第七章

 引き戸を開けると、額に入れられた写真が視界に飛びこんできた。引き伸ばされた写真には、母校の野球部員や監督、保護者たちと一緒に西尾がフレームに収まっている。保護者である玉置を差しおいて、西尾は選手たちのすぐ後ろで破顔していた。

 事務所の入口で呆然としている幸彦に気づいて、圭太が解説した。

「社長、優勝したのがよっぽど嬉しかったみたいで。これと同じやつ大量に作って、全部員の家庭に配ったんですって。家に飾るには大きすぎますよね」

 んふふ、と鼻から息を漏らして圭太は笑った。

「幸彦さん、試合見ましたか」

「ええ、まあ。玉置さんの息子、すごかったですね」

「まさにレーザービームって感じでしたよねえ。でもあれ経験者から言わせてもらうと、キャッチャーの子もナイスプレーでしたね。ランナーの妨害をかわしてキャッチしてましたから」

 ベンチ入りすらできんかったやつが言うな。幸彦は悪態を飲みこんだ。

「社長も嬉しかったでしょうね。優勝を生で見られて」

「ええ。だから、甲子園も見に行くって言いだして」

「また行くん」

「日程が決まり次第バスとか手配しろって言われて。この間もホテルのサービスが悪いって怒られたし。勘弁してほしいですよ」

 圭太はさして困ってもいない様子で、にやにや笑っていた。この分なら、西尾の機嫌は悪くないはずだ。

「ほんで、社長は?」

「社長はいません。商工会行ってますわ」

「先に言ってや」

 つい敬語を忘れた。圭太はむっとする素振りもなく、へらへらと笑っている。

「伝言あったら預かりますけど」

 二度手間になるだろうが、一応伝えておくことにした。

「うちの母親の手術、成功したって伝えてもらえますか。まだしばらくは入院せなあかんけど、秋には戻れそうなんで。生産量は去年と同じか、それ以上になりそうです」

「去年以上? ほんまですか」圭太が目をむいた。

「量も質も去年より良くしてみせます。だからこれまで通りのお付き合い、よろしくお願いします」

 頭を下げると、圭太は眉を八の字にしてみせた。自分一人では判断できない、という意思表示だった。〈ボン圭〉はいつまで経っても〈ボン圭〉だ。

「社長には話しときますんで」

 西尾がいない以上、ここにいる意味はない。もう一度頭を下げて、幸彦は事務所を出た。

 ハリアーに戻ると、助手席の葵がスマートフォンから目を上げた。眉の上まで切った髪がかすかに揺れる。すぐにでも練習に参加できるよう、ジャージに身を包んでいる。

「やっぱ、ショートの方が似合うで」

「彼氏みたいなこと言わないでよ。キモいから」

 昨日、午後の作業から戻った幸彦は葵の髪形に驚かされた。鬱陶しかった髪の毛がばっさりと短くなっている。聞けば、駅前の美容院を予約して散髪してきたという。

「家の裏の自転車使ったから。あれ、錆びまくってるね」

 事もなげに言う葵の姿は、引きこもりという言葉とは縁遠く感じられた。すっかり印象が変わっている。

 バレンシアオレンジの木々は鈴なりに実をつけていた。坂を下り、自宅とは逆方向にハンドルを切る。

「彼氏おるんか」

「中学の時は付き合ってたけど、高校に入って別れた」

 未舗装路の凹凸を越えると、身体が少し浮いた。

「おじさん彼女いないの」

「三十五の農家のおっさんに、彼女なんかできんわ」

「早く奥さん見つけた方がいいよ。あたしがいなくなったらどうすんの」

「どういう意味やねん」

「家事やる人がいなくなるって意味だけど」

 ここ最近、洗濯と昼食の準備は葵の担当になっていた。洗濯物の畳み方が雑だったり、料理のレパートリーが焼きそばとチャーハンしかないところに文句の一つも言いたくなるが、堪えている。ここでケチをつければやる気をなくしてしまうかもしれない。そもそも幸彦が何か言うまでもなく、達男が「このシャツ皺だらけやな」とか「また焼きそばか」とかつぶやく。葵はそれを耳にするたび不機嫌そうににらむのだが、達男は意に介していない。

 婚活パーティーで知り合った看護師には、まだメールを送っていない。除草剤の件でそれどころではなかったし、家事で時間もなかった。

 いつの間にか微笑んでいたらしい。幸彦の横顔を見た葵は冷たく言った。

「何でニヤニヤしてんの。気持ち悪い」

 到着した小学校のグラウンドでは、ユニフォームに着替えた子供たちが準備体操をはじめていた。女子も何人か混じっている。見守る父兄たちの中に後輩の沢口を見つけて、幸彦は歩み寄った。子供たちと揃いのユニフォームをまとった沢口は、年齢より若々しく見える。

「お久しぶりです」

「急に悪いな」

「全然。その子ですか、姪っ子さん」

 幸彦の後ろに隠れるように立っていた葵が会釈した。「満田葵です」

 猫をかぶった葵の態度は、幸彦へのぞんざいな接し方とはずいぶん違った。

「よろしく。満田さんの後輩の沢口です。野球経験は長いんやっけ」

「小学一年生からです」

「電話でも言ったけど、こいつ本職はショートなんよ。俺も試合のビデオ見たことあるけど、かなり守備うまいで。しかも硬球。女子で硬球やで」

「ハードルあげないでよ。ほとんど見たことないくせに」

 にらまれた幸彦は口をつぐんだ。

「じゃあ、さっそく一緒にストレッチしてもらおうかな」

「よろしくお願いしまーす」

 葵は躊躇なく、ストレッチの輪に入っていった。戸惑う小中学生たちを尻目に、大声で挨拶をしている。

「本当に引きこもりだったんですか。見えないっすけど」

 沢口に耳打ちされた幸彦は首をひねった。

「俺も詳しいことは知らん」

 キャッチボールの段階から、葵の野球センスは明らかだった。力みのないフォームから繰り出されるボールは、正確に相手の胸に収まる。シートノックがはじまると、その違いはよりはっきりした。受けてから投げるまでの間隔が極端に短い。むきになった中学生男子が無理をして素早く投げたら、肩を痛めた。

 ノックを放った沢口は目を丸くしていた。

「あの子、センスの塊ですね」

 シートノックが終わると、可動式のゲージが運ばれてきた。

「バッピやりましょ」

 沢口に言われた幸彦は首を振った。「無理、無理。肩やるわ」

「高校時代にさんざんやったでしょ。お願いしますよ」

 しつこく頼まれ、仕方なく幸彦はゲージの中に立ち、グラブをはめた。ゲージの前には十数人の列ができている。先頭の中学生に投げたボールは、あさっての方向へ飛んだ。

「おじさん、リラックスしてー」

 列の後方に並んだ葵の野次に、父兄が笑い声をあげた。調子に乗るなよ、と目で注意するが効果はない。

 慎重に投げた二投目は打ちごろのボールで、フルスイングのバットが見事に命中した。その後も数人こなすうちにエンジンがかかり、徐々にストライクを取りたくなってきた。OBとして見せ場の一つも作りたいという思いが頭をもたげ、大柄な中学生を相手に三連続空振りを奪ったところで、また葵の野次が飛んだ。

「バッティング練習だからね、忘れないでねー」

 今度は子供たちの間からも笑いが起こった。幸彦は憮然とした表情で、素直な球を投げ続けた。

 バッティングピッチャーとはいえ、久しぶりの野球は楽しかった。

 練習後、女子選手たちが葵の元に駆け寄ってきた。リーダー格らしい、ひときわ背の高い女の子が代表して葵に尋ねた。

「あの、どうやったら、そんなうまくキャッチできるんですか」

 葵の顔が明るくなった。身ぶりを交えながら、女の子たちに捕球姿勢を教えてやる。しばらくすると、男子も集まってきた。葵はさらに声を張り上げる。

「膝が伸びてたら転がるボールには対応できないよ。たまたま捕れたからオッケー、じゃなくて、成功率を上げるように意識すること」

 父兄との世間話を離れて、沢口が幸彦に話しかけた。

「姪っ子さん、いつまでいるんですか」

「決まってへんけど八月中はいるかな」

「その間だけでも、うちで臨時コーチやってもらうん、無理ですかね。めっちゃ上手ですし、お母さん方も、いい子やねって。僕、仕事であんまり見れへん時もありますし」

 願ってもない話だった。いずれにしろ、練習に参加させてもらえるよう頼もうと思っていたところだ。引き揚げてきた葵にその話を伝えると、二つ返事で了承した。

 帰路の車中、葵の表情は清々しかった。助手席で手のひらをじっと見ている。

「葵、野球できるやん」

「全然。身体動かないもん。マメも消えたし、また鍛えなおさなくちゃ」

「あの自転車しばらく貸したるから、練習行く時はそれ使い」

「もう借りてるけど」

 減らず口は元気を取り戻した証拠だと思うことにした。

「これで八王子帰っても大丈夫やな」

 葵の答えはなかった。バックミラーに映る表情は急にこわばり、開いていた手のひらを固く握りしめた。質問したことを後悔したが、今更取り繕うこともできず、幸彦は前を向いて運転を続けるしかなかった。


 風呂から上がると、携帯電話に和彦からの着信履歴が残っていた。かけ直すと、兄は気軽な口調で切り出した。

「お疲れさん。葵はどんな感じや」

 厄介な娘を押しつけたことで、せいせいしているのだろう。たまに電話を入れるだけでいいのだから、楽なものだ。兄を喜ばせるのは癪だったが、幸彦は事実を話すことにした。

「だいぶ元気になったわ。野球も再開した」

「野球やってるんか? そうか、よかった」

 佐織は野球を続けることに反対していたが、和彦はそうでもないらしい。

「連れて帰っても大丈夫そうやな」

「いや、それはわからん。八王子の話したら黙ってまうし。そっちに帰ったら引きこもりに逆戻りするかもしれんで」

「そうか」小さいつぶやきの向こうに、和彦の神妙な顔が目に浮かんだ。

「学校でどんな目に遭ったんや」

 和彦の長い吐息を聞いて、幸彦は兄から情報を得ることを諦めた。

「俺にもわからん。何があったんやって聞いても話してくれへん。学校の先生も、知りませんってシラ切るばっかりやし。まあ先輩にハブられたとか、そんなとこやと思うけど」

 無理もない、と幸彦は思った。仕事しか頭にない和彦と、自分しか頭にない佐織では、娘に心を開かせるのは難しい。

「お盆はどうするん」

 例年、和彦一家は盆に和歌山へ戻っている。達男や登世子からせっつかれるので、仕方なく帰省していることは幸彦も知っていた。和彦は「まあ、まあ」と意味のない前置きをしてから答えた。

「どうせ月末には迎えに行くつもりやし、盆やからってわざわざ行く必要はないやろ。先月もそっち行ったんやし」

「陸は来んのか」

 小学六年生の甥とは、昨年の盆以来会っていない。詰問したつもりはなかったが、つい口調が強くなった。兄は声をひそめた。

「受験生やで。夏は一番大事やねんから」

「中学受験やろ」

「俺らの時代とはちゃうねん。中学から勉強せな一流の大学には入れんのやと」

「農大みたいなしょうもない大学には入れさせたくないってことか」

「そんなこと言うてへん」

 佐織の引き金だろう、と察しはついた。かつて出身の大学を問われた幸彦が大学名を答えると、佐織は首をかしげて「知らない」と言った。それがどれだけ失礼な反応かもわかっていなかった。知らない大学は、彼女にとっては存在しないに等しい。

 和彦は刺のある声で言った。

「お前、今日はえらい強気やな」

 間髪を入れずに答える。「そっちが弱気になったんやろ」

 幸彦は、言いようのない万能感に包まれていた。みかんの収穫は見通しが立ったし、登世子の手術は成功した。引きこもっていた葵は野球を再開した。何もかも上手くいっているという手ごたえがあった。

 きっかけは大滝からもらった除草剤だった。それまでは、有機栽培という看板を守ることに必死だった。手間のかかる草刈りから解放されたおかげで、ようやく果実と向き合うことができたのだ。

 居間に行くと、葵がテレビを見ていた。扇風機が風を送り、短くなった前髪を揺らしている。

「この座椅子、なんか脂臭いんだけど」葵が座っているのは達男の定位置だった。

家に一台しかないテレビでは、タレントが街歩きをする番組が流れていた。和歌山の過疎地で、テレビ画面の中だけは東京だった。

「ここ、行ったことあるか」

「あるよ。おじさん、ないの。東京の大学だったんでしょ」

「こんなオシャレな街行かんかったわ。どんなとこや」

「別に、普通。駅の中にビルが入ってて、駅前にドラッグとかコンビニとか牛丼屋とかあって、それだけ」

 それを普通と感じる環境で、これまで葵が育ってきたということだ。転地療養、と言った和彦はあながち間違っていないのかもしれない。

「さっき、お父さんと話した」

 幸彦が言うと、葵は鼻で笑った。

「今更何の話するの。島流しにした人が」

 父親の目論見を、娘はとっくに見抜いている。短くなった髪を掻いて、葵はテレビの画面に向き直った。幸彦はかたわらに腰をおろした。

「月末に迎えに来るって言うてたわ」

「迎えに来なくていい、って言っといて。陸の世話もあるんでしょ」

「あっちに帰りたくないんか」

 葵は首を振った。「全然。帰りたくない」

 できるだけ優しい声音で、幸彦は尋ねた。

「高校入って、何があったんや」

 黙りこむと、余計に蒸し暑く感じられる。葵は三角座りの膝に顔を埋めた。幸彦の首筋を汗が流れた。

「嫌がらせでもされたんか」

 葵は膝に顎を乗せたり、顔を左右に振ってみた後で、おもむろに幸彦の方を向いた。

「こうやって話すと、つまんなく聞こえるかもしれないけど」

「話してみ」

 葵はぽつりぽつりと、この数ヶ月の間に起きたことを話しはじめた。


 野球をはじめたのは和彦に勧められたからだった。

 休日に顔を合わせるたび、父は小学生の娘をキャッチボールに誘い、野球をやらないか、と言った。母はあまりいい顔をしていなかったが、葵自身スポーツが得意だったこともあり、地元の野球チームへ入るのに時間はかからなかった。男女混成チームで、葵は不動のレギュラーだった。

 中学に進学して大半の女子が野球をやめてしまったが、葵は野球を続けたい一心でチームに残った。学年が上がるにつれて葵は選手から外される機会が増えた。背が低かった男子に次々と身長を追い越された。男子に混ざっても内野守備では互角だったが、打力不足は野手として致命的だった。ひたすら選球眼を磨き、四球を狙うしかなかった。

 チームメンバーの保護者はドリンク準備や送迎に駆り出されることが多い。そのため佐織はよく試合を見ていたが、活躍できなかった日に限って「まだ続けるの?」と言われるのがたまらなく鬱陶しかった。男子と同じチームだから活躍できないのであって、女子の中ではまだやれるという自信があった。

 そんな中、名門校からスポーツ推薦の誘いが来た。

 地元にある女子野球の名門校は、葵にとって憧れの存在だった。野球をはじめて以来、その高校で野球することを夢見てきた。葵が進学の意思を伝えると、和彦は素直に喜び、佐織は渋々了解した。家から近い女子校という条件が、佐織の希望に叶っていた。

 葵は声のトーンを落とした。

「うちのチームは女子がいなかったから、その高校に行った先輩もいなかった。どんな野球部か、入るまでわからなかったんだ」

 入学前の春休みから、葵は練習に参加した。先輩たちはまだ中学生の葵たちに優しく、練習準備や道具の扱い方を丁寧に教えてくれた。この高校を選んで正解だった、と葵は確信した。

 何度か練習をこなすと、葵が同級生だけでなく、先輩と比べても高い実力を持っていることがはっきりした。守備はもちろんのこと、走塁や打撃もレギュラーに引けを取らない。

 決定的だったのは、入部直前の練習試合だった。新一年生でチームを組み、上級生のレギュラーと試合をするという恒例行事である。レギュラーの実力を見せつけ、新入生の結束を強くするのが試合の目的だった。実際、マウンドに立った新一年生は面白いようにヒットを打たれて、目に涙を溜めていた。

 葵は孤軍奮闘した。遊撃手として守れば、打球を確実にさばいて失点を防いだ。打席に立てば、鍛えられた選球眼で塁に出てチャンスを作った。盗塁を決めた時には、二塁を守る先輩の舌打ちが聞こえた。しかしその時の葵は、久しぶりに試合で活躍したことで気分が昂ぶっていた。先輩の機嫌を損ねたことなど、気にも留めなかった。

 葵は活躍しすぎた。

 入学式の日、新入生は初めて部室のロッカーを与えられる。同級生に新品同様のロッカーが割り振られる中、葵のロッカーだけは古びて錆が浮いていた。最も入口に近い場所で、春先は風が吹きこんで寒かった。

 正式な部員として認められると同時に、監督や先輩の態度は一変した。練習中は監督の怒声が飛び交い、練習外でも駆け足が求められた。まごつけば先輩から叱責され、練習が終わってからも部室で延々と説教を食らう。

 それでも、部員全員に厳しく接する監督は理解できた。葵にとって辛かったのは、部内の人間関係だった。

 ロッカーの私物の配置が変えられていることがあった。同級生に相談したが誰も知らないという。何度か同じことが続き、そのたび同級生に話していると、噂を耳にした先輩から注意された。

「気のせいでしょ。そんなくだらないことでみんなを振り回さないでよ」

 野球部OGたちが大挙して見学に来たことがあった。すかさず椅子を出し、飲み物を準備する同級生たちの狭間で、葵はまごつくしかなかった。OGが見学に来ることも、対応の仕方も知らなかった。

 練習後、部室に呼びだされた葵は何人かの先輩に囲まれた。全員、レギュラーとはほど遠い実力の持ち主だった。葵は腹の底に怒りを押しとどめて、先輩の叱責に耐えた。

 先輩の一人が呆れたように言った。「昨日、寮で言ったじゃん」

 野球部は遠方の出身者も多く、ほとんどの部員は寮で暮らしている。新入部員で寮に住んでいないのは葵だけだった。

「すみません、あたし実家なんで」

「だったら同期から聞いといてよ。それくらい気利かせて」

 知らないことをどう聞けばいいのか。葵は苛立ちを飲みこんだ。

 実家暮らしの葵は雑談でも寮生の輪から外れることが多くなり、自分から会話を遠ざけるようになった。とげとげしい態度の葵を、次第に同期も敬遠するようになった。雑用や行事についていけなくなり、先輩から叱責される頻度は増えていった。

 葵は練習や試合に居場所を見つけるしかなかった。野球をしている間だけは、人間関係を忘れることができた。

 他校との練習試合で、遊撃手としてメンバーに抜擢された。期待に応えようと必死でプレーした葵は安打を連発し、堅実に守備をこなした。試合には敗れたが、葵はアピールに成功したと密かに喜んでいた。試合後、監督に呼び出された。

「満田、今日は調子良かったな」

「いや、まあ普通です」

「遠慮するな。お前は調子が良かった。ただ、試合は負けた」

 監督はけだるそうに言った。

「気張るのはいいが、スタンドプレーじゃ勝てんよ。野球は団体競技だからな」

 ひどく落胆した。最高のパフォーマンスのつもりだった。先輩面をしている連中より、ずっとチームに貢献している自信があった。それをスタンドプレーの一言で片づけられたのが悔しかった。葵の反応を見透かすように、監督は尋ねた。

「なんか悩んでることあるんじゃないか」

 弱音を吐くのは、昔から嫌いだった。

「ありません」

 監督もそれ以上は追及しなかった。

 夏の選手権が終わって三年生が引退すれば、きっと状況は変わる。それまでの辛抱だと自分に言い聞かせて、葵は練習に励んだ。練習試合では必ずメンバーに選ばれ、先輩に囲まれて懸命にプレーした。幸い、レギュラークラスの先輩は葵に嫌がらせをするほど暇ではない。特に仲良くしてくれるわけではないが、遠ざけられもしない。葵にはそれで充分だった。

 選手権に向けて、部内の空気は張りつめていった。

 それは守備練習の最中だった。いつものように、正面のゴロを捕球した葵は一塁方向へボールを投げた。身体の軸はまっすぐだったし、足の踏ん張りも利いていた。正確な送球だった。

 だから、ボールが捕球役の先輩のグラブにかすりもしなかったのには驚いた。そればかりか、葵が投げた硬球は、たまたまその後ろでゲージを運んでいた同期の肩に命中した。うめき声とともにくずおれた同級生は、恨みがましい目で振り向いた。

 すかさず、他の先輩が言った。

「謝ってこいよ」

 捕球役の先輩はそしらぬ顔で練習を続けている。葵が駆けていくと、肩を負傷した同期は責めるような目つきで見返した。

「わざとやってんの」

 険悪な雰囲気に、思わず葵は弁解するような口調になった。

「そんなわけないじゃん」

 保健室へ連れて行こうとしたが、断られた。

「いいから。練習してれば」

 逃げるように走り去った同期を追いかけられず、葵は練習に戻るしかなかった。

 やがて、ふたたび順番が回ってきた。ショートバウンドを難なく捕り、一塁方向に向かって投げようとした。

 その時、捕球役の先輩が笑っているような気がした。投げれば、またわざと後逸されて、自分のせいにされるかもしれない。誰かがケガをするかもしれない。ボールを握る右手が小刻みに震えて、いつまでもグラブの中から出すことができなかった。

 グラブを掲げた先輩が、じれったそうに叫んだ。

「満田、ボール投げろ」

 こわばった肩を動かし、力任せに投げたボールは先輩の頭上を飛び越えた。「何やってんだよ」という怒声が聞こえた。

 同期が近付いてきて、にやついた顔で言った。

「満田らしくないじゃん」

 それから、思い通りの方向へ投げられなくなった。何度練習しても、先輩の胸に向かって投じることができない。ボール投げろ、という先輩の声が頭の中で反響する。焦るうち、捕球も失敗するようになった。

 翌日も、その翌日も、葵の守備はまずいままだった。泥沼のように、どれだけもがいても抜け出すことができない。葵は部内における自分の居場所が崩れていくのを感じた。

 練習試合でメンバーから外された翌日、葵は学校を休んだ。学校に行けば部員や監督と顔を合わせる。部活に行かないためには、学校を休むしかなかった。佐織には腹痛だと言って、一日中布団にくるまっていた。

 朝は気が楽だった。先輩も同期も監督もいない部屋で、葵はスマートフォンをいじって過ごした。野球をしない一日はすぐに過ぎた。夜になると、翌日の学校のことを嫌でも想像する。部活に行けば休んだ理由を問い詰められるだろう。野球が下手になった葵に居場所があるとは思えない。今日がずっと続けばいい。

 一睡もせずに朝を迎えた葵は、その日も学校を休んだ。部屋のドアは施錠し、理由を問いただそうとする佐織を締め出した。食事とトイレ以外は部屋から出ないことにした。

 その翌日も、翌々日も部屋にいた。リビングで鉢合わせた弟が「どうしたの」と言ったが、答えずに部屋に戻った。

 夕食をとっていると、珍しく早く帰宅した和彦が話しかけてきた。

「学校、休んでるんだってな。体調悪いのか」

 食事の途中だったが、葵は席を立った。

「なんかあったのか。なあ。なんでもいいから話してみろ」

 和彦がそんなことを言っていたが、振り向きもしなかった。

 担任教師が家にやってきたが、葵は部屋から出なかった。水泳部の顧問であり、現役の水泳選手でもある担任には、引きこもりの心理などとても理解できそうになかった。

 部屋には、これといって楽しいことはない。ただ、辛さもなかった。ネットニュースと掲示板を読み漁っていると、時間はあっという間に過ぎていく。静かな湖面のように平坦な日々だった。

 六月の誕生日に、葵は家族が外出した隙を狙って、久しぶりに家を出た。せっかくの誕生日に自宅にこもっているのはあまりにみじめだった。すれ違う人々に、顔や服装を笑われている気がした。目を伏せて八王子の駅まで歩き、駅ビルの雑貨店や書店をのぞいた。自分へのプレゼントに、ボーダーのバックパックを買った。

 駅を出たところで背後から肩をつかまれた。喉の奥から甲高い悲鳴が漏れた。振り向くと、先輩が立っていた。野球部は練習中のはずだ。混乱する葵はただ、あっ、あっ、と言葉にならないことをつぶやいていた。

「元気そうじゃん。部活サボって何やってんの」

 先輩は左手に包帯を巻いていた。病院に行くのかもしれない。

「お前が来ないの、うちらのせいにされてんだから。さっさと戻ってこいよ。部活行かないんだったら、学校行けなくさせるよ」

 葵は咄嗟に、バックパックを抱えて駆けだした。

「逃げんじゃねーよ」

 葵を追いかける足音は聞こえなかったが、振り向くことも、足を止めることもできなかった。口の中に鉄の味が広がるまで走った時、ようやく葵は立ち止まった。

 梅雨時らしい大雨の日、監督が訪れた。練習がなくなり、暇になったのだろう。監督は閉ざされたドアの前で延々と何かを話していたが、イヤホンで動画を見ていた葵には一切聞こえなかった。連続ドラマを三回分見終えてイヤホンを外すと、もう監督の話し声は消えていた。

 深夜、リビングから二階への階段を上る途中で、疲れて足を止めた。たった一ヶ月の間に、筋力は驚くほど衰えていた。手のマメは日に日に薄くなり、のっぺりとした綺麗な皮膚になっていた。

 和歌山へ行くという話を聞かされたのは、その翌週だった。

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