が全部新出ではないので、知らない単語をチェックするだけで何とか及第点は取れる。


 停留所で降りて、通称『地獄坂』と呼ばれる高校正門前の急な坂を歩きながら、『ターゲット』の最後のチェックをする。何とか今回も追試は免れる程度の点数取れるだろう。栄美は文系なので、文系教科での追試は避けたいところだ。


 いろいろあったが、とりあえず目の前の小テストを何とかせねば。


 栄美はそんなことを思って、いつものようにクラスのドアを開けた。


 栄美が入った瞬間、クラスの中が、しんと静まった。


 ……あ、また。


 栄美が心のどこかで思った。幼稚園の頃から延々と続く、母が勧誘したり、両親の仕事が広まった時の、お決まりの様相。


 この場合、何を言ったって、揚げ足を取られて騒ぎになる。その挙句、自分が騒ぎを作った大本だと言われてしまうのだ。


 それならば黙っていた方がいい。


 栄美はまったく気づかない風を装って席に座って『ターゲット』を広げた。チェックを付けた、昨日の時点で覚えていなかった単語をチェックする。


「死体、見つけたんだって?」


 不意に甲高い声が響いた。ある意味、よく知っている声だ。

 栄美が顔を上げると、案の定、栄美の席の前に立っていたのは、早川沙保里はやかわさおり。近所に住んでいて、幼稚園から高校までずっと同じだ。

 とはいえ仲がいいわけではない。むしろ何かにつけて栄美に絡んでくる、面倒な女子だ。高校では幸い同じクラスになっていない。だが同じクラスに彼女の友達がいることは判っていた。


「……それが何?」


 栄美が答えると、早川はわざとらしい笑顔を作った。


「またおうちの人のお仕事の関係でしょ。大変ねえ、マルチ商法みたいないかがわしいお仕事やってると、殺人事件にまで巻き込まれちゃうんだぁ。親が怪しい仕事やってると大変なのねー。まあ、うちはパパが弁護士のお友達いるから紹介してあげても」


「うるさい」


 早川の声をぶった切るように、全然違う場所から声が飛んできた。


 夏凛だった。皆川夏凛。


 栄美が高校に入って初めてできた友達。窓際の自席に座って、栄美と同じように『ターゲット』の勉強をしていたはずだ。


 夏凛は立ち上がって、つかつかと栄美の席に来ると、早川の肩を掴んだ。


「お偉いお父様のもとに生まれて運がよかったな! それがそんなに自慢!? バカじゃねえの!? 子供は親を選べないんだよ! パパの金持ち自慢なんて、幼稚園児かよ!!」


「か、……夏凛、どしたの?」


 栄美は目を真ん丸に見開いて、夏凛を凝視した。栄美が知っている夏凛は、確かに口は悪いし気も短いところがある。だがこんな夏凛を見たのは初めてだ。


 それは栄美だけではないようで、クラスの大半の人間が、驚いた顔でこちらを見ている。


「あたし、親のことでいちゃもんつける奴大っ嫌いなんだよ! こいつ絶対、殴られる心配とかしないで好き放題言ってたよね。あたしみたいに殴る奴だったら絶対言わないよね。こういう奴は二、三発殴っても許されるよね!」


「……ぇ」


 予想外の攻撃に、早川は逃げようとした。夏凛が肩に置いた手を振りほどく。すると今度は夏凛が早川の右手首を掴んだ。そのまま夏凛の方に引き寄せる。


 ……殴っちゃう!


 栄美が思ったときだった。


 教室のドアががらっと開いた。


「おーい、潤。今日、このクラス古文あったよな。教科書、貸してくれよ!」


 まったく空気にそぐわない明るい声が教室中に響く。


 隼人だった。


 それからようやく教室のおかしな雰囲気に気づいたらしい。きょろきょろと見回して、夏凛に気づいたようだ。大きくため息をついて夏凛に近寄る。


「おまえ、西尾さんに騒ぐなって言われただろ」


「うるせえ。入学して一か月半大人しくしてたんだ。むしろほめろ」


「どんな荒れた中学時代だったんだよ。……とにかく手ぇ放せ」


 隼人の言葉にも、夏凛は頑なに唇を噛んで、早川を掴んでいた。


 隼人がその夏凛の右手を掴んだ。無理やり早川から手を放させる。それから急に、隼人はぎょっとしたような表情になった。


「……ふざ、けんな」


 夏凛の声が弱々しい。


「うわっ、……泣くなよ。とりあえず行くぞ。来いよ」


 今度は隼人が夏凛の手首を掴んだ。夏凛は抵抗しない。そのまま隼人は夏凛を連れて、教室を出て行った。


「……何、あの子」


 早川が呆然と呟く。


「だめだよ、早川さん。あの子怒らせたら。殴られなかっただけよかったじゃん。皆川も、ガマンできるようになったんだな。すげえ、人間って成長するんだ」


 少し遠い席にいた男子が言う。


「何でそんな子がうちの高校に来てるのよ!?」


 早川がムキになって言い返す。


「天才なんだよ。リアルに天才。……あと、口より先に手が出るけど、相手にも非があることが多いから、あいつのことかばう先生がいて、内申書は何とかなったって噂」


「マジかよ。こえー」


「まあ、でも今も……いや」


 誰かがそんなことを言ったときに、チャイムが鳴った。予鈴だ。

 栄美はほっと息をついて、ターゲットを開く。早川もさすがに栄美に絡むのはやめたらしい。教室を出た。


 しかし。夏凛があそこでキレたのは本当に意外だった。確かに友達だが、本音、顔見知りと友達の間くらい、まだまだそんなに親しいわけではない。


 もっとも、夏凛の怒りポイントは、彼女の発言から察するに、栄美の親を揶揄するような言い方をしたことだろう。

 けれど栄美は夏凛に親の話をしたことはない。夏凛も自分の家族の話をしたことはない。それが気楽だったけれど、……夏凛にとってもそこは、触れられたくない場所なのかもしれない。

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