サガラ・トゥーチ

 年明けを待たずして、アルジュナ・トゥーチは旅立っていった。

 それほどまでに衰弱していたものか。あるいは先帝に殉じたいという意志力が働いたものか。あまりに呆気のない、東方の盟主の死であった。


 すでに真竜の死者が全体の過半を超えると言う危機的状況にあって、またそれがゆえに

「豪奢な葬儀など無用」

 というアルジュナ自身の遺言もあり、生前の恩徳に比すれば簡素な弔いが行われた。


 鋼の陵墓。

 ブラジオの空棺が納められたのと同じ霊山ではあるが、それよりも高く、深い場所へと、アルジュナは眠りに就くこととなった。

 はや、不心得者が暴きにくることなどあるまい。と同時に、他家へ辞する星舟など触れられぬ位相へと、彼は行ってしまった。


 霧のかかった峰を細めた隻眼で見上げながら、星舟は唇を噛みしめた。


「実の倅より辛そうな顔するんじゃないよ」

 その背後より声をかける者がいた。

「まるで俺が悲しんでないみたいじゃない」

 喪服をまとった、サガラ・トゥーチである。

 その衣の色もまた黒であるからして、普段見慣れた軍服と、印象の差異はない。

 ただ父より移譲された銀色の『牙』が、釣り合ってなくて強烈な違和感を放っている。

 言葉でこそ嘆いてみせるが、それこそ深い悲しみに暮れているようには、とうてい思えなかった。


 気配は背越しに通じ取っていたのでさして驚きもせず、星舟は反応もなく顧みた。

 その所作に面白くなさげに鼻を鳴らしながら、サガラは星舟に並び立った。


「で、もうこの後すぐに発つんだって?」

「はい、トゥーチ家には長らくのご厚情を受けておきながら、心苦しいことではありますが、竜全体の向後を鑑みればやはり南部の海軍および東部との紐帯の強化は必要不可欠であり、そのために微力を尽くせればと」

「だったらその薄気味悪くて白々しい敬語はやめろって。お前はトゥーチ家とは関係のない人間になるんだからな」


 用意していた表向きの理由を一蹴し、今まで互いに薄々は気づきつつも深入りしてこなかったおのれらの関係に、この時サガラは踏み込んできた。


「それともなに? やっぱ止めて俺の犬になるの?」

「……では遠慮なく」


 星舟はふっと息を吐いて、自分でも吐き気がするほどの甘い表情を、辛く苦みを持たせた挑発的な笑みへと転向させた。


「あんたのために働くことは金輪際御免だ。あんたを超えるために、オレは犬以外の何者かになれる場所に行く」


 言った。言ってやった。

 今まで折檻と恫喝にさらされるたび、何度とそう声を荒げようと思ったか知れぬ。

 だが体面と直接的な死や痛みへの恐怖が、それにずっと歯止めをかけてきた。だが口に出してしまえば何のことはない。あるのは透き通った痛快さだけである。


 対してトゥーチの新しい主は、碧眼を「へぇ」と眇めたばかりである。


「シャロンは良いってのかい」

 と、その場におらず弔問客のあいさつ回りに奔走している妹の名を挙げた。


 ……それで、脅しているつもりなのか。

 考えなかったと思うのか? 悩まなかったと思うのか?

 暇乞いを告げた時のシャロンの表情を正視して、虚心でいられたと。少しでも後ろ髪を引かれなかったとでも。


 そうした煩悶を乗り越えたから、今こうしてすべての支度を終えて服喪しているに決まっているというのに。


「そもそもお前さ……逃げ出したところで俺に勝てると思ってんの?」


 極め付きは、この問いかけである。

 もちろん、星舟の中にはなお、自分もサガラを喝破できるだけの材料など今なお持ち合わせていない。

 かつてのしがらみにまみれていた自分であれば、そのいずれかのみであっても二の足を踏んでいただろう。


「……さぁてな。正直、ラグナグムスに行ったところで何ができるかも分からない。あんたに勝てる道理もない」

 だが今の星舟などは、とうにすべてが破壊されている。

 根底から支えていた価値観も、それに付随する判断基準も。


「でも、裏を返せば何もできない道理もなければ、あんたに負ける証もないんでな」

 だから精一杯に虚勢を張る。張り倒して、前進し続ける。

 事情も知らず、あるいは知ってもなおむやみやたらに背を押してくる者たちのためにも。


 そして夏山星舟は、自分の足と決心とで、霊前より発っていった。


 ~~~


 星舟が去った後も、サガラ・トゥーチはその場に留まっていた。

 ただし霊山からは目線を落とし、地を見つめる。


「あいも変わらず、半端な男だこと」

 と去っていった男のことを評しつつ、

「まぁ、同じくどっちつかずの半端者には似合いの『息子』でしょうよ、父上」

 などと毒づく。その深い緑の眼差しの先に、父の骸を視た。その幻視と並行し、夕暮れの、親子の最後の対面を追憶する。


『何しに来た、サガラ』

『ひどいなぁ、別れの挨拶ぐらいちゃんとさせてくれても良いでしょう、父上』


 六ツ矢の隠宅。

 父は苦い顔をして横を向いた。だが意識だけは、サガラの方を剣呑ではあるものの向けていた。


『ま、俺やシャロンとの接触を過度に避けるのも道理ではあります。ヘドが出るだけでね』

『……なんのことだ』


 ――アイアンチャンセラーシステム


 その名を告げても、衰え切った父の貌に驚きはなかった。

 それはそうだろう。自分が上洛してにわかに終息した怪雨。その関連性に気づかないほうがおかしいというものだろう。


『陛下に、何をした?』

『別に何も。いや、本当に何も危害は加えていませんよ。むしろその理由があるのは、父上の方へでしょうに。よくも今まで皆を欺いてきたものだ』

『では、討てば良かろう。それでお前の溜飲が下がるのであれば』

『まさか、今更死にゆく者にくれてやるものなど何もありませんよ』


 これは本心からの言葉だった。

 むしろ、この瞬間だけであった。

 神とそれに近しき血統を持ち、その特権をもって真実を隠匿してきた彼らに、感謝の念を抱いたのは。


『俺は、世界の真実を見た。自分が何をすべきか知り、この命の意味がようやく分かった。たとえ何者であろうとも、奪わせはしない』

『……お前の見たというものなど、真実ではない』


 父は自分の考えを、詳らかにせずとも真っ向から否定した。


『そんなものは過去の残滓に過ぎぬ。今、我々がこの世界に生まれ落ちて、こうして言葉を交わしていること。それ自体こそが真実であり、奇跡なのだ』


 などと分別くさいことを言って。

 今にして思い返せば、きっとそれがおそらく、生まれて初めてサガラが父親より受けた説教であったのだろう。


 そして今、サガラの足下には父の骸の幻影が横たわっている。

 その父の他界。帝の崩御。そのいずれにも、サガラは少なからぬ嫌疑の目が向けられている。


「実際、殺ってないですよ。俺は」


 自分がやったことは、せいぜい半死半生の帝の玉衣を絞り上げて、あの玉座に在ったものがなんなのかを確認しただけだ。べらべらと喋り立てて、勝手に心臓を弱らせて死んだのは向こうの方だ。


 彼らの死もまた、自分がその道を突き進むための星巡りとして受け入れていた。これからしようとすることは、正当化されない行いではあるが、あえてそれをするだけの舗装が自分の前途にはすでに施されている。


 表情なく凝視する彼に、亡者は静かに目を開いて言った。


「だがいずれ、お前の前に夏山星舟が立ち塞がる。その奇跡に奇跡を重ねたような存在が、お前とは違う真実を手にして」


 それは最後の父の言葉。何故そこであの出奔者の名が出るのか。それは察知している。

 父が奇跡と言った理由も、必ずその前途に立ちふさがるであろうという予言も、間違ってはいないだろう。


「なぁ星舟」


 すでにその場にない徒手空拳の出奔者に、サガラは静かに笑いかけた。そこでようやく、父の幻より目を外し、天を仰いだ。


「お前は、そうやっていつも俺から奪っていくんだな」


 常日頃に奴は一方的に奪われ、理不尽を強いられてる考えていそうな様子にだったが、サガラから言わせればあの餓鬼の方こそだ。本人がそのことに無自覚で無神経というのもなお憎らしい。


 だがこればかりは絶対に譲れない。この半端な命にようやく見出した意味までも、奪わせはしない。


 どうせ避けては通れないというのなら、いずれ来るその時には、


「その半端な存在ごと、跡形もなく消し飛ばしてやるよ」


 そう低く告げる。踵を返す。

 そして霊山に背を向け、目的も見出せない星舟が旅立ったのとは真逆の先へと、その足を進めて行ったのだった。


 霧がかかるが、不思議とサガラには果てまでも見通せている気がした。

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