第六章

 豪雨の夜だった。

 雨に濡れた達男の姿を見て、中学三年生の幸彦は驚いた。父は手に折りたたみ傘を握りしめ、三和土に立ちつくしている。傘を靴箱の上に投げ捨て、幸彦が差し出したタオルを奪い取った。乱暴に顔や髪の水分をふき取る父に、幸彦は恐る恐る尋ねた。

「父ちゃん、どうしたん。傘さしてへんやん」

 達男は息子をにらみつけ、濡れたタオルを突き出した。質問には答えず、独り言のようにぶつぶつとつぶやいた。

「しょうもない奴らや。ええか幸彦、これからJAの連中にはええ顔すなよ。向こうがすり寄って来ても、もうあいつらには関わったらあかん」

 浴室で下着姿になった達男はそのまま居間に立ち入り、台所に立っていた母に言った。

「おい。着替えもってきてくれ」

「手離せへんから、自分で取ってきてよ。引き出しに入ったあるから」

「ええから持って来い」

 夫の怒鳴り声に、登世子は怪訝な顔で振り向いた。普段、達男はそんな物言いをしない。息子を叱る時も声を荒げることはほとんどなかった。登世子は急いで手を洗い、寝室から達男の寝間着を持ってきた。所在のない幸彦は、食卓についた。

「何かあったん」

 達男は苛立たしげに頭を振った。髪に残っていた水滴が、幸彦の足の甲に飛んだ。

「規格に合わんもんは売れへんと。ほんのちょっとでも黒点がついてたら、もう売れませんとか、せんのないこと言いよる。そのくせ他の農家が作ったブヨブヨのみかん売りよって。できたもんで選んどるんちゃうねん、人で選んどるねん。何様のつもりや」

 ここ最近、父がJAと衝突していることは幸彦も薄々勘付いていた。食卓ではよく担当者の悪口をこぼし、「何様のつもりや」という台詞をしきりに口にした。

 冷蔵庫から缶ビールを取り出した達男は、グラスに注がず直に飲みはじめた。

「晩飯、なんや」

「カレイと酢味噌和えやけど」

 鍋からは醤油と砂糖が混じり合った甘辛い匂いが立ち上っている。皿に盛り付けるのももどかしいのか、達男はテーブルの上の浅漬けを指でつまんで口に入れた。ビールを飲みこむと喉が派手に上下する。

「あいつら口ばっかりや。有機農法を広めたいとか言いながら、いざはじめたらケチばっかりつけよって。売り物にならんとかできるだけ安くとか、話にならん」

 慣行農法から有機農法に切り替えて、二年が経っていた。作物の質は多少ましになったが、収率の低さや見た目の悪さから、JAは達男の作ったみかんを嫌がるようになっていた。綺麗な果実でなければ消費者は買わない。担当者は一貫してそう主張し、かろうじて規格に合格するごく一部の果実だけを購入した。

 きっかけはゴンの死だった。達男は取りつかれたように有機農法について調べ、すぐさま実践に移した。しかし家族はついていけなかった。ゴンが食べたのは農薬ではなく殺鼠剤であり、しかも誤食だった。残留農薬の安全性と無関係だということは、ゴンをかわいがっていた幸彦も理解していた。

 登世子は缶ビールの隣に酢味噌和えの小鉢を置いた。

「いきなり有機農法やるんは難しいってことやろ」

「それはちゃうな。確実にモノはええんや。ちょっとした見た目の違いなんや」

 そのちょっとした違いは、消費者にとっては大きな違いとして映る。誰しも、自分が育てた作物は良く見える。そもそも農家と一般消費者では作物に求める価値が違う。達男には消費者の目線が欠落していた。

 達男がJAの悪態をつくことはよくある。だが、その日はまだ話に続きがありそうだった。幸彦は炊飯器の白飯を茶碗によそいながら、父の様子をうかがった。窓を叩く雨音は勢いを増している。

「今日な、西尾さんから農事組合に誘われてん」

 家族に語りかける達男の声には、よそよそしい雰囲気が混じっていた。

「西尾さんって、坂の上のお屋敷の?」

「そうや」と達男は言った。

 達男個人としては西尾とあまり付き合いがなかったが、この地域で豪農西尾家の名前を知らない者はいない。隠居した当主に代わって経営を切り盛りしているのは、四十歳そこそこの長男だった。達男より年下だが、家の格式を気にして、西尾を相手にする時には必ず敬語を使う。

「JAで会ったんやけどな、実は西尾さんも有機はじめたらしいねん。まだ一部だけやって言うてたけどな」

「花で有機農法なんかやっても、あんまり意味ないんとちゃうん」

 カレイの煮つけを箸でつつきながら、達男は反論した。

「花じゃない。西尾さんは新しい野菜とか果樹をはじめるみたいや。仮に失敗しても花があるから、食いっぱぐれることはない。ええ考えやわ」

「大きい農家やからできることやね」

 支度を終えた登世子も食卓についた。

「話してみると、西尾さんも俺と同じこと考えたあるねん。JAに任せてたらようならん、自分らで何とかせなあかんって。もっともですわ、って話して。そしたら西尾さん、近いうちに農事組合作るからぜひ参加してくれって言うたんや」

 さっきまでの怒りは影をひそめ、達男は痛快そうな笑顔を見せた。地域で有数の豪農から認められた、という優越感がありありと浮かんでいる。

「なんて答えたん」

「もちろん、よろしくお願いしますって」

「大丈夫なん、ほんまに。そんなホイホイ鞍替えして」

 登世子の心配はもっともだった。有機農法に切り替えてから収入は減ったものの、家族で生活できる程度の実入りはある。JAを見限ることは、その収入を捨てることだった。

「どうせこのままやったらジリ貧や。JAの力も昔よりずっと弱なっとる。頼りきる方が間違ってんねん」

「幸彦も高校大学行かせなあかんのに」

「中卒でも農家はできる。いざとなったら高校やめたらええ」

「中卒は嫌や」幸彦が口を挟んだ。

「なんでや。中卒なんかいくらでもおるやろ。このへんで大学出てるんなんか、それこそ西尾さんくらいや」

「兄ちゃんは大学まで行って、俺はあかんのか。ひどいわ」

「もうちょっと、考えてよ」

 家族の反論を受けた達男は顔をしかめた。「今度、また西尾さんと話すわ」

 結果的に、達男の判断は誤りではなかった。ファームくろしおと名付けられた農事組合は、レストランへの納入や通販でそれなりの収益をあげた。幸彦は高校を中退する必要もなく、東京の大学に進学することができた。

 そして今では、その有機農法という檻に囚われている。


 除草剤を撒いた辺りに、三日ぶりに足を踏み入れた。

 そこには白茶けた雑草の山ができていた。除草剤を散布した畑地からは緑の雑草が消え去り、代わりに枯草で満たされていた。メヒシバもエノコログサも、ぐったりと地面に横たわっている。早朝の日が木の根元に差し、光を浴びた果実が輝いていた。

 幸彦は枯草で埋められた地面を前に、呆然と立ち尽くしていた。一抹の罪悪感が気にならないほど、心は爽快な喜びで占められていた。厄介だった雑草をいとも簡単に排除できる。安全性も高い。ただ未認可というだけで、この除草剤を使わないのはもったいない。素直にそう思える効果だった。

 ボトルの中身は半分残っている。しかしそれだけでは、畑の全域に散布するには到底足りない。次にやるべきことは明確にわかっていた。

 昼になるのを待って、自室の部屋に鍵をかけ、大滝に電話をかけた。十回以上コールが鳴って、ようやく大滝が電話口に出た。

「ごめん。仕事中やんな。今、大丈夫か」

「使ったか」

「え?」

「使ったんだろう。クスリ」

 確信に満ちた大滝の口調に、幸彦はたじろいだ。最初から、幸彦が使うことを想定しているようだった。

「どうだ、効果は。効いただろう。効かなかったのか。おい。何か言えよ」

 詰め寄る大滝に押されていた。ごまかそうとしたが言い訳が思いつかず、しかたなく幸彦は肯定した。「効いた。抜群や」

「それはよかった。あれじゃ足りないだろう。追加で送ってやるよ。ここから先はタダってわけにはいかないけど」

 口ぶりから大滝の興奮が伝わってくる。ポーカーフェイスの裏にひそんでいた野心を、まざまざと見せつけられている。

「金か」

「金なんかいらないよ。言っただろう。試験の手伝いをしてほしい」

「何したらええんや」

「そんな難しいことじゃない。散布する前後の写真を撮って、メールで送ってくれ。あとは俺が質問することに答えてくれればいい」

 試験するとなれば、半月、ひと月では終わらないだろう。試験が終わる前に登世子が退院して畑に出れば、きっと露見する。狭心症を理由に畑に出ることを止められても、勤勉な母のことだ、器具庫の整理くらいはするだろう。

「……やっぱり、これって」

 大滝は不安をあざ笑うように軽く言った。

「大丈夫。大丈夫だって。有機JASの検査機関じゃ見抜けないし、果実への影響もない」

「未認可農薬使ってるんがばれたら、とんでもないことになる」

「どうやってばれるんだ? 枯れた草さえ適当に処分しとけば、誰もわからないよ。そもそも満田以外に畑の様子を見る人間もいないんだろ」

「うちは二十年、有機農法でやってきたんや。ここで除草剤使ったら、今までやってきたことが全部台無しになるんや」

「甘いこと言うなよ。使ったのは満田の意思だろう」

 大滝は苛立たしげに迫った。「いるのか。いらないのか」

 西尾や玉置の屈辱的な物言いがよぎった。入院している登世子の姿も浮かんだ。地面に横たわるゴンの亡骸がフラッシュバックした。そして、あの神宮球場での試合を思い出していた。目眩がしそうな意識の中で、幸彦は言った。

「送ってほしい」

 できるだけ早く発送することを約束して、大滝は通話を切った。幸彦は携帯電話を畳に投げ捨て、布団の上に横たわった。そのまま眠ってしまいたかった。空腹よりも眠気が勝っている。

 眠りに入りかけた頃、いきなりドアがノックされた。ドアの向こうに立っていたのは葵だった。かきわけた前髪をヘアピンで留め、額を出している。葵がここに来てから初めて、まともに目を見た気がした。

「なんや」

「焼きそば作ったから。食べたかったら食べて」

 それだけ言い残すと、葵は台所の方へ踵を返した。ドアを閉め切っていたせいで気付かなかったが、廊下にはソースの匂いが漂っている。

 食卓では達男と葵が焼きそばを食べていた。数日前、市立病院からの帰りにスーパーで焼きそばを買ったことを思い出した。コンロにかけられたフライパンには、麺と一緒に炒められたニンジンや豚肉の切れ端が入っている。焼きそばを皿に盛り、食卓についた。

「うちに来てから、料理したん初めてちゃうか」

 葵は黙々と焼きそばを食べている。達男は爪楊枝で歯の間をつついていた。

「朝から洗濯もしとったぞ。俺の分まで」

「洗濯も? ほんまか」

「しちゃダメなの?」葵は不機嫌そうに言った。

「そんなことない。してくれたらめちゃくちゃ助かるわ」

 幸彦は焼きそばを頬張った。ソースの匂いが口いっぱいに広がる。火の通っていないニンジンを、音を立てて噛み砕いた。「うまい」

「他にやることないんだもん。ここって、暇すぎる」

 照れ隠しのように葵は言った。

「なら、最初から引きこもらんかったらええやろ」

「八王子は歩けない」

 いつの間にか、葵の箸を操る手が止まっていた。焼きそばは皿の上にたっぷりと残っている。こんなに少食ではなかったはずだ。何気ない風を装って、葵に尋ねた。

「なんで野球部やめへんのや」

 葵は小馬鹿にするような表情を浮かべた。

「聞いてなかったの。お父さんが言ったじゃん。スポーツ科だから、やめたら居場所がなくなっちゃう。スポ科が部活やってないって、何も取り柄がないってことだよ」

「居場所がなくなるって、クラスでの居場所か? そんなに大事か」

「友達がいなくなっちゃう」

「だってお前、学校行ってないんやろ。クラスに居場所ないようなもんやん。どうせ居場所ないんなら、さっさと退部したらどうや」

 達男も爪楊枝を使いながら、葵の様子をうかがっている。何も言わない葵に焦れた幸彦は、さらに続けた。

「葵が八王子を出歩けへんっていうんが、一番解決せなあかん問題ちゃうんか。部活やめてでも学校やめてでも、まずは普通に生活できるようにせな。話はそれからやで」

「はいはい」

 葵は焼きそばの残った皿を流しに運んだ。勢いよく置いたせいで、食器のぶつかる低い音が台所に響いた。少し調子に乗りすぎた、と思ったものの、今さら引き止める言葉も思いつかず、幸彦は固いニンジンを噛むことしかできなかった。

 葵が自室に戻ると、達男は待ち構えていたように席を立ち、居間の定位置に腰をおろした。間もなく開始する準決勝第二試合には、母校が出場する。今までテレビをつけなかったのは、達男なりの気遣いだったらしい。

 ちょうどメンバー紹介の最中だった。幸彦は耳を澄ませた。アナウンサーの歯切れ良い言葉が聞こえてくる。

「センターは三年の玉置。昨日の準々決勝では果敢なダイビングキャッチでチームをピンチから救いました」

 守備で活躍しているという玉置の言は、まんざら嘘でもないらしい。画面に目をやると、強気な面構えの少年が映し出されている。肌は父親と同じくらい黒く焼けていた。

 投球練習をしている母校のピッチャーは、エースナンバー1を背負っていた。どうしても大滝のことが頭をよぎる。農薬を使うか判断を迫られた時、幸彦の意識は秋晴れの神宮球場にあった。あの落球は野球選手として最も悔いが残る場面だった。大滝の気持ちに報いたかった。未認可農薬を使うことで大滝が満足するなら、それでもいい。

 相手チームの一番打者は、一球目からバットを振ってきた。当たりそこないのフライはセンター方向へ飛んでいく。玉置選手が涼しい顔で捕球した。


 翌朝、ボトルに残っていた除草剤を希釈し、雑草の生い茂る一帯に撒いた。刈払機を使えば三、四時間はかかる広さを、一時間足らずで処理できる。しかも一度撒けばしばらくは生えないらしい。実際、最初に撒いた場所にはいまだに新しい雑草が生えていない。

 草刈りに使っていた時間は、摘果や野菜の収穫にあてた。時間にゆとりができれば、登世子がいた時と同じくらいの作業をこなすことができた。草刈りがどれだけ重労働だったか、再度思い知らされた。

 切りのいいところでキャップを脱ぎ、タオルで汗を拭いた。連日、晴天が続いている。水筒の冷たい水が喉を滑り落ちていった。

 紀三井寺球場で試合開始を待っている、母校の後輩たちのことを思った。彼らは今日、十数年ぶりの甲子園出場を懸けて決勝に挑む。試合開始は正午だが、達男は朝からテレビの前に座りこみ、しきりにチャンネルを変えていた。

 昨日の夕方、野菜を納品するためファームくろしおを訪ねると、圭太が応対に出た。西尾は不在だった。

「本当に紀三井寺まで行っちゃいましたよ。ついさっき、玉置さんたちと一緒に。大変でしたよ、マイクロバスとかホテルとか、全部僕が手配させられたんですから」

 圭太が笑うと腹の肉が大げさに揺れる。満田家が声をかけられなかったことに寂しさは感じなかった。むしろ、面倒な旅行に付き合わされずに済んでよかった。達男も家でテレビ観戦している方が気楽だろう。

 洗った噴霧器を片づけて器具庫から出ると、葵と鉢合わせた。とっさに、手にしていた空のボトルを背中に隠した。葵は幸彦の動揺に気づかない。相変わらず前髪をピンで留めている。

「試合、はじまるよ」

 それだけ告げると、葵は背を向けた。幸彦は姪の後頭部に話しかけた。

「その前髪、どうにかした方がええで」

 わかってる、とでも言いたげに葵はゆっくり振り向いた。

「このへんに美容院あんの?」

「理髪店ならある」

「えーっ。理髪店? なんかダサい髪形にされそう」

「今の髪形もけっこうダサいで」

「うるさいな」

 台所には、火を通したタマネギの甘い匂いが漂っていた。フライパンをのぞきこむと、ひき肉入りのチャーハンができている。葵は素知らぬ顔で食器を用意していた。

「今日も作ってくれたんか」

「食べたくなかったら食べなくていいから」

 達男はテレビ画面に釘付けになっている。葵は皿にチャーハンを盛り、居間のテーブルまで運んでやった。達男は礼も言わず、視線はテレビに送ったまま、黙々とスプーンを動かした。画面には準決勝のダイジェストが流れている。

 幸彦と葵は食卓で食べた。テレビを見ながら食べるせいか、皿の上のチャーハンはなかなか減らない。

 両校の選手がベンチから飛び出す。整列し、帽子を脱いで挨拶をする。また駆け出し、母校の選手たちは守備につく。今日も後攻らしい。ピッチャーは昨日と同じ1番。センターには日に焼けた玉置の息子がいる。ざわめく観客席のどこかで、西尾や玉置も同じ試合を見ているのだろう。

 ピッチャーがサイレンと同時に投じたのは、明らかなボール球だった。二球目、三球目と外し、四球目でようやく真っすぐ入ったと思ったら、打者にすくいあげられた。白球はやすやすと三遊間を抜ける。腕を組んだ達男がつぶやいた。

「やっぱり立ち上がりがようないわ」

 大滝もそうだった。点を取られるのは早い回が多く、尻上がりに調子がよくなっていく。監督もそれがわかっているから、よほどの大量失点でない限り七回、八回まで引っ張ることが多かった。

 さらに後続にも打たれ、一、三塁で四番打者を迎える羽目になった。相手校のブラスバンドが演奏する〈狙いうち〉が耳障りだ。スライダーと直球を織り交ぜてしのごうとするが、相手打者は確実にバットを合わせてくる。特大の飛球は、惜しいところでファールとなった。達男はしきりにつぶやいている。

「危ないわあ。これ危ないわあ。何とかせな」

 観客席の盛り上がりが最高潮に達した時、四番打者の振り抜いたバットが白球を高々と打ち上げた。放物線を描いたボールはセカンドの後ろに落ちそうだったが、センターから玉置選手が何かを叫びながら猛然と走りこんできた。セカンドの選手は諦め、玉置選手がどうにか追いついて捕球した。

 瞬間、三塁走者がタッチアップのスタートを切る。玉置選手が流れるような動きで本塁へ送球した。勢いでキャップが地面に落ちる。送球は寸分の狂いなく捕手のミットに収まり、一瞬遅れて三塁走者が頭から滑りこんだ。

 審判がアウトを宣告すると同時に、達男は右手でガッツポーズを作った。

「よっしゃ、ようやった!」

 観客席も好プレーに沸いている。玉置選手はキャップを拾い、チームメイトと一緒にベンチに駆け戻る。その顔には誇らしげな笑みが浮かんでいた。

「あの肩、ヤバい」

 葵の口から洩れた感想に、幸彦も同意した。「ヤバいな」

 結局、幸彦はそのまま試合終了まで見届けた。葵も試合に夢中だった。

 九回表、右腕から放たれたカーブがキャッチャーミットに収まった瞬間、母校の県大会優勝が決まった。達男は放心状態で、マウンドに集う球児たちの映像を見ていた。

「ほんまに優勝してもうた」

 かろうじて他人に聞こえるくらいの小声で、そう言っていた。葵がぼそりと言う。「おじいちゃん、死ぬんじゃないの」

 試合が終わると、葵は食器を洗いはじめた。達男は魂が抜けてしまったかのように微動だにしない。幸彦は観客席のどこかで狂喜しているであろう、西尾や玉置の姿を想像した。今日のヒーローは玉置の息子だ。あの送球がなければ、試合の結果は違っていたかもしれない。

 流れで監督インタビューを見ていると、葵が食器を洗いながら言った。

「おじさんも外野うまかったんでしょ」

「なんやそれ。誰から聞いた」

「お父さん。おじさんは外野守備が誰よりもうまかったって。お父さんは野球下手くそで、五歳下の弟より守備が下手だから肩身が狭かったって」

 さすがにそれは誇張だろう。幸彦が地元のチームに入ってすぐ、和彦は野球をやめた。肩身を狭く感じる隙もなかったはずだ。高校進学と同時に、和彦は受験勉強に専念することを理由に野球との縁を切った。

 確かに、兄よりは野球ができる自信はある。和彦はスポーツ全般が不得意で、打っても守っても走っても、平均以下の選手だった。幸彦が知る限り、公式戦には一度も出場していない。

 ただ、まったく才能がない方が幸せな場合もある。和彦は野球の才能のなさにはやばやと見切りをつけたおかげで、勉強に没頭することができた。幸彦は守備だけは人並み以上にできたせいで、いつまでも野球を諦めることができなかった。中途半端に才能に恵まれるということは、難しい決断を迫られることでもある。

 身体がうずうずしていた。ボールを投げてみたくて仕方がない。外野手だった経験があるなら、あの送球を見れば誰だってそう感じるはずだ。

「葵。野球道具、持ってきてるやんな。キャッチボールせえへんか」

 野球をやりたくない人間が、野球道具を持ってくるはずがない。葵は薄笑いを浮かべた。

「おじさんと?」

「バカにしてるやろ。キャッチボールくらいできるわ」

 葵は肩を回してみせた。

「あたし、かなり久しぶりだよ。ちょっと待ってて」

 いったん自分の部屋に引っ込んだ葵は、グラブと硬球を持っていた。幸彦も押入れにしまいこんでいた自前のグラブを引っ張り出した。

 器具庫の横は、器具の手入れや洗浄をするため空き地になっている。スニーカーを履いた幸彦は、さりげなく器具庫を背にして立った。「ここにしよか」

「おじさん、ずるい。受け損ねても壁が防いでくれるじゃん」

「これくらいのハンデ、許してや」

「キャッチボールにハンデなんかいらないでしょ」

 そう言いつつ、葵は畑を背にして幸彦と向かい合った。太陽は二人の真横から光線を浴びせている。

「いくよー」

 葵が投じたボールは、まっすぐ胸の前に飛んできた。無事にキャッチし、今度は葵に投げ返す。胸元に向かって投げたつもりが、ボールは膝まで落ちた。葵はすくいあげるように、難なく捕球する。

「キャッチボールは、相手が取りやすいようにねー」

 言いながら葵が放ったボールは、正確に同じ軌跡を描く。

「わかっとるわ」

 肩に力が入ったせいか、今度はすっぽ抜けた。葵は反射的に跳び上がり、頭上を越えようとした白球をキャッチした。おお、と思わず感嘆の声が漏れる。

「本当に外野うまかったの?」

「昔の話や。現役やったん、もう十何年も前やで」

 何度か投げているうちに感覚を取り戻し、狙った位置に投げられるようになってきた。葵も単調さに飽きてきたのか、さらに遠くへ駆けて行った。「この距離でやろ」

「遠すぎへんか」

「外野とホームベースよりは近いでしょ」

 遠ざかると、また幸彦のボールは見当はずれの方向へ飛んでいく。

「へたくそー」

 葵は捕球してすぐに投げ返してくる。繰り返すほど、送球の勢いが強くなる。幸彦がキャッチしようとしたボールは、いったんグラブに収まってから、勢いあまって地面に落ちた。左の手のひらがひりひりと痛む。

「そろそろ勘弁してくれや」

「もうちょい」

 葵は表情を変えない。捕球しては投げ、捕球しては投げる。そういえば、葵も打撃より守備が得意なタイプだった。もう何十回目かわからないスローイングをしながら、葵は尋ねた。

「このへんに野球できるところないの?」

 幸彦は捕球に精一杯で、葵の言葉を聞き取れなかった。「なに?」

「野球チームあるか、って聞いてんの」

「チームか。俺が入ってたチームやったらあるけど」

 小学四年生で入団した少年野球チームは、県内ではそれなりに有名だった。レギュラークラスの選手は複数の強豪から誘いがくるし、県外への野球留学も珍しくない。もっとも、幸彦にはどこからも勧誘はなかった。

「そこ、部外者でも練習に参加できたりする?」

「頼んでみよか。知り合いおるから」

 高校の後輩がコーチをやっている。たまに高校の仲間で集まる時、必ずその後輩とは顔を合わせていた。頼めば、練習への参加くらい許可してくれるだろう。

「行ってみようかな」

 葵のつぶやきを、幸彦は聞き逃さなかった。

「行ってみたらええ。俺から連絡しとくから」

 思っていた通り、葵は野球への熱意は失っていない。佐織がやめさせようとしても、葵は抵抗するだろう。こじれた人間関係さえ解消すれば、葵は元気を取り戻すはずだ。

 葵は投手のように大きくふりかぶってから、左足を上げてタメをつくった。

「あんまり速いと俺が取れへんぞ」

 幸彦の訴えは遅かった。少女の右腕から放られた矢のような直球に、ぎりぎりでグラブを合わせた。牛革に硬球が衝突し、破裂したような音を響かせた。

「そろそろ病院行った方がいいんじゃないの」

 ようやく気が済んだのか、葵はグラブをはめた左手をだらりと下げて歩いてきた。幸彦はボールを葵に投げ返した。

「明日手術なんでしょ。おばあちゃん、寂しいと思うよ」

「そうやな」

「あ、その前にシャワー浴びてくる」

 幸彦は縁側から家に上がり、まだ居間でテレビを見ている達男に声をかけた。

「父ちゃん。もうちょっとしたら、病院行けるか」

 達男はゆっくりと振り向いた。「おう、病院か。行くか」

「さっきまで葵とキャッチボールしとったんやけどな」

「野球やめたんちゃうんか」

「いや。むしろ練習したいって言うてたで。今度、連れてったるって約束したわ」

「そうか。そらよかった」

 大きく伸びをして、達男は居間から出ていった。

 テレビ画面は、母校が優勝した瞬間の映像を繰り返し流していた。マウンドに集った選手たちは皆、人差し指を空に向かって突き立てている。

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