第十一話
「というわけで、風邪を引きました。グホゲホ、ゲェーホッホ!!」
星舟は自分では完璧と思っている仮病と空咳とを駆使して、ナテオへと訴えかけていた。
カルラディオは彼を隣より白眼視していたが、何かを言うことをしなかった。
「まぁ、それはそれは……」
ナテオは欠片ほども疑う気配もなく、むしろ哀れそうに眉を下げ落としていた。
「あれほど熱烈に先陣を願い出ていましたのに」
「いえ、していませんが」
「後のことはお任せくださいな。貴方の立てた策に従い、一挙団結して敵陣を突き破ってみせましょう」
「いえ、そんな策立ててないです」
「慎み深いのですね。夏山殿」
「ソウデスネ」
もはや、怒るにも怒れなかった。
それはそれとして、保険としてクララボンに一隊を率いさせて、本体に組み入れた。
補充兵を除けば、これで星舟が率いるのは実数は元の第二連隊と変わらない。
ただ野戦砲と荷駄を曳いてきた討竜馬ではないただの馬は、こちらにほぼ全てを残した。
だが、その配下の方はどうか。
別れの言葉もそこそこに彼女が身を翻すと、自然背後の将兵は星舟と向き合う形となった。
そのうちのひとり。強面の若い獣竜がずいと進み出た。殺すぞとかなんとかと、軍議の席で痛罵してきたあの男だった。川獺の尾飾りを腰に巻いている。
息がかかるくらい、歯の黄ばみが分かるぐらいに凶器的な顔面を突き出してくる。星舟は逃れずそれを受け止めた。
「これ」
そんな顔のまま、男はあるものを握らせた。
小さくて丸い、丸薬のごときもの。
「金柑の汁と蜜とを煮固めた飴だ。喉にいいっちゃ」
低い声音でそう言って、ぐずりと鼻をさすりながら悪童じみた相合を崩す。
「馬」
「馬?」
「いえ……敵は数多くの討竜馬を抱えています。よもや遅れを取ることもありませんが、ご武運を」
『っっ鹿じゃねぇか』と喉から出かかったのを、星舟は懸命に堪えて呑み下した。
まぁ、ねじくれた悪意を向けてくる馬鹿よりは、真っ直ぐに気持ちの良い馬鹿の方がよほど良いが。
軍勢を見送った後、カルラディオをちらりと見遣った。
「いやぁまさか、あれほど反対なされていたのにお口添えしていただけるとは思いませんでしたな」
「貴隊のみを残すことが不安だっただけですよ。裏切られ背を撃たれてはたまったものではない」
礼節をいくらかは改めたものの、視線は合わせない。口調は剣呑。
それぞれの軍勢を束ね、配置替えをすべく入れ違う。そのすれ違いざま、星舟は飴を指で拭ってから口へと放り込んだ。
「先に言った通り、協力はしない。こちらはこちらで好きにやる。それまでは手並を拝見しますよ」
少年の挑発的な物言いを、その背伸びを鼻で嗤い星舟は進む。
――さぁて、出番だぜ子雲。
取り澄ましたあの新参者の顔を思い浮かべ、思わず笑みがこぼれ落ちた。
〜〜〜
ふらりと舞い戻ってきた恒常子雲は、忙しなく動く兵の動きに軽く面食らった。
借りていた家屋から陣幕や旗幟は取り払われ、まとめられて荷車へと押し込められる。
そのうち何度か往復する兵と行き当たりそうになった。その間際に、いくつか妙な眼差しが混じっていたことが少し気にかかった。
まだ顔に馴染みがないのか。それとも人に対する差別的なものか。だがそれを気にしないようにしつつ、彼は大将の姿を求めた。
そして手ずから自身の寝所を片付けていた隻眼の青年は、腹心の帰投に振り返って上機嫌に笑いかけた。
「おう、ずいぶん遅かったな!」
もう間も無く破滅に追いやられるとも知らず無邪気に浮かれる彼に、苦笑をこぼして頭下げる。
「貴方が早すぎるんですよ。ご出立はまだ先だと思っていました」
「機に臨みて変に応ずる。兵法の基本だろ? 準備はすでに始まっている」
「そうですか。残念ながら敵の姿は捉えられませんでしたが、近隣の村民に問うたところ、やはり別働隊らしき影を見たそうです。ここまでは予定どおりと言えるでしょう」
取りすましたような子雲の言に、頼もしげに星舟はうなずいた。
ますます彼への信と依存を深めたようで、親しげに彼の肩を抱き、共に並んで陣屋の口に立つ。
「皆聞いてくれ!」
そのうえで、周囲で作業する兵たちの手を止め、あらためて訓示を飛ばす。
「やはり当初の予定どおり、敵はこちらに向かってきている。残念ながら本隊の援護は期待できない。現戦力をもって応戦せざるをえない!」
先の狼狽振りなど嘘のように、一端の指揮官の貌と弁でもって演説を打つ。
「まずこの子雲の見立てどおり、敵を一方にて待ち受け迎撃する! すでに本隊に追随したクララボンがそれに必要なものを全て置いていってくれている! 単純な兵力のぶつかり合いであれば相当の苦戦が予想されるが、なに、この恒常子雲の戦術眼と物資、そして諸君らの戦意があれば何ら不安に思うことはない!」
勝った。騙しおおせた。
子雲は恭しく将兵に頭を下げながら、そう確信した、愉悦を噛み締めた。
「では、将士諸君! 西へ向かって、進めぇ!」
下げた頭が、硬直した。
子雲が動けないでいる間、すでに兵士たちは自分たちに割り当てられた、撤収作業を再開した。
「……今、なんと?」
辛うじて笑みを残したまま、車や飛び交う指示の喧騒の中でもう一度確かめる。
星舟は右目をキョトンと丸めて問い返した。
「ん? だからお前が言ってたのって西だろ?」
「いえ、東です」
「そうだったか?」
その組下になって以来、呼吸ひとつ乱していなかった。喜怒哀楽、いかなる感情も露骨には表さなかったはずだった。それでもこの時ばかりは、短い言葉の中に焦りを露呈させた。
「あー、でもまぁあれだ。西でも東でもそう大差ないだろ?」
「いえ! 根底に関わる話ではありませんかッ!?」
「と言ってもな。もうそのためにクララも間道に罠を設けつつある。急に作戦は変えられないだろ」
「罠!? ガールィエ家とともに敵に当たる手はずでは!?」
「あ、これも言ってなかったか? 悪いな、彼らの助力は得られなかった。だから多少小細工をすることになってな」
「は!?」
「クララボンの分隊は人質であると同時に事前に工作をする役割でもある」
西か、東か。まず前提としてそれだけでも明確に戦の帰趨を決する二択であるはずなのに、星舟の対応はおざなりだった。
彼はまとめた寝具を配下に預け置き、身軽そうに伸びをして、呑気に歩き始める。
ナテオの生霊が乗り移ったわけでもあるまいし、今まで話し合ってきた方策は、自分の誘導はなんだったというのか。
さすがにその迂闊さに苛立ち始め、追うべく踏み込もうとした。
だが、研ぎ澄ましたその武心が、おのが心奥よりその一歩を制御した。
そして理性と経験は、完全に背を向ける刹那に見せた鋭い眼差しで全てを悟った。
――まさか……まさか!?
足下がぐらついた。
だが不明瞭だったこの男の言動に納得できた。そうなれば、取るべき選択と行動を迷わず実行に移す。
すなわち誇りや計画よりも身の安全を。
戦地の誘導よりも個人的な逃亡を。
一歩、また一歩。
誰にも知覚されない巧遅さでもって、それとなく星舟から距離を取る。目線や表情は忠良な謀臣のままに、後ろ歩きで器用に兵たちの注意の間隙をかい潜る。
そして群れの外周にまでたどり着いた瞬間、彼は転身して一気に駆け出した。
衆を抜けた先にあったのは、三の銃口だった。
自身の東西を挟み込むように、獣竜の小柄な少女たちが目当てを子雲へ定める。
反射的に足を止めると、人間の狙撃手がゴリと骨に響く音を立てて、後頭部に銃を突きつける。
「……どこへ行くつもりだ? 軍師殿」
突き離したはずの星舟が、
罠にかけたはずの獲物が、
無謀な小者と見下していたはずの若造が、
姿は見せないままに、からかうように尋ねた。
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