第九章

 細雨の下、畑は濃緑に包まれていた。器具庫の中は心なしか涼しく、その分湿っぽさを感じた。野菜を袋に詰める手はずいぶん前から止まっている。コンテナの中では紺色の長ナスが順番待ちをしていた。

 今まで、数え切れないほど農家の廃業を目の当たりにしてきた。種苗会社の営業だった頃には、嫌というほど廃業の噂を聞いた。たいていは後継者不足か、経済的な問題が原因だった。少なくとも、農家自身が口にするのはそんな理由ばかりだった。

 廃業という選択肢は、幸彦の脳裏に忽然と登場したわけではない。今まで頭を見せていたものが、はっきりと顔を出したにすぎない。

 正確に言えば、幸彦にできることは廃業ではなく逃走だった。達男が畑に固執する以上、勝手に廃業することはできない。誰にも面倒を見てもらえない畑は朽ちていくだろうが、その処理は達男が考えればいいことだ。

 そこまで考えて、幸彦は袋詰めを再開した。廃業だ逃走だとひとり言を口にしながら、結局は手を動かしてしまう自分が哀れだった。三本のナスをポリ袋に入れ、口を束ねてシーラーに通す。急いでやれば二十秒で終わるような作業を、一分以上かけてこなした。

 それでも、家庭菜園に毛が生えたような収穫量のせいか、作業はすぐに終わった。袋詰めしたナスの山をコンテナに移し、熟成庫へ運ぶ。数の合わない長ナスが一本だけ余った。それを手に、幸彦は家へと戻った。

 達男は相変わらず居間でテレビと向き合っている。幸彦への疑いを口にしてから、まともに口を利いていない。画面では雨模様のグラウンドが中継されている。甲子園でも雨が降ったり止んだりが続いているせいで、たびたび試合が中止になっていた。和歌山代表の二回戦を心待ちにしている達男にとってはじれったい天候だった。

 初戦は圧勝だった。七回までで六点差をつけ、早々にエースは降板した。玉置の息子は特に見せ場もなく、堅実に守備をこなした。試合を見た達男は一日中上機嫌で、葵に「今年は優勝狙えるかもしれん」としきりに話しかけて面倒がられていた。

 台所で昼食の支度をしていると、玄関の戸車の音とともに葵の声がした。

「ただいまー」

 葵は貸してやった幸彦のTシャツを着ていた。サイズが大きすぎるせいで、裾が股下まで届いている。連日の雨で洗濯が追いつかず、葵が持ってきた服は底をついてしまった。

「早かったな」

「筋トレと走りこみしかやることないし。早くちゃんと練習したいけど」

「昼飯、野菜炒めでええよな」

「またナス?」

「文句言うな。ナス以外も入ってるから」

 昼食を終える頃には、甲子園の雨はあがっていた。グラウンドにできた池のような水たまりの周囲を、整備員たちがあわただしく動いている。ベンチで控える球児たちは、試合が続けられることに安堵していた。

 幸彦は視線を縁側に移した。畑に降る雨はやむ気配がない。低気圧の影響らしいが、風はほとんどなく、雨だけがだらだらと降り続くのが不気味だった。

 何をする気力も起きない。全身がだるいのは、気候のせいだけではなかった。達男との間に流れる窮屈な空気や、果実の手入れができないもどかしさが影響していた。西尾は甲子園へ遊びに行ったため、顔を合わせる心配がないのが不幸中の幸いだった。

 冷蔵庫に立ち、冷えた発泡酒を手に取った。プルトップを開けると細かい泡が大量に噴き出した。慌てて口をつけ、すする。食器を洗っていた葵が振りむいた。

「昼からお酒飲んでる」

 達男が振り向き、非難がましい目で幸彦を見た。

「たまには休ましてくれよ」

 和歌山に戻ってから、昼間にアルコールを飲んだことはなかった。自分なりに真面目にやってきたつもりだったが、無意味だったのかもしれない。軽い飲み口の発泡酒が気分に合っていた。冷蔵庫から浅漬けをとり、つまみながら飲む。

 達男は整備されていくグラウンドを飽きることなく見ていた。その丸くなった背中を眺めながら、幸彦は発泡酒を飲んだ。この男が死ぬまであと何年かかるか考えた。父がいなくなるまで、この畑は父の所有物であり続ける。幸彦は畑を管理するために雇われた、できの悪い奴隷に過ぎない。

 トイレに立った幸彦の耳に、洗面所でドライヤーを使う音が聞こえた。のぞきこむと、葵が外行きのポロシャツを乾かしていた。幸彦に気づいた葵がドライヤーをオフにした。

「おばあちゃんのお見舞い、行ってくる」

 雨はまだやんでいない。予報では夜まで雨が続くはずだった。

「バスで行くんか。車で送ったろか」

「おじさん、お酒飲んでるじゃん」

 幸彦は手元に目を落とした。「そうやったな」

「別に暇だし。駅の周りもぶらぶらしてくる」

 甲子園ではグラウンドの整備が終わり、試合が再開した。達男はテーブルに肘をついて見守った。はじまったばかりの試合は0対0で、さんざん待たされた投手は鬱憤を晴らすように勢いのある直球を投げこんだ。

 葵が外出すると、家の中が別世界のように寂しくなった。幸彦は二本目の発泡酒に手をつけた。他にすることが思いつかない。網戸に付着した雨の滴を見ているだけで、時間が過ぎていった。

 四回の表から裏へ交代している最中、達男が画面に向かってつぶやいた。

「ほんまに何もしてへんのか」

 幸彦は答えなかった。自分へ投げかけられた言葉なのかもわからなかった。行き場を失った達男の言葉は空中で分散した。

「何もしてないんやな」

 今度は、はっきりとそう言った。幸彦は喉の奥で痰がからまったように、言葉が出てこなかった。ようやく絞り出したのは「そうや」という何の足しにもならない返答だった。

 達男は振り向きもしなかった。何事もなかったかのように、四回裏の試合を見ている。父がどんな表情をしているのか、幸彦には想像できなかった。知りたいとも思わなかった。

「有機にこだわるなんてアホやと思うか」

 返答をためらっていると、達男はさらに言った。

「恨むなよ」

 幸彦は何も言えなかった。

 雨はあがったものの、甲子園の上空には重たい雲がたちこめている。膝に手をつく一塁ランナーのユニフォームは泥まみれだった。マウンドから投じられたストレートを、打者はフルスイングで迎え撃つ。ひっかけたボールはグラウンドを転がり、ゴロになった。しかし浮足立った投手の二塁送球は左翼に逸れ、あっさりと三塁への到達を許してしまった。雨上がりのグラウンドにまだ慣れていないようだ。

 幸彦は雨のふりしきる自宅の庭を見やり、席を立った。酔いがまわってきたせいか、顔が熱い。心臓の鼓動がひときわ強く感じられた。自室に戻り、だるくなった身体を布団に横たえた。

 意識が遠のくのに、時間はかからなかった。いつの間にか寝入っていた幸彦は、暑苦しい空気に包まれ、もがく夢を見た。現実を鏡映しにしたような夢だった。

 目を覚ますと、すでに夕刻になっていた。真夏の夕刻はまだ明るく、鬱陶しい雨もまだやんでいない。ほんの数分しか寝ていないような気がした。身体は寝る前よりも重くなっている。喉が渇いていた。

 台所で続けざまに水を飲んだが、何杯飲んでも腹に水が溜まるだけで、喉の渇きは癒されない。夕食の支度をしなければならないが、そんな気になれなかった。

 達男はまだ野球を見ている。座椅子に浅くもたれ、顔を画面に向けている。表情は見えない。起きているのか眠っているのかもわからなかった。

 玄関の戸が開くとともに、葵の声が聞こえた。

「やばいやばい、服けっこう濡れちゃったー」

 そのまま浴室へ向かった葵は、また幸彦のTシャツに着替えた。幸彦は居間を横切って部屋へ戻ろうとする葵を呼び止めた。

「なあ、葵。晩飯作ってくれへんか。なんか身体だるいねん」

 葵は怪訝そうな顔をした。

「いいけど。昼からビール飲んだからじゃないの」

 酔いざめの疲れとは別物の倦怠感だった。幸彦は話を逸らした。

「どうやった、おばあちゃん」

「暇そうだった。やることないから困るって。ずっと野球見てるみたい」

 達男の背中が揺れた気がした。葵は達男の方を振り向きつつ、小声で言った。

「あと変な噂がはやってるって、おばあちゃんが言ってたんだけど」

「噂って、なんや」

「おじさんのこと」

 不意打ちだった。血の気が引く。葵は気配を察知して口をつぐもうとしたが、幸彦はきつい口調で迫った。

「どんな噂や。言うてみ」

 ためらいがちに、葵は言った。

「おじさんが除草剤撒いてるんじゃないかって」

 めまいがした。

 登世子までもがそんな噂を知っているとは思いもしなかった。家族以外に見舞いに行く者はいないし、病院のほかに誰かと会う機会もない。どうやって知ったのか見当もつかないが、噂は気流に乗って拡散するウイルスのように急速に広まっている。

 思っていたより深刻な反応に、葵は焦っていた。

「ねえ、それってそんなに悪いことなの? この畑が有機栽培だってこと知ってるけど、農薬なんてみんな使ってるんでしょ。スーパーで売ってる野菜もそうなんでしょ。有機栽培やめましたって言えば、いいんじゃないの」

 それができれば、最初から苦しむ必要はない。達男の後頭部が視界に入る。

「そもそも、農薬を一切使ったらあかんってことやない。JASで許されてる農薬は使ってええんや」

「除草剤は許されてるの?」

 幸彦は言葉を失った。葵のまっすぐな目がつらい。

「許されてへん。けど、俺は使ってへんよ」

「そっか。じゃあ、噂が間違ってるってことだよね」

「そうやな」

 葵はまだ夕飯を作るには早いと思ったのか、自室に戻っていった。

 達男は微動だにしない。観客席のブラスバンドが演奏する〈狙いうち〉が響いていた。

 冷蔵庫にはもう発泡酒がなかった。幸彦は床下の収納からぬるい缶を取り出し、プルトップを引いた。冷えた発泡酒はまずかったが、酔えれば何でもよかった。


 緑色の果皮がぱっくりと裂け、白っぽい実がのぞいている。

 このみかんはもう売り物にならない。もっと早く水をやればよかったと、幸彦は後悔していた。乾燥した土壌に大量の雨が降ると、果実が急成長して果皮を破ることがある。裂果と呼ばれる現象だった。

 裂けてしまった果実を切り離し、コンテナに捨てる。コンテナの中は数え切れないほどの裂果で一杯になっていた。果皮の薄い上出来の果実ほど破れやすい。言いかえれば、裂果を免れているのは皮が厚く食べづらいみかんだけだった。

 ハサミを手にした幸彦は、腰に手を置いて畑を一望した。風が強くなかったおかげで落果は免れたものの、長雨のせいで裂果の被害は甚大だった。小規模農家の場合は特に、大量の裂果が収穫へ及ぼす影響は大きい。

 山肌にかかる曇天を見上げた。一時的にやんでいるものの、明日からはまた雨が降りだす予報だった。被害はさらに拡大しそうだ。

 一杯になったコンテナを小型トラックに積み、幸彦は緑の畑を抜けた。まだ作業中だったが、そろそろ第三試合がはじまる時刻だった。

 トラックを庭に停め、縁側から居間に上がる。達男と葵がテーブルを囲んでいた。

「もうはじまってるよ」

 葵の言葉通り、試合はすでに三回表だった。第二試合が早く終わったらしい。

 和歌山代表は先攻だった。対戦相手は優勝候補に数えられる強豪で、打撃は相手校のエースに完璧に封じられていた。七番を打つ玉置の息子も打ち取られている。一方、母校の先発投手も力投し、一流校の打線をどうにか無失点に抑えこんでいた。立ちあがりの悪い投手が三回まで無失点で切り抜けているのが奇跡に思えた。

 前の試合は大量得点で勝利している。相手が超のつく強豪だとしても、勝利の可能性は十分にある。達男は息を詰めて試合を見守っていた。

 四回、五回、六回、七回とイニングが進むにつれ、投手の疲れは目に見えてきた。しかし安打は許しつつも、肝心のところを締め、いまだに無失点を守っている。甲子園の空にも和歌山と同じ灰白色の雲がかかっている。時おり映る観客席では、応援の生徒や保護者が緊張の面差しで声援を送っていた。

 八回表に試合は動いた。和歌山代表の五番打者が、すっぽ抜けたような甘い球を痛烈に打ちあげた。打った瞬間、実況アナウンサーが「これは!」と叫んだ。白い空に打ち上がった硬球は雲に溶けこみ、放物線を描いて一塁側観客席へと落ちていった。

「よし!」達男が叫んだ。

「すげー」つぶやいたのは葵だった。

 総立ちになった観客が、本塁打を放った五番打者に拍手を送った。対照的に、三塁側の観客は静まりかえっている。小走りでホームベースに帰還した打者は、笑顔のチームメイトからハイタッチを求められていた。

 目頭を押さえ、口元を歪める相手校のエースを見て、幸彦は勝利を確信した。単なる一点ではない。本塁打と単打では、相手チームに与える精神的ダメージの大きさが違う。投手にも打線にもプレッシャーになる。

 後続は打ち取られたものの、その回の裏も無安打で切り抜けた。完全にチームは勢いづいている。九回は三者凡退に終わったものの、彼らに悲壮感はなかった。この回の裏さえ押さえればゲームセットだ。

 投手は尻上がりに調子をあげ、キレのあるスライダーを打者の懐へ投げこんだ。三塁側ブラスバンドは悲鳴のようにトランペットを吹き鳴らしている。両手を組んで祈る相手校の女子生徒は、早くも涙ぐんでいた。

 打者は最後の一人だった。外野手たちの顔が順に映し出された時、幸彦はわずかな不安を抱いた。妙に既視感のある光景だった。

 四球を与えて打者が一塁に出た時、不安はさらに強まった。ブラスバンドのテンポが、狂ったように速くなる。監督は投手を変えようとしなかった。八回ツーアウトまで無失点で投げ抜いた先発を替えられる監督はそういない。

 次打者が落ち着いた仕草で打席に立ち、ゆったりと金属バットを構えた。投手がセットポジションに入り、右腕をしならせて投じる。初球から振り抜いたバットは硬球を捉え、投手の頭上高く飛んで行った。

 達男が身を乗り出した。「嘘やろ」

 打球は際どいところで、フェンスの内側に落ちそうだった。中堅手の玉置選手は懸命にフェンスへ走る。充分間に合う距離に思えた。しかし振り向いた彼は目を細めて空を見ていた。左右に数歩ずつ動いている。明らかに迷っていた。

「捕れ! 捕れ!」いつの間にか、幸彦は叫んでいた。

 カバーに入ろうと駆け寄る左翼手が何かを叫んでいた。やがて、白球は外野めがけて落ちてくる。玉置選手が受け止めようとしたグラブを逸れ、白球は地面に着地した。

「あーっ」達男が顔を覆った。

 打ったと同時に全速力で駆けだしていた走者は二塁を蹴り、三塁を蹴った。遊撃手の投げたボールがキャッチャーミットに収まった頃、同点の走者は三塁側ベンチで祝福を受けていた。

 呆然とした表情で立ち尽くす玉置の息子は、次打者が内野安打を放った瞬間にその場で崩れ落ちた。歓喜に沸く三塁側観客席を背景に、四つん這いになって泣いていた。アナウンサーがわざとらしく感情をこめた口調で「まさか、まさかの逆転劇」と言った。

 幸彦は縁側から庭に下りた。泥まみれで泣きじゃくる姿を、それ以上見ていることはできなかった。


 ワイパーは規則正しく動き、フロントガラスに落ちてきた雨滴を払い落とす。闇夜に光るハウスは列をなし、順番に収穫を待っている。電照菊のハウスには黄色い花がみっしりと植わっていた。このスプレー菊から得られる収入だけで、零細農家なら二、三件まとめて食べていけそうだった。

 八月の定例会の連絡が来たのは、つい二日前だった。和歌山代表が敗れた翌日、さっそく圭太から連絡が来たのだ。甲子園から戻った西尾に言いつけられたのだろう。

 坂道を登りきり、西尾邸を迂回する。駐車場には二十台ほどの車が停まっている。前月のように上座をあてがわれないよう、約束時刻ぎりぎりに到着するようにした。幸彦は柄の錆びた傘をさして事務所まで歩いた。

 雨は一時やんだものの、また降りだしていた。豪雨と呼べるような勢いはないが、だらだらといつまでも続く雨だった。

 裏門のインターホンを押すが、圭太の妻は台所に入っているのか出迎えに来ない。裏口の戸を押してみると、鍵は開いていた。三和土で靴を脱ぎ、客間の襖を開ける。

 すでに幸彦以外の組合員が顔を揃えていた。いつもなら誰かは欠席するものだが、今日は珍しく全員が出席している。

「お待たせしました」

 視線にさらされながら、幸彦はぽっかりと空いた下座の端に座った。上座の西尾が呼びかける。

「これで揃ったな」

 静まりかえった座で、組合員の面々は誰もがこわばった顔をしていた。いつも能天気な圭太も、親戚の家の子供のように、肩をそびやかしている。

「今日は会計報告の前に、ちょっと話しときたいことがある」

 西尾が声を張り上げた。「幸彦」

「はい」また座の視線が幸彦に集まる。知らず知らずのうち、声が震えていた。

「最近、お前に関する変な噂が出回っとるらしい。ここにおる者も聞いたことがあるかもしれん。幸彦、お前どんな噂か知っとるか」

 ここに来たことを後悔した。今日は何としても欠席するべきだったのだ。幸彦は逃げだしたい気持ちを押さえつけるのに精一杯だった。頭の芯が冷え、酸っぱい唾液が出た。

「いいえ」

「ほんなら説明する。簡潔に言うたら、お前が除草剤使っとるんちゃうかっちゅう噂や」

 驚く組合員はいない。皆、うつむき加減に西尾と幸彦とを見比べていた。

「今更やけど、ファームくろしおは野菜果物を有機農法で育てとるんが売りや。高品質でなおかつ有機やから、値段が高くても需要がある。有機JAS認定も取ってる。それが除草剤使ってましたってなったら、大問題やで。看板に嘘があっただけやない。JAS認定も取り消しや」

 西尾の言っていることが耳に入ってこない。ただ、崖っぷちに立たされていることはわかる。

「先月から、お前の家によその者が出入りしてるみたいやな。誰や」

 視線から逃れるように、幸彦は自分の拳を見つめた。

「大学の……」

「何て? 聞こえんな。もっと大きな声で」

 なぜか圭太が目をつぶった。幸彦は震えを抑えるため、咳払いをしてから答えた。

「大学時代の友達です」

「仕事は?」

「メーカーで研究をやってます」

 西尾の追及は止まなかった。「何の研究や」

「……農業資材です」

「たとえば、除草剤か」

 幸彦の沈黙は肯定を意味していた。西尾は言葉を区切り、落ち着いた声音で言った。

「今やったらまだ、何とかせんこともない」

「社長」

 小声で抗議したのは玉置だった。思惑が外れたのか、責めるような視線を向けたが、西尾は意に介さない。

「達男さんにはさんざん世話になった。ファームくろしおがここまで大きなったんは達男さんのおかげや。逆に言えば、有機みかんが当たらんかったらくろしおはなくなってたかもしれん。それはみんな知っとるやろ」

 今更ながら、達男と西尾の信頼の深さを知った。西尾がここまで譲歩するのは例外と言っていい。

 西尾はふたたび厳しい口調で言った。

「今ここで除草剤使ったって認めて謝罪するんなら、今回だけ見逃してもええ。持ってる除草剤は全部、俺んとこに持ってこい。うまいこと処分したる。その代わり、おとなしく収穫は減らせ。身の丈に合った経営にしろ」

 西尾は身を乗り出した。「なあ、どうなんや。正味の話」

 これは幸彦にとっての最後の救いだった。断れば、不幸せな行く末が待っていることは明らかだった。

 しかしここで素直に頭を下げられるようなら、こんな事態になっていない。それに、除草剤を西尾に引き渡すことはできない。ただの除草剤ではなく、未認可の試作品であることが発覚してしまう。農薬取締法違反が発覚すれば、西尾は態度を変えるかもしれない。

 幸彦は覚悟した。破滅への覚悟だった。

「やってません」

 西尾の顔色が変わった。

「今、なんて言うた」

「除草剤なんか使ってません。私は父親に教えられた通り、有機でみかんを育ててます」

「噂は事実無根やっちゅうことか」

「はい」

「……そうか」

 目を見開いた西尾は、しばらく口をつぐんだ後、両手を畳についた。

「疑って悪かった。この通り、許してくれ」

 両手をついて頭を下げる西尾を見て、圭太は呆けたように口を開けていた。厳格な父親が手をついて謝る姿など、初めて見るのだろう。

 頭を下げながらにらみつける西尾の視線は、早く撤回しろ、と急かしているようだった。自分のためにここまでしてくれることが心苦しかった。だが、もう後には引けない。頭を上げた西尾の顔は、冷淡に幸彦を見据えていた。

「ようわかった」

 西尾は手を叩いた。「ほんなら定例会はじめようか。圭太」

 動揺を引きずっていた圭太は、慌てて手元の書類をあさった。

「あ、はい、はい。えーっと、何だっけ。まずは売上か。売上からいきます」

「紙配らんでええんか」

「はっ、そうですね、すいません。これ回してください」

 圭太は紙束を玉置に手渡した。上座から下座へと会計報告書が行きわたり、圭太はたどたどしく説明をはじめた。

 その日の定例会で、西尾が幸彦に視線をくれることは二度となかった。

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