第弐話 将棋家③

 柳雪がおそるおそる振り向くと、そこには小柄でずんぐりとした中年の男が立っていた。

 顔色は相当悪く土気色をしている。

 何かにすごく苛立っているご様子だった。


「こ、これは……、お養父上……」


 柳雪が少し極まりの悪そうな顔をした。


 この男の名は大橋分家当主、大橋宗与おおはしそうよという。

 ——そして柳雪の養父でもあった。


 ちなみに、この時点での史上最強の棋士といえば誰か?

 それは前名人の第九世名人、大橋宗英おおはしそうえいであろう。

 大橋宗英は大橋分家出身の棋士だった。

 歴代名人のなかでも「最強」と評された天才棋士。

 定跡と呼ばれる将棋の常識をいくつも覆した孤高の天才棋士、人呼んで「鬼宗英おにそうえい」——


 今、目の前に立っている大橋宗与は、この「鬼宗英」の息子である。


 この時代、名人がひとたび誕生すると、死ぬまでだれも名人になれなかった。


「名人家元制」である――


 第九世名人、大橋宗英おおはしそうえいが死亡して、すでに十五年が経過していた。


 が、いまだ名人誕生せず――


 大橋本家、大橋分家、伊藤家が次の第十世名人位を争っていたからだ。

 将棋に関することは通常三家の協議で決めるのが習わしだったが、名人には免状の発行権が独占的に与えられた。

 同じ二十石十人扶持の将棋三家だが、その収入に大きく差が出ることになる。


 結果として将棋の名人位は空位のままとなっている。


 名人空位の期間が相当長かっただけに、最近では幕府の高官だけでなく江戸市中の町民たちの間でも次期名人の噂でもちきりだった。


「お前さん、誰押しだよ?」

「えぇ、私はそうだなぁ、大橋柳雪様かな。だってかっこいいんだもん」


 どこかのアイドル総選挙のような会話が江戸のいたる所で囁かれたらしい。


 それも致し方ない。

 なぜなら、今回の名人候補者は、粒がそろっていたからだ——。


 現時点で次期名人候補者として巷間で名が上がるとすれば、

 ①大橋本家当主「鉄仮面」大橋宗桂おおはしそうけい七段

 ②大橋分家養子の「捌きの雷」大橋柳雪おおはしりゅうせつ六段

 ③伊藤家当主「荒差し」伊藤宗看いとうそうかん八段


 の三人だろう。


 おそらくこの中でも、段位、実績そして年齢から順当に行けば、伊藤宗看が筆頭候補になるだろう。

 もちろん本人だけでなく関係者の誰もがそのように考えていた。


 だが——、無理が通れば道理は引っ込むもの。

 柳雪の目の前にいる男、大橋宗与が並々ならぬ執念で抵抗し続けているのだ。


 過去の先例からみても名人位確実と見られた者が他家の調略や抵抗によって結局名人になれなかった例はいくつかある。

 それだけでなく、互いの家が名人候補を出し合い露骨に争った結果、時の将軍がそれに嫌気をさして名人位が約三十年の間空位になったことさえあった。


 最終的に「名人」を決めるのは、町民たちの選挙投票でもなければ将棋家でもない。


 ————徳川将軍、「公方くぼう様」である。


 醜い骨肉の争いを幕府や世間に晒せば、そのことが将棋家全体に降って帰ってくることを彼らは良く承知していた。

 そこで将棋家の当主達は、名人候補を将軍に推挙する場合、三家それぞれが了承することを不文律としていた。

 そして、あくまで表面上は有効的に交流しながらも、その実は互いの足を引っ張り合い、おとしめ合うことが横行していたのだ。

 実際に、伊藤宗看が名人候補者だけに許される八段に昇段してから、すでに九年の歳月が経過していた。


 依然として彼は、まだ名人位につけていない――

 

 この大橋宗与という男は、前名人「鬼宗英」の嫡子(長男)であったことから、今回の次期名人推挙にあたっては相当の発言力があった。

 大橋本家も伊藤家も前名人の嫡子に配慮して強引に物事を進めることができなかったのだ。


 もしも、この神経質で嫉妬深いこの男が暴発でもしようものなら——

 名人位はさらに遠のくばかりだ。


 さらにこの男は、強欲にも二代続けて大橋分家から名人を輩出しようと画策していた。

 その生贄こそがまさに柳雪であった——。

 柳雪はその棋才を宗与に見初められて分家の養子になった。

 このままゆけば大橋分家の当主となるはずで、うまくゆけば名人を狙える立場にある。


 だから宗与は、柳雪が自分の許しを得ずに勝手に他家の門人と対局したこと、そしてその対局が無様な将棋だったことが相当気に食わなかった。

 もしもこのことが周知に晒されれば柳雪の評判は地に落ち、彼の計画がとん挫するかもしれないからだ。


「柳雪さん」

「はい……」

「あなた、あたしに無断で他家様の子と勝手に将棋を指すとはどういうことですか?」

「申し訳ございません……」

「困りますよ。しかも将棋の内容もあまりに酷いではございませんか。六段格が一級ごときに角落ちで手こずるなどもってのほかです」

「誠に面目ございません……」

「全く……あなたはいずれ大橋分家の当主となるべき方なのですよ。もう少し自覚を持っていただきたいものです」

「はい……」

「それはそれとして……そこの小童!」


 突然自分が呼ばれて、ぼーっとしていた宗歩はびっくりした。


「は、はい!」

「あなたの評判。最近よぉく耳にしますよ。なんでも『麒麟児』なんて大層な渾名あだなまでもらってからに……ちょっと調子に乗っているのと違いますか!」


 この一部始終を見ていた周囲の門下生たちが囁きだす。


(ひそひそ……また始まったよ。宗与様の新人いびり……)

(あの人、なんでああなのかねぇ。あれじゃぁ御父上があの世で泣いてるよ)

(自分に将棋の才能がないから嫉妬してるんじゃない)


 わずか八才の子供に対してここまで嫉妬心を露骨に隠さない養父に対して、柳雪はむしろ呆れを通り越してある種の悲しみさえ覚えた。


(この御方は……自分が棋才に恵まれなかったばかりに、有望なお子を見るといつも己を見失ってしまう……哀れだ)


 偉大な名人の嫡男に生まれた大橋宗与だったが、不幸にも将棋の才能に恵まれなかった——

 これもまた将棋家の家元世襲制が生み出した矛盾のひとつであった。


「あ、あの……」

 

 宗歩がずずいと、大橋宗与の前に食い下がった。


「ちょ、ちょっと……な、なんですか……」

「あの、宗与様。よかったらわたしに将棋をご指導くださいませんでしょうか」


 宗歩の目がキラキラしている。


「……はぁ……? どうしてこのあたくしがあなたと指さないといけないのです。はん! 無礼でございましょう!」


 宗与が手に持っていた扇子を振りかざそうとした。


「ひっ! ご、ごめんなさい。でも分家当主様ならきっと将棋がお強いのだろうと思って……。わたし、少しでも将棋が強くなりたいんです! どうかお願いします。わたしにご指導ください!」


 宗歩の目がさらにキラキラしてきた。


(な、なにこの子の瞳は眩しい…眩しすぎる!)


「ッ! ……なんて子なの……もういいわ! さぁ行きますよ! 柳雪さん」

 

 宗与はぷりぷり怒りながらどこかに行ってしまった。

 柳雪も宗歩に優しく微笑みながら、「ありがとう。また将棋指しましょうね」と言って立ち去る。


 この日から、宗歩の才能に気づいた柳雪は、折にふれて宗歩と一緒に将棋を指すようになった。

 この秘密の将棋は、いつも大橋本家の屋敷の一室でこっそりと指され続けた。

 宗歩の師匠であった宗桂は、これを見て見ぬ振りをした。


 柳雪もまた将棋家の血を引かぬ天才故に孤独を抱えていたから——


 宗歩としても柳雪の才能あふれる指し手に惹かれ、もう一人の師と仰ぎ続けた。

 二十も年が離れた宗歩と柳雪の二人ではあったが、本当の家族以上に絆を深めていくことになる。


 ———だって、将棋は一人ではできないものだから。

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