第五章

 担当医はデスクの隅にあった、爪の先よりも小さい金属の筒を取り上げた。細い針金を組み合わせた、バネのような代物だった。

「ステントです」

 達男が顔を近づけると、医師はステントを手渡した。手のひらの上に乗せ、しげしげと見つめる。

「これが、血管の中に入るんですか」

「そうですよ。思っていたよりも太いんじゃないですか」

 幸彦は膝の上で拳を握りしめた。高齢の母が手術に耐えられるか、不安で仕方なかった。

「危険な手術になるんですか」

「百パーセント成功する手術はありません。ただ、成功率は高い部類です」

 担当医の引き締まった表情は、誠意を感じさせる。幸彦はひとまず、まともな医師が担当についた幸運を喜んだ。それでも、必ずうまくいくとは限らない。はっきりしているのは、我が家の人手不足がしばらく続くということだけだった。

 病室では葵と登世子がテレビを見ていた。画面の中では高校球児がボールを追っている。先に歩いていた達男が声をかけた。父が登世子の見舞いに来るのは初めてだった。

「加減はどないや」

 登世子は入院初日より、さらに小さくなったような気がした。ただし口数は変わらない。

「どないってことないわ、あれから何回か発作来たけど、もらった薬なめたらすっと鎮まるし、薬あったら何とかなりそうや」

「薬って、なめるんか」

「そうやで。ベロの下に入れるんや」

 登世子は口を開け、舌を上顎にくっつけてみせた。テレビのステレオから歓声が上がり、達男の視線はそちらに引きつけられる。

「試合、どうなってる」

「八回裏。市和商が四点リードしてるわ」

「ああ、こらもう決まったな」

 投手の放ったストレートが時速148キロと表示され、夫婦は揃って「おお」と声をあげた。自宅の居間で観戦しているのと変わらない。

 丸椅子に腰をおろした葵は、居所がなさそうに肩を縮めている。

「どうや。試合見てたらやりたくならんか」

 幸彦は軽い調子で声をかけたが、葵は頑なに首を横に振った。両目の間に垂らした前髪からは、野球少女の面影は感じられない。送られてきたバットやグラブは、葵が来てからまだ一度も見ていなかった。

 帰り道でスーパーに寄った。達男はハリアーから降りてこなかったが、葵は祖父と二人きりになるのが気詰まりなのか、幸彦についてきた。刺身を物色していると、葵は無言で菓子パンを三つ、カートのカゴに入れた。

「なんやこれ」

「朝ごはん」

 和彦からは、滞在費として五万円受け取っていた。実質かかるのは食費くらいだが、葵の世話料が含まれていると思えば安すぎるくらいだった。

「こんなもん、食うんやめとけ」

「いいじゃん、これくらい。お金もらってるんでしょ」

「金の話ちゃうねん。菓子パンばっかり食ってたら太るぞ。ただでさえ動いてへんねんから。普通の食パンにしとけ」

 不満げに鼻から息を吐きながら、葵はカゴから菓子パンを回収した。渋々とは言え、指示に従うあたりは素直さが残っている証拠だろう。せめてもの反抗心の現れか、代わりに持ってきた食パンは一斤三百円もする高級品だった。

 帰宅すると、達男はさっそくテレビをつけた。

「やっぱり市和商勝っとるわ」

 嬉々として、トーナメント表に結果を書きこんでいる。幸彦と達男の母校は準々決勝まで進出している。智辧や市和商とは逆の山や、と言って喜んでいる。

 幸彦は縁側から畑を眺めて、溜め息を吐いた。一週間前に刈った雑草が、もう膝まで伸びていた。摘果しなければならない木も、まだ数多く残っている。野菜の納品もしなければならない。登世子がいてようやく成り立っていた畑を、幸彦一人で維持できるわけがなかった。

 浴室の方から、洗濯機のドラムが回転する音が聞こえた。浴室から居間を横切って自室に歩いている葵を、幸彦は呼びとめた。

「なあ、葵。自分の服洗濯するんやったら、ついでに俺とかおじいちゃんの分も洗ってくれへんか」

 葵は叔父を一瞥しただけで、すぐに歩き去った。

「ほんまに困ってるねんて」

 背中に声をかけたが、葵は歩みを止めない。案の定、洗濯カゴには幸彦のTシャツや達男の股引きが詰めこまれたままだった。ブラスバンドが奏でる〈宇宙戦艦ヤマト〉のテーマが、かすかに居間のテレビから聞こえてきた。


 薄闇の中で、坂道の左手に並ぶ電照菊のハウスは煌々と光っていた。天井から無数の蛍光灯が吊るされたハウスの内部は、昼より明るい。

 坂を登りきり、西尾邸の裏手にハリアーを停めた。すでに見覚えのある車が何台か先着している。西尾のご機嫌をとるために早出した連中だろう。裏門のインターホンを押すと、圭太の妻が出てきて、ネイルアートの施された指で鍵を開けた。

「どうぞ」薄黄色の白熱灯に照らされた顔は無表情だった。若いが、茶色に染めた髪はつやを失っている。愛想は働いていたキャバクラに置いてきたようだった。

 三和土に揃えられた靴の数を見て、少し早く来すぎた、と後悔した。台所を横目に廊下を歩いていく。右手の客間から西尾の笑い声が聞こえてきた。深呼吸をしてから、下座の襖を開けた。「こんばんは」

 二十畳あまりの細長い和室には、西尾のほか、五人ばかりの組合員がテーブルを囲んでいた。彼らはみな、西尾のすぐそばに座っている。なごやかに談笑していた組合員たちの視線が、一斉に幸彦に刺さる。

 月に一度の会合では、表向き、到着した者から上座に腰をおろすことになっていた。しかし実際には年齢や営農期間の長さ、組合員としての貢献度などから、座の順列は暗黙の了解として決まっている。就農してから五年しか経っていない幸彦は、組合の創設メンバーである達男の息子とはいえ、順列は限りなく末席に近い。

 幸彦が下座に腰をおろそうとすると、西尾が声をかけた。

「なんでそんなとこに座るんや。こっち来んかい」

「いや、私みたいなんはここで十分です」

「何言うとんねん。みんな組合員やろが。それに、間が空いとったら寂しいやろ」

 西尾の言うことには反対できない。仕方なく、幸彦は上座に詰めた。玉置は真っ黒に日焼けした顔で無関心を装っている。幸彦と同じみかん農家の玉置は、西尾のすぐそばに陣取っていた。

 後からやってきた組合員は、幸彦が上座に近いことに仰天していた。隣に座った山椒農家の主人が声をひそめて尋ねた。「なんでこんなとこ座ってんねん」

「西尾さんにここ座れって。早く来すぎたんですわ」

「なんや、そんなことか。てっきりお気に入りに昇格したかと思ったわ」

 主人は、西尾と談笑している玉置の横顔に視線を送った。視線の行き先に気づいた幸彦はさらに声を低くした。

「お気に入りは一人で十分や」

 玉置は西尾や達男と同じく、ファームくろしおの創設メンバーだった。組合ができたばかりの頃、最年少で農地も広くなかった玉置はずいぶん肩身の狭い思いをしたらしい。幸彦は父から何度も、同じ話を聞かされていた。

「今はまだましやけど、若い時のあいつは農業が下手やった。黒点にやられて全滅した年も何回かあって、そういう時は西尾さんが生活費を融通してやってた。昔から、農業やるより人に媚びるんが上手なやつや」

 玉置の話をする時、達男は決まって苦いものを食べたように顔をしかめる。農業の下手な玉置を、間接的に食わせてやっていたという自負があるらしい。一方、玉置にすれば恩義があるのは西尾だけで、達男は単なる商売敵と考えている節があった。

 西尾と玉置の会話は弾んでいる。西尾は身を乗り出し、玉置の話に相槌を打っていた。幸彦は耳を傾けてみたが、西尾が甲高い声で、へえ、とか、ほう、と言うのが聞こえるだけで、話の内容まで聞き取ることはできなかった。

 およそ二十名の組合員の中で、事務担当の圭太を除けば幸彦は最年少だった。三十代の男でさえ他にはいない。全員が揃ったタイミングで、上座の襖を開けて圭太の妻がふたたび登場した。ふてくされた表情で、両手で大きなカゴを抱えている。嫌々やらされているのが手に取るようにわかる。カゴには握りこぶしよりも大きな黄色い果実が乗っていた。

 西尾が末席まで聞こえるような大声で話した。

「今年もうちの畑でようけオレンジがとれました。帰りがけにお配りするんで、持って帰ってください。皆さんには特にええやつ選り分けてるんで、いい具合まで熟したらご家族と楽しんでください」

 誰からともなく拍手が巻き起こる。七月の会合では、毎年必ず西尾家で栽培しているバレンシアオレンジが配られる。スプレー菊と並んで、西尾の主力作物だった。

 紹介が済むと、カゴを持っていた圭太の妻はぞんざいに礼をして部屋から退出した。オレンジを見せびらかすためだけに登場させたらしい。妻と入れ替わるように、書類を抱えて入室した圭太が父の隣に座った。肉づきのいい父子が並んで座ると、布袋様の像が二つ並んでいるようだった。

「みなさんお揃いでしたら、七月の定例会、はじめましょか」

 西尾が言うと、賑わっていた一座が静まりかえった。二十年もの間、組合長として地域をまとめてきた西尾には、修羅場をくぐってきた者特有の凄みが備わっている。

「ほな、まず先月の売り上げ報告から」

「回してもらえますか」圭太が紙束を玉置に渡した。A3判の紙にびっしりと数字が印刷されている。全員が一枚ずつ資料を手にしたところで、圭太が切り出した。

「えーっと、全体の売上から説明さしてもらうと、対五月比で約四パーセント増。これは例年通りです。ピークはいつも夏場にくるんで、今月もさらに伸びると思います。一番数が出てるんはお試しセット。単品やとビワがめちゃくちゃ出てます」

 誰もが密かに、ビワ農家の倅へ視線を送った。倅と言っても四十代なかばだが、この中では若い方だ。平常心を装っているが、内心は得意満面のはずだった。

「テレビで特集した影響でしょうね」

「そうみたいやね。俺も録画で見してもらったけど、アンチエイジングとか、ええことばっかり言うとったわ。ビワが特集されることなんてそうないし、たまにはええかもな」

 油断したのか、上機嫌が態度に出た。皮算用をしているのかもしれない。

 ファームくろしおの売り上げは、利益への貢献度に応じて毎月組合員へ分配される。単品ならその利益のすべてに、八点セットならその利益の八分の一に貢献したとみなされる。そして西尾や圭太の取り分については、組合員の誰も知らない。

 みかんの売り上げは五月よりさらに減少している。満田家にとっては野菜が命綱だった。それもよく売れるのはセット販売のため、貢献度は低いとみなされる。

「先月も社長が言ってましたけど、夏にみかんが売れなくなるんはしょうがないことです。苦しいとは思いますけど」

 今度は玉置と幸彦に視線が集まった。玉置が真っ先に口を開く。

「うちとこは何とでもなりますよ。夏もハウスのみかんがあるし、ピーマンやらナスもそれなりにやってるんでね。でも満田さんとこは厳しいんとちゃう。お母さんも入院しはったんやろ」

 幸彦は曖昧にうなずいた。「まあ」

「達男さんも身体いわしてもうてるし、幸彦だけやと作業も追いつかんやろ」

「そんなことないですよ」

「悪いこと言わんから、生産量落とし。うちがカバーしたるから」

 一座の全員が幸彦に注目した。腕を組んだ西尾は黙って成り行きを見守っている。

幸彦は唾を呑み、渇いた喉を湿らせた。玉置の言いなりになってはいけない。とっさに浮かんだのは葵の存在だった。

「実は今、姪が遊びに来てまして。母が入院してる間は姪に手伝ってもらうんで何とかなりそうです」

 即座に玉置が噛みついた。「姪って、どこから来たんや」

「東京です」

「ああ、和彦の娘か。まだ十代やろ。東京から来た娘が農作業なんかできるわけない。しかも有機やぞ」

「単純作業なら大丈夫ですわ」

「今時の十代なんか、すぐへばってまうで」

「野球やってるんで、体力はあると思いますわ」

「女の子が野球やっとるんか」口を挟んだのは西尾だった。

「ええ、小学校から。女子野球の名門校でショートやってます。もしかして、今まで話したことなかったですか」

「知らんかったわ。そうか、和彦の娘は野球やっとんのか」

「野球ならうちの息子もやっとるけどな」玉置がぼやいた。

 西尾や組合員の見る目が変化したのがわかった。ファームくろしおでは、ほとんどの組合員が高校野球ファンである。西尾や玉置も例外ではない。

「父も選別くらいは手伝ってくれますし。とりあえず据え置きでお願いできますか」

 玉置はつまらなそうにそっぽを向いている。座が静まり、皆が西尾の発言を待った。

「まあええやろ。また何かあったら相談しい」

「ありがとうございます」

 定例会で西尾の了解を取れば、そう簡単には覆らない。喧嘩をふっかけてきた玉置に感謝したい気分だった。

 しかし喜びは数分と続かなかった。昨年と同じ生産量をどう確保するか、という問題は解決していない。約束通りに納められなければ信用を失う羽目になる。引きこもりの葵が使い物にならない以上、一人でどうにかするしかない。

 器具庫に押しこんだボトルのことが頭をよぎった。散布すれば雑草は枯れ、しばらく生えてこない。大滝はそう言っていた。それが本当なら、夏場の草刈りは必要なくなる。一日につき数時間が、そっくりそのまま別の仕事に使える。それだけでも登世子の分の労働力をフォローできそうだった。

 ずっと考えごとをしていたせいで、その後の圭太の話は耳に入らなかった。気づけば、定例会は西尾の総括に入っていた。

「この数年でやっと冬場のみかんに頼らん経営ができとる。それが続くかどうかは、夏場次第や。うちのオレンジも少しは貢献できると思う。頑張っていこ」

 玉置が率先して手を叩き、室内が拍手に包まれた。閉会の合図だった。圭太が襖を開け、台所に向かって叫んだ。

「おーい、宴会の準備してくれ」

 定例会後の宴会も、毎月の儀式だった。何人かの組合員が西尾にオレンジの礼を言って、席を立った。幸彦もその流れで席を立とうとしたが、西尾に引きとめられた。

「幸彦、帰るんか」

「ちょっと、この後やらなあかんことがあるんで」

「なんや。今日やらなあかんのか」

 無駄と知りつつ、幸彦は抵抗した。「車で来ましたし」

「誰かに送らせる。先月も来てへんやろ。今日は飲んでいけ」

「じゃあ、いただきます」

 観念した幸彦は座敷に腰を下ろした。西尾家の妻女がグラスや瓶ビール、オードブルをせっせと運んでいる。定例会後の宴会で手料理を食べたことはない。

 残った半分ほどの組合員は上座に詰めて座り、ビールを注ぎ合う。西尾が乾杯の音頭を取り、宴会がはじまった。

 幸彦はフライドチキンを食べながら、山椒農家の主人とぼそぼそ話していた。おもむろに、西尾が全員に聞こえるような声を張り上げた。

「おい、玉置んとこの三男、レギュラーらしいぞ」

 山椒農家が気のない相槌を打った。「そらすごい」

 和彦や幸彦と同じように、玉置の息子たちは全員が親から野球をやらされている。高校三年生の三男は、幸彦の母校に通っている。甲子園まで行ったことは数えるほどしかないが、今年は粒が揃っているという評判だった。

「ポジションどこやっけ」

「外野です。元のレギュラーが怪我したんで、運よくベンチから昇格さしてもろうて」

「三回戦はどうやったんや」

「四打数一安打でした。まあ打つ方よりも守備が得意なんで、そっちで頑張ってるみたいですけど」

 自慢げな玉置の笑顔は、あからさまに幸彦を見下していた。外野手の幸彦が、高校時代に一度もレギュラーをつかめなかったことを知っているのだ。二十年も前のことを引き合いに出す玉置に、幸彦は呆れた。黙って鶏肉を噛みちぎる。

「もう応援には行ったんか」

「いや、まだ」

「行ったらな。せっかくの檜舞台やろ。俺なんか応援に行きたくても行けんかったわ。こいつがもっと活躍してくれればよかったんやけどな」

 西尾が圭太の贅肉に覆われた背中を叩いた。当の圭太は照れ笑いを浮かべてビールを飲んでいる。圭太は隣市の進学校で野球をしていたが、三年間で一勝もできなかった。身体が大きいから、というだけの理由で圭太に捕手をやらせるような野球部だった。

「あと何回勝ったら決勝や?」

「二回です」

「よし、決勝までいったらみんなで紀三井寺に応援行こか。マイクロバス呼ぶわ」

「はじまったで」山椒農家の耳打ちに、幸彦はうなずいた。

 玉置は愛想をふりまいている。「ほんまですか。ええんかな、お忙しいのに」

「ええねん、これも道楽や。後のことは圭太に任せたらええ。なあみんな、都合合うんやったら、応援行こうやないか。もちろん決勝まで勝ったらやけどな」

 調子のいい数人の組合員が賛同した。「それ、ええ案ですわ」

「そうやろ。去年は球場行けんかったから、野球欲が溜まっとんねん。そうや、もし優勝したら甲子園まで応援に行こう。決まりや」

 西尾はビール数杯で、早くも顔を赤らめていた。「焼酎くれ」

 圭太が新しいグラスに焼酎を注いでやると、西尾はそれを一気に半分ほど空けた。

 唐突に、玉置はビワ農家の倅の名を挙げた。彼は用事があるからと帰宅していた。

「あいつ先月も来んかったやろ。えらい付き合い悪いな」

「いきっとるねん。夏に強いから。夏場のくろしおはビワで持っとるって、思いあがっとるんや」

「今日もえらい調子乗っとったな。アンチエイジングがどうこうって。やかましいわ。自分が何かしたわけでもないくせに」

 欠席者の陰口を叩くのも儀式のようなものだった。幸彦は巻きこまれないよう、できるだけおとなしくしていた。

 西尾も話を避けるように酒を飲んでいる。西尾は儲けを生み出す者には寛容であり、利益に貢献できない農家には冷淡になる。その冷徹さがファームくろしおをここまで存続させた。それがわかっているから、玉置たちも西尾には話を振らない。

 幸彦が腰を浮かせると、西尾が声をかけた。「便所か」

「はあ、まあ」

「俺も行くわ」

 悪口に夢中の玉置たちを尻目に、西尾は席を立った。

 並んで小用を終えると、西尾は手を洗いながら言った。「ちょっとええか」

 幸彦は裏口から出た西尾についていった。トイレについてきた時点で、何か話があるのだろうと察しはついていた。西尾は煙草をくわえ、漏れる明かりを頼りに火をつけた。上空には、東京とは比較にならないほど多くの星が瞬いている。

「やっぱり水入りが悪いと思うねん」

 煙を吐き出し、西尾は続けた。

「実がスカスカやし、酸味も強い。あれじゃあ売り物にはならんで」

「……うちのみかんのことですか」

 返事の代わりに、西尾はまた煙を吐いた。

「達男さんにはさんざん世話んなった。くろしおがここまで続けられたのも、達男さんのおかげやと思ってる。実際、販売するかは別問題として、今年は去年と同じだけ納めてもらうわ。でも来年からはそれなりに数を減らしてもらう」

「もう決まりですか」

「決まりや」

 煙草の先から立ち上っていく煙は、星空に広がって消えた。夜空にちりばめられた無数の星が、豊穣なみかん畑を連想させた。

「うちの分は玉置さんが持つことになるんですか」

「他に頼める農家がない」

「まだ早いでしょう。今年の収穫を見てからでも」

「来年の準備は今のうちからせなあかん。お前も農家の端くれやったらわかるやろ」

 西尾は赤く燃える煙草の先端を幸彦に突きつけた。

「売り物になるみかん持ってこい」

 地面の上に落とした吸殻を、西尾はサンダルで踏みつけた。煙草は燃え尽きた瞬間にゴミとなり、足の裏で踏み付けられる。生き残るには、限界を超えても燃え続けるしかない。たとえ真っ当な方法でなくとも、ゴミになるわけにはいかなかった。

「もう帰ってええで」

 西尾は裏門から屋内へ戻った。

 頭上を見ると、星空が東からの雲に少しずつ覆われていた。


 雨ガッパに袖を通した時、上から二つ目のスナップボタンが壊れていることを思い出した。安物だから買い直せばいいと思いつつ、いつも忘れてしまう。壊れたボタンの上からガムテープを貼り、応急処置を施した。

 防護メガネ越しに、ゴザの後ろから引き出した紙袋を見た。ゴム手袋をはめた手で紙袋の中のボトルをつかみ、器具庫を出る。

 目の前には早朝の畑が広がっている。下草についた朝露が、日を浴びてまぶしく照り輝いている。空の端には朝焼けの気配が残っていた。葵はもちろん、達男もまだ起きていない。こんなに早起きをするのは久しぶりだった。

 大型のバケツにボトルの中身を半分ほどあけた。薄黄色い液体が吐き出され、バケツの底に水たまりをつくる。肉が腐ったような匂いがした。器具庫の横の蛇口をひねり、水道口につないだホースを通して少しずつ水を入れていく。八分目まで水を入れ、プロペラのついた攪拌棒でかき混ぜる。水で希釈され、液体は無色透明に変わった。

 器具庫の裏手で物音がした。心臓が高鳴る。急いで裏手に走った。人影はない。いるのは、戸板の上で遊んでいる猫だけだった。

 安堵すると同時に、自分が禁忌を犯そうとしていることを改めて思い知った。父が二十年間続けてきた有機農法を終わらせ、未認可の農薬を使おうとしている。幸彦はためらいそうになる心を奮い立たせ、ふたたびバケツの液体をかき混ぜた。

 噴霧器には車輪がついている。タンクに液体を注ぎ、噴霧器を引いて畑の奥まで歩いた。家の近くでは、達男や近所の住人に悟られる恐れがある。そこだけ綺麗に除草されていれば、誰だって怪しむだろう。

 とりわけ高い木の前で、幸彦は立ち止まった。雑草が生い茂り、間引きされていない木々には過剰に実がなっている。下の方についた実は丈の高い草にすっかり隠れていた。このまま放置すれば、確実にダメになる。幸彦は真っ白な心で電源を入れた。

 エンジン音がうなり、わずかな時間差とともに希釈された除草剤が噴き出された。下草に弾かれた除草剤は土の中へ染みこんでいく。あたりに腐敗臭のような匂いが漂う。絶対に安全だという大滝の言葉を、何度も反芻していた。

 幸彦は畑の奥に向かって歩きながら、除草剤を撒き散らした。できるだけ雑草の密集した場所を狙って散布すれば、少しは罪の意識が軽くなる気がした。

 ノズルから噴霧される勢いが弱まり、やがて滴が垂れるだけになった。幸彦は噴霧器の電源を切り、空になったタンクを引いて元来た道をふたたび歩いた。太陽はまだ東の空にいた。器具庫を離れて十数分しか経っていないのに、ずいぶん長い間、畑の中をさまよったような気がした。

 去り際に、除草剤を散布したあたりを横目で見た。目障りなメヒシバの葉が、今までと変わりなく密集している。水滴をつけたエノコログサの穂が風にそよいだ。

 家に戻った幸彦は、衣服を洗濯機に突っ込み、手指に石けんをこすりつけた。全身に染みついた匂いを取り除くように、爪の間まで念入りに洗った。

 朝食のアジを焼きながら、考えるのはやはりあの除草剤のことだった。罪悪感に押しつぶされそうになるたび、幸彦は玉置や西尾の顔を思い出した。やつらに嫌でも認めさせるようなみかんを作らなければならない。それが無理なら、農家を廃業するしかない。片手鍋の水面に映った自分の顔を見つめているうち、小さな泡が浮きあがり、水面が沸き立った。粉末だしと豆腐を入れ、味噌を溶かしこむ。

 起き出してきた達男は、台所に来て幸彦の手元をのぞきこんだ。

「珍しいな。今日は朝から魚焼いてんのか。味噌汁もある」

「早く起きたから」

 父の顔を見ることができず、幸彦は味噌汁をかき混ぜていた。達男は息子の顔色の悪さを、二日酔いのせいだと考えた。

「えらい疲れてんな。昨日飲み過ぎたか」

「ちょっとな」

 達男が新聞を取りに行くと、肩の力が抜けた。喉はからからに渇いていた。

 ダイニングテーブルに差し向かいで朝食を食べた。達男は味噌汁をすすりながら、朝刊を眺めている。テレビで全試合観戦しているにも関わらず、スポーツ欄で高校野球の結果を確認するのが日課だった。

「昨日の寄り合いはどうやった」

「別に。ビワが調子ええとか、そんな話やった」

「夏場しか売れんからな、あれは。それだけか」

 闇夜で光る煙草の火を思い出した。西尾からの宣告を、そのまま伝えるわけにはいかない。除草剤の力を借りれば、まだ挽回の余地はあるはずだった。

「玉置さんの息子、野球やったあるん知ってるやろ」

「ああ、外野やろ。前の試合も出とったわ」

「えらい自慢してたわ。西尾さんも機嫌よくて、決勝に行ったら紀三井寺までマイクロバスで応援に行ったるとか言うてたわ」

 達男は皺だらけの顔に苦笑いを浮かべた。苦笑いとはいえ、父の笑顔を見るのは久しぶりだった。

「同じこと、お前が高校生の時も言うてたな」

 幸彦は一度もレギュラーになれなかったし、チームは三年間で決勝どころか準々決勝にも進めなかった。西尾はもちろん、家族の姿を球場で見たことは一度もない。

「西尾さんも野球好きやからな」

 椀の底にへばりついた豆腐を箸でかき取り、達男は朝刊を手に席を立った。

 居間のテレビの電源が入れられ、情報番組が映し出された。今日の第一試合までまだ少し時間がある。幸彦は達男の食器を流しに運んだ。皿の上には、綺麗に身が除かれたアジの骨だけが残されていた。

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