第八章

 立ち上がった葵は、〈AOI.M〉の刺繍が施されたバットケースを肩に提げていた。紺色のバックパックも背負っている。

「行ってきます」

「飯、どうする」

「食べてくるかも。用意しなくていいから」

 新聞を読んでいた達男が声をかけた。「暑いから、水持って行け」

「いいよ、コンビニで買うから。じゃあね」

 葵が玄関の戸を閉めると、急に家の中は静かになる。達男の溜め息が大げさに聞こえた。和歌山予選が終わって本戦がはじまるまでの期間、達男はやることがない。甲子園での開会式を指折り数えて待っていた。

 長袖に身を包んだ幸彦は畑に入った。連日の晴天は崩れる気配がない。水分が抜けて、葉が内側に巻いている。水をやるか迷ったが、あと少しだけ待つことにした。甘い果実を作るには乾燥が必要だ。

 草刈りに追われていた頃は、葉の様子に気を配る余裕もなかった。みかん作りに集中できるのは除草剤のおかげだった。

 摘果に熱中しているうちに午前中が終わった。汗みどろで家に戻ると、居間には明らかに達男とは違う人影が見えた。眼鏡をかけている。近付くにつれて、その顔がはっきりと見えてきた。大滝だとわかった瞬間、幸彦は息を呑んだ。

 縁側から歩いてくる幸彦に気づいて、あぐらをかいていた大滝が立ち上がった。ワイシャツにスラックスの大滝は、相変わらず涼しげな顔をしている。幸彦は流れる汗を拭くのも忘れていた。

「何しとんねん」

「お疲れさん。お父さんがここで待ってろって言うから」

「なんやねん、いきなり。連絡もせんと」

「また出張があったから、ついでにな」

 玄関から革靴を持ってきた大滝は、縁側から地面に降りようとした。

「ちょっと畑見せてくれ」

「待てや」

 幸彦の制止も聞かず、大滝は庭を横切って畑に立ち入った。大きなショルダーバッグを提げている。くるぶしのあたりまで伸びた雑草を踏みしめながら、大滝はひとりごちた。

「このへんは使ってないみたいだな。カモフラージュか? そんなことしなくても大丈夫だと思うけどな」

 追いついた幸彦は声をひそめて言った。

「このへんの草が枯れとったら、父親が一発で気付く」

「ヘルニア患者がここまで歩くかね。まあいいや。対象区として扱おう。こっちか?」

 大滝はさらに歩を進めた。農薬の匂いを嗅ぎつけたかのように、大滝は進んでいく。

 やがて雑草が萎れた光景を目の当たりにして、大滝は満足そうに笑みを浮かべた。

「上出来だな」

 眼鏡のレンズが日を照り返し、大滝の目元を隠した。

「今年の収穫は期待できるんじゃないか」

「……おかげさまで」

「ちょっと撮らせてもらうぞ」

 大滝はスマートフォンのカメラレンズを畑地に向けた。シャッター音が木々の間に繰り返し響く。幸彦はその光景をただ見ているしかなかった。

 写真を撮影しながら、大滝は言った。「悪いな、急に来て」

「せめて連絡してくれたらええのに。写真やったら俺が撮るから」

「頼もうかと思ったけど、一度は自分の目で見ておきたくてな。それに前もって連絡して、畑に小細工でもされたら困るからな」

 幸彦は険のある声で返した。「どういうことや」

「いや、言葉が悪かった。前にそういうことがあったんだ。圃場側の人間が小細工して、農薬の効果を良く見せようとすることがな」

「良く見せてどうすんねん」

「いい結果が出た農地は、次の圃場試験でも使いたくなる。それに自分が担当した試験なら、結果を良く見せたいのが人情じゃないか」

 ひとしきり撮影を終えた大滝は、ショルダーバッグからスコップとポリ袋を取り出した。しゃがみこみ、マジックで袋に数字や記号を書きこむ。

「土とか草とか、採取させてもらってもいいか。あと実も。できの悪いやつでいい」

拒否する権利はなかった。「好きにしてくれ」

 大滝は枯草や土を次々とポリ袋に採取し、幸彦が持ってきたコンテナから、間引いた果実をいくつか選んだ。

 除草剤を撒いていない地面でも、大滝は同じように土や草を採集した。サンプリングを終える頃には、重たくなったショルダーバッグのストラップがぴんと張りつめていた。

「とりあえず、上々の結果だな」

 居間に戻った大滝に冷やしていた麦茶を出すと、一息で飲んだ。

 上機嫌の大滝と対照的に、幸彦は苛立ちを隠せずにいた。握り拳を固めて大滝ににじり寄る。

「なあ、ほんまにばれへんのかな。そもそも、こんなことしてええんかな」

「いいも何も、もう使ってるんだからどうしようもない」

 大滝の冷笑に、幸彦は目を伏せた。苛立ちが急激に萎えた。

「ああ、そうそう。これを」

 差し出された紙袋に入っていたのは、見覚えのあるボトルだった。三本入っている。

「あれじゃ足りないかと思って、追加で持ってきた。使ってくれ」

 幸彦は躊躇しつつもそろそろと手を伸ばし、紙袋をつかんだ。二人の間で契約が成立した合図だった。

「もう、行くよ」

「駅まで送るわ」

「そうしてくれると助かる。先月来た時はバスの本数が少なくて参った」

 日にさらされた車内は蒸し風呂のようだった。ハンドルまで熱くなっている。窓を開け、冷房をつける。

 道の先に立ち上る陽炎を見ながら、幸彦は言った。

「なんで、ここまでやるんや」

 助手席でバッグの中を整理していた大滝が顔を上げた。

「別にこの農薬が世の中に出なくても、クビになるわけじゃないんやろ。そら、社内での立場とかあるかもせんけど。こんな危険な橋渡らんでも」

 大滝は額に浮かんだ汗をハンカチで拭いた。真夏の畑を歩いても、涼しげな表情は崩れない。炎天下のマウンドに立ち続けていただけのことはある。

「満田は何歳までサラリーマンやってたんだっけ」

「三十で和歌山に戻ってきたけど」

 ふたたび、大滝の顔に冷笑が浮かんだ。仕事ができない同僚をあざ笑うような冷笑だった。

「長いこと会社にいると、会社人生の勝負どころがわかるようになる。先輩とか上司とか、いろんな人の行く末を見てるからな。だいたいの社員には、ここが分岐点だってイベントがある。そして俺の分岐点は今だ。ここで勝てば、三流のプロ野球選手になるよりもずっと誇らしい人生になる」

 結局、大滝もあの日の神宮球場の記憶から抜け出せずにいるのだ。あの試合に勝てばプロになれたかもしれないという妄想に、ずっと取りつかれている。プロになった仮想の自分より幸せな人生を送るため、がむしゃらにやってきた。その結果が間もなく形になろうとしているのだ。

 神宮に風は吹いていなかった。フライを落としたのは幸彦のミスだった。それならば、幸彦が責任を取らなければならない。

 駅前のロータリーに停めると、大滝は身軽に車を降りた。

「じゃあ。また連絡する」

 何の未練も見せず、大滝は駅へと歩いて行った。

 運転席から見える空には薄く白い雲が漂っていた。地上から遠く離れて浮かぶ雲は、微動だにしない。


 久しぶりの曇天で日差しが遮られていた。ファームくろしおの駐車場には、数台の見慣れた車が停まっていた。玉置の車もある。顔を合わせるのは気が進まないが、いい加減、西尾と話さなければならない。

 事務所の戸を開けると、土間に何組かの靴が揃えられていた。圭太がパソコンのモニターから顔をのぞかせる。

「ああ、どうも。今日は社長いますよ」

「他にも誰か来てるんですか」

「ええ、玉置さんとか。明日から甲子園行くんで、その打ち合わせらしいですわ」

 社長室から男たちの笑い声が聞こえた。

「どのくらいで終わりますかね」

「さあ。しばらくかかるんじゃないですかね。さっき来たところなんで」

 長々と待っていられるほど暇ではない。幸彦は萎える気持ちを奮い立たせ、社長室のドアをノックした。室内の話し声が止み、「どうぞ」という西尾の声が返ってきた。

 ドアを開けると、ソファに座った男たちの視線が一斉に集まった。上座の西尾を囲むように、他の席には取り巻きが三人座っている。テーブルの上に広げられているのは神戸のガイドブックだった。玉置はあからさまに不快感を表した。

「社長と話し合いの最中や。出直してくれるか」

「すぐに終わりますんで」

 西尾は正面から幸彦の目を見据えた。

「構わん。ここで話したらええ」

「できれば、社長と二人で」

「ここで話せ」

 ソファに空席はない。幸彦は立ったまま、西尾に向かって話した。

「母親の手術が無事に成功しまして。まだ入院せなあきませんけど、もう少ししたら戻れる予定です。最近は元気が余ってるみたいで、見舞いに行くと口数も多くて」

「そうか。そらよかった」

 それだけか、と西尾は目で促した。幸彦は生唾を飲んだ。

「ほんで、納品の話なんですけど」

「それはこの間の定例会で話した通りや」

 玉置がうなずいた。玉置の耳にもとっくに話は入っているのだろう。

「納品量を減らす必要はないと思いまして」

 玉置の表情が変わった。大仰に眉間に皺を寄せ、幸彦をにらみつける。

「幸い、今年は去年以上の収量になりそうで。質ももちろんようなってます。なんで、これからも今まで通りにお付き合いさせてもらいたくて」

「なんでや」

 厳しい口調で言ったのは西尾だった。布袋腹を突き出した西尾は、不機嫌そうに幸彦をにらんでいた。

「なんで、というと」

「たった一年で量も質もようなるなんてことは、よっぽどのことがないとありえん。そら今年は去年より天気もよかった。それにしたって限度がある。有機ならなおさらや」

 ここまで言われて、西尾を見くびっていたことにようやく思い当たった。ファームくろしおをゼロから立ち上げ、ここまで育ててきたのは家柄の力だけではない。西尾の人を見る目の鋭さに、幸彦は射すくめられた。

「ほんまに量も質もようなったんなら、その理由を言うてみ」

 西尾や玉置の視線が痛いほど突き刺さる。幸彦は必死に頭を回転させた。緊張で吐き気がせりあげてくるのを感じた。

「まず、溝をようさん掘ったんで、乾燥しやすくなってます。施肥もやりすぎてたんで、減らしました。それに樹づくりも一から見直して、かなり剪定したんですわ。おかげで日当たりもようなって……」

 どれも嘘ではない。ただし、もっとも影響があった施策については黙っていた。有機の看板を掲げる以上、除草剤のことを話すわけにはいかない。

 西尾は納得のいかない表情だった。

「悪いけど、今言うたことはみかん農家として当たり前のことやで。去年もやってたんちゃうんか」

「今年は全部、一から見直したんです。勉強し直して」

「要するに達男さんから教わったやり方じゃあかんかった言うことか。そんなはずはないやろ、今まではちゃんと作れてたんやから。それに勉強してすぐに結果が出るなら、農家は苦労せん」

 刀の切っ先が近付いてくるように、幸彦はじりじりと追い詰められていた。焦りで舌がもつれた。

「言わはったことはもっともです。でも、せめてもう一年待ってもらえませんか。収穫したみかん見たら、納得してもらえると思うんです」

「そこまで言うなら、いっぺん畑見してくれ」

 畑を見せることはできない。枯れた雑草を見れば、除草剤を使ったことは一発でばれる。「まだお見せできるような段階ではないんで、秋くらいにでも」

「言うてることがちぐはぐや」

 西尾の怒鳴り声が響いた。半袖のシャツから伸びた腕に鳥肌が立った。

「ようなったと言いながら、畑は見せられんと言う。信用ならん」

 ふたたび、玉置がうなずいているのが視界に入った。西尾はころりと口調を変え、うなだれた幸彦を諭すように言った。

「悪いこと言わん。お前には農家の才能がない。まずはそれを認めることや」

 幸彦は両拳を握りしめ、屈辱的な視線に耐えた。こんなはずではなかった。西尾に考えなおさせるどころか、幸彦への不信感が決定的になってしまった。この分では、実際に出来の良い果実を見せるまで誰も納得しないだろう。

 西尾は虫を追いやるように手を振った。

「帰れ。今日は聞かんかったことにしたる」

 憔悴した表情で社長室から出てきた幸彦に、圭太が話しかけた。

「幸彦さん、オレンジ持って帰ってくださいよ。ようさん取れたんで」

 太った身体を大儀そうにかがめ、持ち上げたのはスーパーのポリ袋だった。袋の中にはオレンジが十玉ほど入っている。幸彦は素直に袋を受けとった。

「それにしても、えらい揉めてましたね」

 圭太のデリカシーのなさにうんざりしながら、幸彦は答えた。

「まだ信頼されてないってことでしょ」

「そんなことないと思いますけど。僕からも話してみますよ」

 できそこないの息子が父親に意見したところで、何かが変わるとは思えない。そもそも本当に幸彦の肩を持ってくれるか、疑わしい。圭太もあの父親に盾突くような真似はしないだろう。幸彦は「どうも」と言い残して事務所を去った。社長室からは玉置の高笑いが聞こえた。

 市立病院へ向かう運転は、自然と手荒になった。カーブを曲がったはずみに助手席のポリ袋が傾き、オレンジが座席の下に落ちた。構わず、幸彦はアクセルを踏んだ。

 病室の登世子は眠っていたが、幸彦が枕元の丸椅子に腰をおろすと目を覚ました。

「幸彦か」

「よう寝てたな」

 登世子はこけた頬をさすった。その手は入院前より節くれだち、皺が目立つ。

「最近、すぐ眠なるわ。病院におったら寝るくらいしかやることあらへん」

「西尾さんにバレンシアオレンジもらったんや。食べるか」

 夢を見るような目つきで、登世子は言った。「そやな」

 言ってから、果物ナイフがないことに気づいた。仕方なく、幸彦はオレンジに爪を立てて皮を剥いた。実が現れると、柑橘類の爽やかな香りが広がる。薄皮は少しひっかいただけで破れてしまい、果汁で指が濡れた。皮を剥くと、白い筋に包まれた球形の実が現れた。

「丸かじりで悪いけど」

 裸になったオレンジを受け取り、登世子は苦笑いした。

「こんな食べ方したことないわ」

 ウエットティッシュで口元を押さえながら、登世子はおそるおそるオレンジに前歯を立てた。薄皮がぷつりと破れ、唇の端から果汁が流れ落ちた。ティッシュで受けきれなかった汁が顎に滴り、入院着に橙色の染みをつくった。幸彦は手拭いで濡れた個所を押さえる。

 登世子は汁をすするように数口食べると、幸彦に突き返した。

「看護師さんに怒られるわ。次持ってくる時は切ったやつにして」

「そうするわ」

 仕方なく、食べかけのオレンジはポリ袋に戻した。果汁の香りはまだ病室に漂っている。今更ながら、同室の入院患者たちに迷惑をかけたかと心配した。

 入院してからというもの、氷柱が溶けて細っていくように、登世子は少しずつ痩せている。退院してすぐに野良へ復帰できるとは思えなかった。

「ちゃんと病院のメシ食ってるか」

 登世子は威勢のいい声で返した。

「当たり前やろ。あんたらこそ、ちゃんと食べてんのか。父ちゃんとか葵も」

「みんな普通に食べてるよ。葵も元気になったし。今日も野球やってるわ」

「まあ、葵が元気になってよかったわ」

 和彦が買い与えたテレビカードは、まだサイドボードの上に数枚余っている。この分では、退院までに使いきらないかもしれない。

「甲子園の開会式、見たか」

「見たよ。試合の途中で見るんやめてもうたけど」

 登世子はリモコンでテレビの電源をつけた。今日の第三試合が中継されている。打者が打ち返したボールは右翼方向に飛び、やすやすとキャッチされた。

 和歌山代表が出場するのは三日後だった。


 異性にメールを送るのは久しぶりだった。何度もメールの文面を作っては、消した。

 西尾と話したことが頭をよぎって集中できない。農家として失格の烙印を押された自分が家庭を持ったところで、農家としてやっていける見通しはない。そう思うと、何をする意欲もなくなってしまう。

 もう何日も熱帯夜が続いていた。扇風機の風に髪をなぶられながら、幸彦は窓の外の星空に目をやった。曇天の名残で星は見えない。山肌で煌々と光っているのは、電照菊のハウスだった。

〈お久しぶりです。最近、仕事が忙しくて、連絡できなくてごめんなさい。作物が相手だと、なかなか思い通りにならなくて苦労します。病院の仕事はどうですか〉

 自分の作った無難な文章を眺めていると、電話がかかってきた。和彦の名前が表示されている。この夏だけで一年分は和彦と話しているような気がする。

 仕事を引きずっているのか、和彦の第一声は標準語だった。

「あ、もしもし。今いいか」

「どうしたん。この間話したばっかりやん」

「いや、葵を迎えに行く日を連絡しておきたくてな。八月三十日に行こうと思う」

 幸彦の都合を端から無視した態度に苛立ちを覚えた。

「次の日から出張で、三十日しか空いてへんねん」

「別にいつでも。好きに来たら」

「日帰りにするから。メシも用意せんでええし」

「話、そんだけ?」

 和彦は「まあ」「ええと」などと口ごもっていた。声が反響している。会社の廊下かどこかで話しているのかもしれない。掛け時計は八時半を示していた。夜遅くまでご苦労なことだ。

「実際のところ、どうなんやろ」

「は?」

「葵、学校に戻っても大丈夫そうか。最近そっちで野球やってるんやろ。なら野球部に戻っても大丈夫なんちゃうか」

 和彦の頭にあるのは、一刻も早く平穏な家庭を取り戻すことだけだった。葵が引きこもりから脱した現在、あわよくば元通りの日常が戻ってこないかと望んでいるのだ。

「別に俺、カウンセラーちゃうからわからんけど」

 前置きしてから切り出した。

「今は元気そうやけど、東京戻ったらどうなるか知らんで」

「野球部も全国大会が終わって、三年生はもう引退してるみたいやねん」

「でも二年生とか同期は残ってるんやろ」

「先輩からいじめられてるんなら、ましになるんちゃうか」

 憶測で物を言う兄が愚かに見えて仕方なかった。しかしこれからも葵が和彦に胸のうちを吐きだすとは思えない。ある意味、兄は憶測で物を言うしかないのだろう。

「とりあえず、葵に聞いてから決めたら」

「授業だけならいけるんとちゃうか」

 兄の狡猾な物言いに嫌気がさした。ここで安易に請け合えば、何か問題が起きた時、兄は幸彦に責任をなすりつけるだろう。葵は学校に戻っても平気だと幸彦が言っていた、そのくらいの主張は平気でしかねない。

「俺にはわからんよ」

 和彦もそれ以上は言わなかった。会話が止まった。

 家の裏で猫がさかっている。長く尾を引く鳴き声が、蒸し暑さをいっそう引き立てた。大滝の冷笑が目に浮かんだ。

「兄ちゃんのサラリーマン人生で、勝負どころって何歳の時やった?」

 困惑するかと思ったが、意外にも和彦はすんなり答えた。

「勝負どころ……三十五、六かな」

「その勝負には勝ったん?」

 和彦は低い声でうなった後、ささやくように言った。

「僅差で勝利ってとこかな。こっちもボロボロやったけど」

 幸彦が本当に知りたいのは、その先だった。勝利した和彦は何を得たのか。昇進と自己満足以上のものが手に入ったとは、幸彦には思えなかった。大滝も和彦も、いったい何を求めてそんなに必死になるのか。

 そしてその質問は、そのまま幸彦自身にも返ってくる。未認可農薬を使ってまで収穫を維持し、玉置と張り合ってまで守りたいものが何なのか、自分でもわからなかった。しかし、とにかく後には引けない。使ってしまったことを帳消しにはできない。

 夜の蒸し暑さに閉じ込められ、身動きが取れない。

 三十日に行くから、と言い残して兄は通話を切った。ディスプレイにはふたたびメールの文面が表示された。つまらない、白々しい文章だった。幸彦は下書きをすべて消去した。

 居間では、珍しく達男が夜更かしをしていた。老眼鏡をかけた達男は、机の上に広げた夕刊を読んでいる。幸彦の気配に気づいた達男は顔を上げた。

「おい、ちょっとそこ座れ」

 浴室へ歩きかけた幸彦は、言われるがまま座布団に腰をおろした。達男は老眼鏡をしまい、夕刊をたたんだ。その仕草を見て、自分を待っていたのだ、と直感した。

「お前、西尾さんに見捨てられる寸前なんやって?」

 眉間に刻まれた皺がさらに深くなった。噂の発信源は見当がついた。玉置をはじめとする西尾の取り巻き連中だろう。

「西尾さんに直談判して、あしらわれたらしいな。才能がないとか」

「誰に聞いたんや」

「誰でもええやろ。ほんまにそうなんか」

 整体に通う達男は、時おり待合室で噂話を聞いてくる。大滝からもらった追加の除草剤を撒いている間に、達男は息子の不名誉な噂を聞かされていたのだろう。幸彦の頭は真っ白だった。言い訳めいたことは何も浮かばない。

「しゃあないやんか」

 心からの悲鳴だった。溜めこんでいた不満の栓が抜けて、とめどなく噴き出してきた。

「父ちゃんは家事も手伝ってくれへんし、母ちゃんは倒れてまうし。何から何まで俺が一人でやらなあかんねや。畑の世話して、メシ作って洗濯して掃除して、母ちゃんの見舞い行って、寄り合い出て。全部やってるんや。全部やで。全部押し付けといて知らん顔してたくせに、問題が起こった時だけ監督みたいに偉そうな顔するんはやめてくれ。涼しい顔して野球見てるだけの父ちゃんに指図されたないねん」

 達男は腹の底から声を響かせた。

「俺の畑や」

 その言葉に、幸彦は耳を疑った。

「俺のもんや。偉そうな顔して何が悪いねん」

「もう隠居してるやんか、ヘルニアで」弱々しい反論だった。

「二十年かかったんや」

 達男は網戸越しに広がる木々を見やった。闇夜の中で温州みかんの木々が身体を休めている。幸彦が丁寧に手入れした果実は、虫喰いも病気もなく、健やかに育っている。

「有機でやろうと決めて、一、二年はさっぱりやった。玉置よりはうまくやったけど、それでもダニは出る、カビは生える。食える実がそもそも少なかった。苦労して取ってきた実もスカスカでまずかった。有機はやめろってさんざん言われた」

 高校生だった幸彦も、断片的に記憶していた。田辺のコメ農家に嫁いだ達男の姉は、顔を合わせるたび説教をしていた。あんなもんやるんはほんまのアホや、お前は調子のええ奴らに騙されたあるんや、さっさと慣行に戻さんか。達男は黙って姉の説教をやり過ごしていた。

「それでも歯ぁ食いしばってここまでやったんや。有機で成功した農家があるって聞いたら、何回も話聞きにいった。人雇う金もなかったから、全部俺と登世子でやった。俺はもう五十過ぎとったけど、それでもやったんや。少しずつ収量増やして、ようやくうまいみかんができるようなった。それがお前のせいでご破算や。西尾さんの信用を、お前は全部だめにしたんや」

 実の息子よりも、達男が信頼しているのは西尾だった。足元で何かが崩れたような気がした。達男は血色の悪い歯ぐきを剥きだしにして、幸彦をなじった。

「俺のやり方でやれば、絶対にうまくいくはずなんや。お前が失敗したんは、俺のやり方をわかってへんからや。草刈りのやり方から、もっかい勉強し直せ。次会うたら、土下座でもなんでもして、西尾さんに許してもらえ」

 絶対にうまくいく方法があるなら、みかん農家は苦労しない。

「なんで有機やないとあかんねん」

 返事はなかった。達男は生気のない目つきで幸彦を見るだけだった。殺鼠剤を口にして死んだゴンのような目つきだった。

「人様に畑見せられへんような理由でもあんのか」

 幸彦は、とっさに怯えが顔に出たことを自覚した。

「何や、急に。どういう意味や」

「それも聞いたんや。西尾さんが畑見せろって言うたら、断ったらしいな」

 目の前にはいくつもの選択肢があった。しかしどの道を選んでも、行きつくゴールはたった一つのようだった。夜よりも深い闇が幸彦の行く手に待ち構えている。

 いや、もしかしたら過剰に気にしているだけなのかもしれない。畑地を目の当たりにしても、意外と誰も不審を抱かない、という可能性はないだろうか。

 幸彦は浮上しかけた甘い考えを捨てた。巧妙に隠しても、達男は騙せないだろう。

「どうせ、畑見ても信じてくれへん。見せるだけ無駄や」

 諦めたのか、達男は長い息を吐いて腰を上げた。「さよか」

 腰を刺激しないよう慎重に立ち上がり、余韻を残すように部屋を出ていく。猫のさかる声が、まだ遠くに聞こえていた。

 静けさをかき消すため、テレビをつけた。知らない役者ばかりが出演しているドラマだった。日常生活ではありえないような大仰さで話す彼らは、遠い世界の人間だった。感情移入などできるはずもない。

 チャンネルを変えてニュースを見ていると、天気予報に移った。台風が接近しているらしい。中国や台湾まで描かれた天気図の上では、紀伊半島は米粒のように小さかった。

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