第十章

 市立病院の中庭に池がある。四角いコンクリートで囲まれた人工の池だった。水面に落ちた雨は水面に落ち、円形の波をつくる。めまぐるしく変化する池の模様を見つめながら、幸彦は登世子の愚痴を聞いていた。

「雨が続いたら散歩もできへんし、気が滅入るわ。テレビもつまらんしなあ。もうすぐ甲子園も終わるし、相撲はじまるまで見るもんないわ」

「本でも読んだら」

「本な。そうしよか。次来る時、何か持ってきてな。あんたの持ってる本でええわ」

 沈黙を嫌うように、登世子は矢継ぎ早に言葉をつないだ。母は幸彦に関する噂を耳にしている。話題がそれに向かわないよう気を遣っている姿が、幸彦には痛々しく思えた。

 幸彦は登世子がはじめようとした高校野球の話を遮った。

「昔のこと聞いてもええかな」

 話の腰を折られた登世子は、しかし不満げな素振りを見せなかった。

「どんくらい昔や。思い出せる範囲で頼むで」

 老母の手の甲には、植物の根のように細かく皺が寄っていた。退院したとして、野良に戻れるかどうかは怪しい。

「俺が高校卒業してからこっちに戻ってくるまで、父ちゃんと二人やったやろ」

「そうやったな」

「有機やめたいとか思わんかったん」

 登世子は脂気の抜けた髪の毛をかきあげた。長年畑に立ち続けた登世子の顔には、しみこんで抜けない疲れが見えた。

「逃げたいと思ったことは何回もあったな」

 二人の息子が巣立ってから十二年もの間、達男と二人きりで暮らしてきた。そのことの苦労は誰よりも幸彦が実感している。むしろ一度も逃げなかったことが異様にすら思えた。

「なんで逃げんかったん」

「私はこの町しか知らんから」

 登世子の生家はこの町で宿屋を営んでいた。両親はとっくに亡くなり、一人娘だった登世子には満田家のほかに親類縁者もいない。病室の窓の外には壁のように山脈が連なっている。立ちはだかる山の内側で、登世子は一生を終えるのだろう。

「古い考えなんやろけど、人にはその人の役目がある。私の役目はあんたら産んで育てること、ほんで家事とみかん畑の管理をすることや。それ以外にやりたいこともない」

 幸彦には、この独白が土地に縛られ続けた女の強がりとは思えなかった。逃げたいと思いつつこの地で死のうとする登世子の態度は、強がりだけでは成立しない。

 自嘲ぎみに、幸彦はつぶやいた。

「なら俺の役目は、父ちゃんの世話しながら野良仕事することか」

 登世子はきつい目つきで息子をにらみ、きっぱりと言い切った。

「自分の役目は自分で決めるんや。他人に責任負わせたらあかん」

 母の思いがけない叱責に、幸彦はたじろいだ。

「私は別に、あんたがどう生きようが構わん。決めるんはあんたや。実家が農家やとか、私の心臓が悪いとか、そんなことで恨まれたらこっちもたまらんわ」

 相部屋の誰かが咳払いをした。よそでやれ、という合図に聞こえた。

 幸彦の帰宅を促すように、登世子はそっぽを向いた。柄のないカーテンの方を向いた横顔に、母親としての誇りを感じた。

 病室を出て、一階へ降りるエレベーターを待っていると、隣に人が立つ気配があった。振り向くと、登世子の担当医が階表示を見上げていた。

 白衣を着た医師は疲れていた。顔色は白く、頬に生えた無精ひげが余裕のなさを物語っている。電光表示を見つめる目は虚ろで、意識はエレベーターホールとは別の場所にあった。躊躇しつつ、幸彦は声をかけた。

「先生」

 振り向いた医師は、わずかに笑みを浮かべてみせた。患者の家族だということ以外、見当がついていないのだろう。

「あの、満田登世子の息子です」

 医師は納得したようにうなずいた。「どうも。お久しぶりです」

 東京から来た医師の言葉は、相変わらず几帳面な標準語だった。到着したエレベーターの室内に、二人は足を踏み入れた。狭い箱の中に他の乗客はいない。

「こっちには慣れましたか」

 下降するエレベーターの室内で、医師は独り言のようにぼそぼそと語った。

「まあ、少しずつね。東京とは色々と勝手が違うんでね、戸惑うこともありますけど」

 それが、真面目な医師が患者の家族に話すことのできる最大限の愚痴だった。一階に到着して扉が開くと、医師は足早に去っていった。

 ロビーを抜け、ガラスの壁の向こうに降る雨を目にした時、病室に傘を忘れたことを思い出した。取りに戻ろうと振り向きかけたが、思い直してそのまま外に出た。駐車場をハリアーまで走り、急いで鍵を差しこんだ。

 どこか浮足立った気分で自宅まで運転した。ぬかるんだ土の上を走ったせいで、車体は泥にまみれている。汚れがタイヤにこびりついていた。

 最初に違和感を覚えたのは、玄関の靴だった。いつも一番手前に置かれているはずの、達男の靴がなかった。今日は通院日ではない。晴天ならともかく、雨の中を目的もなく散歩しているとは思えない。

 それどころか、葵のスニーカーまでがなかった。練習は午前中で終わり、もう帰宅しているはずだった。

「父ちゃん。葵。どこや」

 二人の姿は家のどこにもなかった。居間にも台所にも、それぞれの部屋にも、浴室にもいなかった。携帯電話を確認したが、連絡は入っていない。

 その時、縁側のぬかるみに残された足跡を発見した。二組の足跡は縁側を離れて庭を横切り、畑の中へと続いている。

 玄関でスニーカーをつかんだ幸彦は縁側に駆け戻り、傘も持たずに庭へ飛びだした。足跡は雑草の上で途絶えている。幸彦は全身が濡れるのも構わず、畑の奥へとひたすらに駆けた。ヘルニアの達男がそう遠くへ行けるとは思えない。葵の手を借りたとしても、まだ近くにいるかもしれなかった。

 雨がみかんの葉を打つ音が、四方から聞こえた。生い茂る木を曲がったところで、唐突に人影が現れた。二つの人影は幸彦の姿を認めると同時に息を呑んだ。レインコートを着た達男と、傘をさした葵が立っていた。達男の右手に握られた杖には、雨水が幾筋も流れている。

「何やってるん、こんなとこで」

 刈られた雑草の上に立つ葵は、哀れみを浮かべていた。

「お前、何か言うことないか」

 レインコートの下からのぞく達男の視線には憎悪がこもっている。幸彦はその目が何を目撃したかを悟った。達男の杖を持つ手が震えていた。

「平気な顔で嘘つきやがって」

 ゆっくりと幸彦の横をすり抜ける間際、達男は堪え切れないように吐き捨てた。

「ボケが」

 取り残された葵は、何か言いたげに幸彦の顔を見ていた。ずぶ濡れの幸彦に傘を差しかけようとした瞬間、先に歩いていた達男が振り向いた。

「葵、早よ来い」

 葵は出しかけた手をひっこめ、戸惑いながら達男の方へ歩いて行った。

 幸彦は一人、畑の奥へと向かった。しばらく歩くと、枯れ果てた草地に出た。雑草が根絶やしにされ、明らかにそれまでの畑地とは様子が違う。冷静に考えれば、誰が見ても除草剤を使ったとわかる。

 度重なる雨のせいで、さらに多くの果実が裂けていた。数え切れないほどの裂果が、枯草の上に落ちていた。


 ソファからゆっくりと滑り下りた達男は、膝をつき、両手をついた。額を社長室の絨毯にこすりつける姿は、定例会で目にした西尾の謝罪とそのまま重なった。

「この通りです。堪忍してください」

 震え声で許しを乞う達男の姿は、悲壮感に満ちていた。幸彦は急いで同じ格好をしたが、父子を見下ろす西尾の頬は引きつったままだった。圭太はどうしていいのかわからないらしく、口を真一文字に結んで神妙な顔を作っている。

「達男さん、無理やで。これはかばえへん」

「お願いします」

「JAS無視して、うちの面子も潰した。それだけでもとんでもないのに、未認可やったなんてそらもう犯罪やで」

 頭を下げたまま、くぐもった声で達男は言った。

「西尾さんの言うこと、ごもっともです。これからは畑はまた私がやりますんで」

「俺としては、さんざんチャンスやったつもりやで。それをあないして断ったんやから、もう手の施しようがないわ」

「ほんまにすいませんでした」

 幸彦は腹から声を出して謝ったが、自分でもそのわざとらしさに辟易していた。やっていないと断言した舌の根も乾かないうちに、こうして土下座しているのだ。

「お前、なんであの時認めへんかった。こうなるん、わかってたやろ」

 テーブルの上にガラスの灰皿が置いてあることを思い出した。どっしりとした重量感のある灰皿だった。いっそ、この場で西尾を殴り殺してしまおうかと思った。圭太は脅して黙らせればいい。この期に及んでこんな妄想をしている自分が惨めだった。

 無言で頭を下げ続ける父子に、西尾は太い息を吐いた。

「時間も時間やし、今日は帰ってくれるか。ずっとそこおられたら迷惑やわ」

 ドアの鍵が解錠され、続いて西尾の足音が響いた。顔を上げると、視界に入ってきたのは圭太の革靴だけだった。幸彦の肩に丸い手が置かれた。

「帰ってください」

 続いて、圭太は達男の肩にも手を置いた。

「達男さんも。早よ帰らんと、余計に社長が機嫌悪くしますよ」

 それでも達男は顔を上げようとしなかったが、「達男さん」ときつい口調で急かされ、ようやく頭をもたげた。圭太が退出を促すように、社長室のドアを開けた。達男と幸彦は黙ってそれに従い、事務所を出た。

 雨の夜は静かだった。空の天井はまだ雲に覆われている。

 ハリアーは西尾邸前の坂を下り、道を折れた。紀伊水道は暗い沼のようだった。

「これからどうするつもりや」

 助手席の達男が言った。幸彦には、どうするつもりもなかった。成り行きに身を任せるしかない。

「大滝とかいう奴は、どこに住んどるんや」

「茨城」

「今すぐここ呼ばんかい」

 できない相談だった。達男と大滝を会わせれば、どうなるかわからない。

「茨城やで。無理や」

「ほんなら、お前に何かできんのか!」

 怒鳴った達男の口から唾が飛び、サイドボードにかかった。

「一回、そいつのツラ見んと辛抱できん」

「なんでよ」

「なんでやと」達男の眉が吊り上がった。

「お前、俺の畑めちゃくちゃにしといてようそんなこと言えるな」

「畑出てへんくせに俺の畑って言うん、もうやめてくれ。こっちも奴隷ちゃうねん。自分の意思で、思うようにやらしてくれ」

「おとなしゅう隠居しとけっちゅうんか」

「身体は隠居しとるくせに、口だけ出されるんが一番困るねん」

 五年間溜めこんできた思いが一気にあふれた。幸彦自身、舌が言葉を紡ぐのを止められなかった。車内に二人の声が反響した。

「俺はずっと有機なんかやめて農薬使えって言うてきた。それを実践しただけや。何をそんなにギャアギャア騒いどんねん。これから慣行に戻したらええ話やろ」

「お前、JAに任せれば何とかなると思ってんちゃうか。あいつらは何もせえへんぞ。それに二十年もお世話になった西尾さん裏切って、ここで暮らしていけると思ってんのか」

「あんなんの力借りんと商売できへんのなら、農家なんか今すぐやめたるわ」

「開き直るんか。あんなわけわからん除草剤使っといて。みかんに除草剤浸みてるわ」

「浸みてるわけあるか。何も知らんねやろけど、農薬はようさん安全性の試験やってんねん。ちょっと使いすぎたくらいで害なんかないねん。皮なめても大丈夫や。そのまま飲んでも大丈夫なくらいやで」

「なら飲めっ」

 民家の門灯に照らし出された達男の顔は、赤黒く染まっていた。今にも血管が切れそうなほど興奮している。

「家帰ったらすぐに俺の前で除草剤飲め。それができんのやったら金輪際、農業やめてまえ」

 幸彦は鼻で笑った。「アホらしい」

 達男は力任せにサイドボードを殴りつけた。プラスチックの板は、老いた達男の一撃ではびくともしない。

 葵が居間で待っていた。「どうだった?」

 大儀そうに自室へ歩いていく達男は疲れ切った表情で首を振った。「話ならん」

「この畑、もうやっていけなくなるの?」

 幸彦も首を振った。葵のおどおどとした態度が、今は鬱陶しかった。

「さあな」

 部屋に敷きっぱなしの布団に横たわった。何もしたくない。夕食をとっていないが、空腹は感じなかった。寝がえりさえ億劫で、最初に横になった格好のまま、幸彦はじっとしていた。明かりもつけず、真っ暗な闇を見ていた。

 大滝がここに来なかったとしても、いずれ除草剤を使っていただろう。いつかは慣行農法に転換し、西尾の元を離れていた。それが少し早くなっただけのことだ。

 襖が開き、廊下の光が差しこんできた。幸彦の足元にボトルが放り投げられた。

「これか。ゴザの後ろにあったわ」

 達男の表情は逆光でよく見えなかった。上体を起こし、拾い上げる。半透明のボトルには薄黄色の液体が入っていた。使わずに残しておいた除草剤だった。ヘルニアの身体を引きずって、わざわざ器具庫から探し出してきたらしい。

「ほら、飲め」

「まだ言うてんのか」

「飲まんのなら俺が飲ましたろか」

 しゃがみこんだ達男は、幸彦の両肩をつかんで床に押し付けた。軽く後頭部を打った幸彦は、父の手を振り払った。

「ええ加減にしてくれ」

「早よ飲め、死んで詫びろっ」

 五年間、懸命にやってきたつもりだった。父が倒れるまでは小間使いのように指示に従い、身体が動かなくなってからは母と畑を切り盛りしてきた。その結果がこの滑稽な揉み合いだと思うと、泣きたくなった。

「俺の畑やぞ。どんだけ苦労したと思ってんねん。二十年かかってんぞ、二十年」

「知るか」

 思わず、幸彦は胸を突き飛ばした。達男の軽い身体は簡単に吹き飛び、柱でしたたかに腰を打った。喉の奥で吐く寸前のようなうめき声があがり、達男は仰向けに転がって苦悶の表情を浮かべた。

「大丈夫か」

「来るな」達男は眉間に深い皺を刻みながら叫んだ。

 豪農からも一目置かれるほどだった父が錯乱する姿を見るのはつらい。しかしそうさせたのは幸彦だった。憐れみを感じるとともに、達男への毒気が抜けていった。

 いつの間にか、廊下に怯えた顔をした葵が立っていた。

「葵、救急車」

「呼ばんでええ」

 ひっくり返された亀のように、達男は仰向けで手足を動かしていた。

「ええから、早く。119番」

 葵は慌てて居間へ駆けていった。観念したように動きを止めた達男は、痛みを堪えるために歯を食いしばっていた。幸彦には、その表情が無念さを表しているように思えた。


 和彦夫妻が葵を迎えに来た日は、雲の影もないほどの好天だった。長い雨が明けて快晴が訪れ、昼前にはぬかるんでいた地面がすっかり乾いていた。駅前で幸彦の車を待つ夫妻は、すがすがしい顔をしていた。

 助手席に乗りこんだ和彦は、浮かれた声で幸彦に言った。

「葵は元気そうか?」

 何を今さら、という気分だった。「まあな」

「また野球もはじめたみたいやし、この二ヶ月でどうなってるんか、楽しみやわ」

「兄ちゃんは何もしてへんけどな」

 和彦は頬をかき、弟の顔から視線を逸らした。後部座席の佐織は、我関せず、という雰囲気で窓の外の景色を眺めている。

「預かってくれて、ありがたいと思ってる。またお礼はするから」

「父ちゃんの世話して、母ちゃんの看病もしたんや。百万でも二百万でも足りんわ」

「言うね」真顔で言い放つ幸彦に、和彦は苦笑した。

 日の光できらめく海を見るのは久しぶりだった。雨が続いていたのは一週間ほどだったが、幸彦にはこの夏の間中ずっと降っていたような気がした。

「しかし父ちゃんまで入院するなんてなあ。母ちゃんとは別の病院か?」

「別の病院。電話で話したやろ」

 思えば、昔から和彦はこうだった。興味がないことは脳内から痕跡もなく消えている。

「ヘルニア、悪いんか」

「悪いから入院してるんやろ」

「えらい機嫌悪いな」

 突き飛ばしたはずみに腰を打って神経を痛めたとは言えなかった。達男も田舎の世間体を気にして、転んで打ったのだと医師には説明している。除草剤の件も含めて、部外者である和彦に事実を話すつもりはなかった。

「この後は病院行くんか?」

「いや、ちょっと早めに東京帰らなあかんくてな。家でちょっと休んだらすぐに帰るわ」

 幸彦は密かに安堵した。外面を気にする達男も、和彦の顔を見ればぽろりと口にしてしまうかもしれない。面倒なことはできる限り避けたかった。

「年末、また来るつもりだから」

 運転席と助手席の間から顔をのぞかせた佐織が、とってつけたように言った。濃いアイシャドーが目ざわりだった。

 荷造りを終えた葵は、居間で待っていた。ボーダーのバックパックとスポーツバッグを脇に置いて、和歌山ローカルの旅番組を見ていた。残りの荷物は幸彦が八王子に発送する手はずになっている。幸彦に続いて和彦たちが現れると、リモコンで映像を切った。

 和彦は大げさに両腕を広げて、喜びを表現しようとした。

「久しぶりやな。えらい元気そうやんか。髪も短くなって」

 葵は立ち上がり、父親と距離をとったまま言った。

「野球部、やめるから」

 冷めた葵の言葉に、和彦は腕を広げたまま顔をしかめた。佐織は神妙な顔でうなずいている。

「それがいいと思う。無理して続けても、ね」

「でも野球は続けるから。地元の野球チーム探す」

 佐織は娘の発言が理解できないらしく、今度は首をかしげた。

「高校はどうするの」

「どうするって?」

「スポーツ科でしょう。部活やらなかったら肩身狭いでしょ」

「なら別の専攻に変わる。どうせ野球部とは関わらなくなるんだし、退学するなんてバカらしい」

 佐織はまだ諦めなかった。もう転校させることは決まっているかのようだった。

「でも、先輩とか同期とかいるんだし、八王子で会うかもしれないし」

「うるさいな。あたしがいいって言ってるんだから、いいだろ」

 二人とも、返す言葉を持っていなかった。葵は幸彦と目を合わせた。

 前夜、葵は幸彦に話していた。あたしは東京に戻って、別の場所で野球をはじめる。おじさんも自分が何をやりたいのか、考えてみたら。

「とりあえず、元気にはなったみたいやな」

 和彦は座布団に腰をおろした。ひとまず、ひきこもりの娘が高校に戻ることは決まったのだ。和彦にとって悪い展開ではなかった。ハンカチで額の汗を拭き、かたわらの座布団を指さした。

「幸彦、ちょっとええか」

 幸彦はいぶかりながら腰を落ち着けた。今さら和彦と改まって話すことなどない。佐織は何かを察したのか、唐突に踵を返した。

「ちょっと、そのへん散歩してる」

 佐織が玄関の方へ消えると、やがてパンプスの靴音と戸車が転がる音がした。

 葵は溜め息を吐き、廊下を歩いていった。「部屋、片づけてくる」

 片隅にある扇風機のスイッチを入れた。プロペラが回りはじめ、和彦のシャツの袖をはためかせた。オフィスでの仕事が多いのか、夏の終わりだというのに二の腕は真っ白だった。幸彦は自分の腕を見た。日に焼けて浅黒く、筋っぽい腕だった。

「この家のことなんやけどな」

 和彦が上目遣いに幸彦を見た。

「実際問題、どうやろ。これからも農家続ける気あるか?」

 それはこの数日間、幸彦が自分自身に問いかけていることでもあった。

「これ言うたらあれやけど、お前、嫁さんも子供もおらんわけやんか。一人っきりで、死ぬまで農家は続けられへんと思うで。いっそ、早めにサラリーマンに戻った方がええんちゃうか」

 和彦の意見は現実的だった。夏のはじめから何度もちらついていた言葉が、ようやく実感を持って迫ってきた。しかしそれでも、自分が廃業農家の列に加わるのだと思うと、やるせない気持ちだった。

 達男を突き飛ばして以来、畑には一度も出ていない。西尾とも顔を合わせていない。ファームくろしおとは今後も関わりを持つことはないだろう。

「父ちゃん母ちゃんの世話するにも、農業やったら時間の都合つかんやろ。会社で働いて、夜とか土日に看病するんが一番ええと思うで。なあ、そうしようや」

 調子よく話し続ける兄に、幸彦は自嘲気味に笑った。

「会社員やめて五年経つんやで。そんな中年、雇ってくれる会社ないやろ」

「そら、東京の大手で働こうと思ったら難しいかもしれん。でもこのへんで探せば、ないってことはないやろ。飲食なら人探してるやろし。大丈夫やって」

「すぐには答えられへん」

 和彦が会社勤めを勧めるのは、弟の身を案じてのことではない。兄の思惑は何となくわかっていた。

「この家はどうするん」

「まあ、すぐにどうこうするつもりはないで。お父ちゃんが生きてる間は残しといたらええ。でもその後は、お前が農家やめるんなら残しとく理由ないやろ。まあ、畑と合わせてもたいした金にはならんやろけど。そっちもその方がええやろ。和歌山のマンションにでも住んで」

 和彦が庭の方へ目をやり、つられて幸彦もそちらを見た。奥の畑では、緑色の果実をつけた木々が、幸彦を呼ぶように風に揺れている。下の方についた果実は、丈を伸ばした雑草に隠れていた。

 よく見ると、木々の間を白いカットソーを着た女が歩いていた。佐織だ。彼女はパンプスのまま、畑のさらに奥へ踏み入ろうとしている。

 急いで立ち上がった幸彦は、縁側でサンダルをつっかけ、佐織を追いかけた。「どうしたんや」という和彦のつぶやきが聞こえたが、幸彦は足を止めなかった。

 佐織はひときわ大きな木にデジタルカメラのレンズを向けていた。構図を探っているようで、角度を変えながら何度もシャッターを切っている。その木の向こう側に、除草剤を撒いて枯草まみれになった畑地が広がっていた。

「おい、やめろ」

 突然の叱声に、佐織は肩をびくりと緊張させた。おそるおそる振り向いた顔は、不審者を見るような目つきだった。

「何やってるんですか」

「綺麗な景色だから、ブログにあげようと思って……」

 幸彦には忌まわしい光景でも、他人にとっては綺麗なみかん畑に見えるらしい。きっと佐織にとっては、雑草が伸びていようが枯れていようが、どうでもいいことなのだろう。幸彦が隠そうとした事実は、佐織にとってはその程度のことでしかない。

「撮っちゃダメだった?」

「ダメってことはないですけど。危ないんで、あんまり奥には行かんといてください」

 不満そうに顔をゆがめた佐織は、大股で庭の方へ戻っていった。

 じきに部屋から出てきた葵を連れて、和彦たちは東京へ帰った。駅前でハリアーから降りた葵に、幸彦は尋ねた。

「また遊びに来るか?」

 運転席の窓から顔をのぞかせる幸彦に、葵は笑い返した。

「家出したら、まずここに来るよ」

 幸彦は駅舎に歩いていく三人を見送った。後は自分の始末だけだ、と思った。


 達男の入院先は、市立病院とは駅をはさんで反対側の総合病院だった。市立病院よりひとまわり小さい駐車場にハリアーを停め、建屋に足を踏み入れる。エレベーターで達男の病室がある階まで上がり、ナースセンターで看護師に声をかけた。

「すいません、満田達男の家族なんですけど、これ渡しといてもらえませんか」

 差し出した紙袋には、衣類やひげそりが入っている。若い女の看護師は、戸惑ったように紙袋を受け取った。

「今は面会可能ですけど」

「いや、結構です。すいませんけど、お願いします」

 達男と顔を合わせる勇気はなかった。会ったところで会話が生まれるとも思えない。幸彦は逃げるようにエレベーターに乗りこんだ。

 あてもなく車を走らせた。家に帰ってもやることはない。行き場のない時間の塊だけが、目の前に積まれていた。やりたいことも、やるべきことも思いつかない。

 農家としての幸彦は死んだ。しかしいつまで経っても踏み出すことができないまま、幸彦はうろたえていた。地面に落ちた果実が腐っていくように、ゆるやかに死を待っているように思えた。

 けじめがほしかった。

 車の運転にも飽きて帰宅すると、すでに日が傾いていた。

 全身がだるい。腹は減っているのかどうか、よくわからない。額に手をあてると、微熱を感じた。縁側に腰をおろす。

 庭越しに見える畑はずいぶん雑草が茂っていた。裂けた果実が数え切れないほど、木々の足元に転がっている。水を吸って膨らんだ果実が、皮を破って外界に脱出しようとしている。

 真っ白な頭で、幸彦は携帯電話の番号を呼び出した。この数日、何度もかけようとした相手だった。

「はい」大滝はすぐに出た。

 黙っていると、不審そうな大滝の声が聞こえた。

「おい、満田か。どうした。聞こえてるか?」

「聞こえてるよ」

「疲れてるのか。そういえば満田の畑で取ったデータ、社内の会議に使わせてもらったぞ。おかげで適用も広がりそうだ。収穫まであと何回か行くから、その時もよろしく頼む」

「悪いけど、もう続けられへん」

 大滝の溜め息が聞こえた。

「もうその話、終わっただろ」

「家族にばれた。納品先にも。もうみかんの栽培は中止や」

「……ばれたのか」

 山の斜面でハウスの照明が点灯した。西尾の電照菊だ。日暮れの空気の中で、電照菊のハウスだけがくっきりと明るかった。

「別の取引先探せよ。ここまで育ててきたのに、放棄するつもりか」

「もう農業やる理由がない」

「農家、やめるつもりか」

「農家以外でも食っていける」

 その一言は兄の受け売りに過ぎなかった。実際、これからどうするかなど考えていない。

「俺のこと、恨んでるのか」

 大滝への恨みをぶつけるつもりはなかった。ただ、このどうしようもない泥沼から抜け出すきっかけがほしい。大滝は反論を封じるようにまくしてた。

「俺は満田を陥れようと思ったわけじゃない。チャンスをやろうと思った。実家継いで、苦しんでるのは知ってた。この勝負に勝つか負けるかは満田次第だったんだ。結果、負けたけど。それだけだ」

 大滝は特別な人間ではない。冷静な皮をかぶった、普通の男だった。姿が見えない電話だと、余計にそれが際立った。

 吐き捨てるように、大滝は言った。「うまくやれば勝てたのに」

「そうかな」

「負けたことを認めたくないんだろ。勝負どころは何やってでも勝たなきゃいけない。割り切れない奴から負けていくんだ」

 結局、大滝は言い訳を並べているだけだった。幸彦が知りたいのは、これからどうすればよいかということだ。

「一つだけ、教えてくれへんか」

 幸彦は携帯電話を耳にあてたまま、サンダルをはいて器具庫に向かった。

「あの除草剤は、ほんまに安全なんか。それとも俺に使わせたくてそう言っただけか」

「本当だ。嫌っていうほど試験もした。それは信じてくれ」

「たしか、飲んでも大丈夫なんやな」

 返答を待たず、幸彦は通話を切った。

 器具庫のドアを開け、照明をつけた。立てかけたゴザの裏にはまだボトルが残っている。幸彦はボトルを手に、器具庫を出た。懐で携帯電話が震えていたが、出る気はない。

 丈の高い雑草を越えると、除草剤を撒いたあたりに出た。照明のない畑は暗く、月は雲に隠れている。一方で、電照菊のハウスはさらに輝きを増している。

 せめて明るい場所へ行きたかった。暗闇で悶え苦しむのは、あまりに悲惨だ。幸彦はボトルを手にハリアーに乗りこんだ。家の鍵は開けっぱなしだったが、どうでもいい。

 不気味なほど通行人がいない夜だった。近付いてくるハウスは、街灯もない闇夜ではただ一つの光源だった。無人の道を走り、西尾邸に続く坂のなかばで車を停めた。

 天井の高いビニールハウスが数棟、連なっている。そばに立つと、圧倒的な光に抱かれるようだった。

 幸彦は一番近いハウスの扉を開けた。鍵はかかっていない。

 ハウスの中は真昼のような明るさだった。頭上に渡された鉄棒から無数の電球が吊り下げられ、その下でスプレー菊の花が密生している。鮮やかな緑の葉に黄色の花が映える様子は、寂れた農村の一角とは思えないほど艶やかだった。

 花の間を歩き、ハウスの中ほどへ進む。動くものは、幸彦の他には電球に群がる蛾だけだった。ここなら、みじめではない。

 幸彦はゆっくりとボトルのキャップを外した。鼻を近づけてみると、ほのかに腐肉のような匂いがした。良い香りではないが、飲んでも吐きはしないだろう。

 ボトルに口をつけ、一気に中身をあおった。鼻から息を吐き、匂いを感じないようにしたが、ぬるぬるとした舌触りが不快で、反射的に吐き出しそうになる。油を飲んでいるような食感だった。それでも堪えて、500ミリほどの除草剤をすべて飲みほした。取り落としたボトルが転がり、菊の茎にぶつかって止まった。

 ふいに、目まいに襲われた。酸味の強い唾液が湧きでてくる。胃の底が重くなり、幸彦はその場にひざまずいた。黄色い花が視界を占めた。

 花と花の間に犬の姿を探した。哀れにも、殺鼠剤を口にして死んだゴン。ここで死ぬのなら、ゴンが迎えに来るはずだった。

 仰向けになると、夜空に月が現れていた。薄く靄のかかった月は、神宮球場の空を飛んでいた白球と重なって見えた。今なら少し手を伸ばすだけでキャッチできる気がする。

 月はゆっくり、ゆっくりと傾いていく。

 いつまで待っても、ゴンは迎えに来なかった。


 (了)

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裂果 岩井 圭吾 @keigo_iwai

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