第四章

 その朝はアラームより先に目が覚めた。午前五時の日差しがレースカーテン越しに室内へ差しこむ。関東から実家に戻って以来、幸彦は早起きを心がけていた。特に夏場の野外作業はできるだけ早朝のうちに済ませるようにしていた。会社勤めの頃よりもずっと規則正しく、健康的な生活を送っている。農作業で身体は十分すぎるほど動かしているし、外食もほとんどしない。

 汗にまみれたTシャツを脱ごうとして、思いとどまった。三日前にやってきた居候の存在を思い出したのだ。半裸で家の中をうろつくのはまずい。

 兄夫婦が去った後、幸彦は夕食の席で葵に言った。

「明日から、家事とかいろいろ手伝ってもらうから。料理とか洗濯、やったことあるか」

 葵は黙々とサバの塩焼きをほぐしていた。握り箸のせいか、小骨を取り除くのに苦戦している。それを見た達男が舌打ちをした。

「聞いてるか。お母さんの手伝い、したことあるんか」

「島流し」

 唐突なつぶやきの意味がわからず、幸彦は訊きかえした。「何て?」

「島流しだよ。あたしが陸の邪魔になるから、和歌山に流された」

 葵は語気を強め、不機嫌そうな表情で話した。反抗期特有のとげとげしい言葉遣いに、幸彦はある種の懐かしさを覚えた。質問の答えにはなっていないが、高校一年生の女子としては自然な反応だった。

「なんで家におるだけで邪魔になるねん」

「一緒なの、部屋が。あたしが部屋にいたら、陸の気が散るって」

「別の部屋行ったらええ」

「リビングとかキッチンにいたら、お母さんが話しかけてくる。ウザい。だからずっとトイレにこもってた」

 投げつけるように話すと、葵はまた黙った。

 姪の言葉の端々からは、甘えがにじみ出ている。頭を下げずに同情を求めてくるような態度は、若者にありがちな浅はかさを感じさせる。

「ほんで、家事はできるんか」

「できるわけないじゃん」噛みつくような言い方だった。先が思いやられる。

 脱衣所で長袖のタートルネックに着替え、誰もいない台所で食パンを焼いた。じりじりと焦がされていくパンの表面を眺めながら、幸彦は思案した。どうすれば、引きこもりの少女を労働力に変換できるか。父や兄に同調するのは癪だが、登世子が入院したことで人手が足りないのは事実だ。うまくおだてて、少しでも家事や畑仕事を手伝わせるしかない。肩代わりしてほしいことは山ほどある。

 テレビの天気予報では、終日快晴になるとキャスターが話していた。トーストとウインナーを胃袋に納めると、起き出した達男が台所に現れた。夏場は常に白のランニングに股引きという出で立ちだ。

「洗濯物、あふれてるで。お前、最近すぐにシャツ替えるやろ」

「夏なんやからしゃあないやろ。父ちゃん、そんぐらいできへんの。洗濯機に洗剤入れて、スイッチ押すだけやで」

「葵にやらせたらええ」

「それができたら苦労してへんわ」

 達男は石のように凍った冷や飯を電子レンジで温めた。おおげさな動作音とともに、ラップにくるまれた白飯がほどける。幸彦は冷蔵庫から梅干しと塩昆布を出してやった。これが最近の達男の朝食だった。

「たまには味噌汁くらい作ってくれんか」

「インスタントの味噌汁買ってきたろか」

「あかんわ、インスタントは。ガソリンみたいな匂いするからよ。飲まれへん」

 達男の減らず口を背中で聞きながら、幸彦は二リットルの水筒に水を注いだ。長靴をはいて表に出ると、日差しの厳しさに目を細めた。この時間、葵はまだ眠っているだろう。達男が言うには、昨日は正午近くに起きて、勝手にパンを食べていたらしい。台所へ行けば、朝から夜までテレビの前に張り付いている達男と必ず鉢合わせることになる。

 幸彦は早足で歩きながら、腰の高さまで伸びた雑草を刈って周った。刈払機がうなりを上げて回転する。今日は夕方から友人と会う予定がある。

 大滝と会うのは、昨年の後輩の結婚式以来だった。大学を卒業して十年以上経つが、仲間が揃うと今でも学生時代の気分がよみがえる。二次会が終わった後、会場の前で肩を組んで部歌を合唱した。大滝は相変わらずのポーカーフェイスだったが、現役時代に比べて脂肪のついた頬は懐かしさに緩んでいた。

 ドラフト指名に漏れた大滝は、意外にも大学院に進み、卒業してからは茨城の会社で農薬の研究開発をしている。就職してからも月に一度は会っていたし、幸彦が実家に戻ってからも、何度か和歌山駅で待ち合わせて飲んでいる。大滝が関西の試験農場へ出張するついでに、和歌山まで足を運ぶのだ。昨夜のメールでは、先週から試験農場に泊まりこんでいるということだった。

 いつもと違うのは、大滝が幸彦の実家に泊まりたいと言いだしたことだった。和歌山から実家の最寄り駅まで電車で三十分かかり、家は駅からも遠い。もっとも、幸彦が反対する理由はなかった。空いている部屋も客用の布団もあるので、泊める分には問題はないし、終電を気にせず飲めるのも好都合だった。

 天気予報の通り、空には雲一つない。容赦なく降り注ぐ熱線は、幸彦の体力を奪っていく。しきりに手を休めて水筒の水を飲むが、汗はとめどなく湧き出る。

 畑の木にはたわわに実がなっている。なりすぎている、と言った方が正しい。一本の木に実がつきすぎれば、それぞれの果実に行き渡る糖分は少なくなる。そのため間引きが必要だが、草刈りの片手間にできる作業ではない。

 迷った末に、幸彦は草刈りを途中で切り上げた。収穫量が少なくなったとしても、西尾の前で見栄を張った手前、果実の質を下げるわけにはいかない。刈払機を片づけ、摘果に集中することにした。

 日光が直射している果実は取り除き、下向きの果実を残す。コンテナにみかんが満たされた頃、腕時計は正午を示した。

 長時間立ち続けたせいで、膝や腰の筋肉がこわばっている。緑色の果皮や葉を見続けた目は疲労している。日焼けした首の後ろがひりひりと痛んだ。水筒の中身はとっくに空になっている。

 幸彦はあらためて畑を見渡した。伸びた雑草となりすぎた果実は、まだ数え切れないほど残っている。手入れの行き届かない畑はゆるやかに死んでいく。幸彦一人の力では、もはやどうしようもなかった。


 駅舎を背に、キャリーバッグを持ったスーツの男が立っていた。出張中のビジネスマンと一目でわかる。部活帰りの高校生たちが、無遠慮な視線を投げかけながら背後を通り過ぎた。

 夏の夕刻はまだ明るく、男の表情まではっきりとわかった。遠くを見つめる一重の目は、マウンドで打者に向けたものと同じだった。幸彦はハリアーのハンドルを切り、男のすぐそばで停まった。

「おまたせ。荷物、トランクに乗せえや」

 大滝は車の後部に回りこみ、キャリーバッグをトランクに積みこんだ。助手席に座り、ドアを閉めたのを合図に幸彦はアクセルを踏んだ。

「久しぶりやな。去年の結婚式から一年くらい経ったか」

「十一月だったから、八ヶ月ぶりだな」

 助手席の大滝は銀縁のメガネを外し、ハンカチでレンズを拭いた。

「悪いな、急に。泊まりまで頼んで」

「うち、汚いけど勘弁してや」

「いいんだよ、別に。飲むだけだ」

「なんでうちに来たがったんや」

「帰る必要ないから楽だろ。和歌山に一泊だけホテル取るのも面倒だし。もしかして都合悪かったか」

「いや、別に」

 駅の近くのスーパーに寄って、酒や総菜を買った。達男と葵の夕食はもう済ませてある。大滝は焼酎をカゴに入れた。レジに並んでいる間、大滝がつぶやいた。

「なんか学生の宅飲みみたいだな」

「あの頃、毎日のように寮で飲んでたもんなあ」

 農大の野球部は全寮制だった。セレクション組もそうでない部員も、一つ屋根の下で生活を共にする。練習が終われば必ず毎日、誰かの部屋で酒盛りがはじまった。仲間と騒ぐのが好きな幸彦はよく参加していたが、大滝は先輩に呼ばれても断ることが多かった。それでも人間関係がこじれなかったのは、誰もが大滝の投手としての実力を認めていたからだった。

 ポリ袋を手に駐車場へ戻り、ふたたびハリアーを発進した。

「家には誰がいるんだ。両親か」

「父ちゃんと、姪」

「姪?」大滝は意外そうに目を見開いた。

「兄貴の娘。高校に入って、引きこもりになってもうたんやと。それでリハビリのために田舎暮らしをさせてやりたいとか言うて、うちに置いていったんや」

「いつからいるんだ」

「三日前。こいつがまた、何もせえへんねん。家事はできへん、農作業なんかもってのほか。そのくせ飯は人並みに食いよるし」

「大変だな」

「まあな」幸彦は葵に関する話を切り上げた。これ以上話すと愚痴が止まらなくなりそうだった。旧友に愚痴をこぼしても仕方がない。

 暮れなずむ紀伊水道を横目に見ながら、家路を走った。家に到着すると、大滝は感心するように言った。「でかい家だな」

「古いし、平屋やで。売ったら五百万にもならんわ」

 家の中は静かだった。達男も葵も、自分の部屋にいるらしい。玄関にはスニーカーや泥まみれの長靴が放置されているが、大滝を呼ぶだけなら気にならない。相手が女性ならともかく、古い友人に見栄を張っても仕方がない。

 大滝を物置代わりに使っていた部屋に通した。物置とはいえ、昨年末に掃除をしたおかげで八畳の半分以上は空いている。幸彦は買ってきた酒を冷蔵庫にしまい、総菜をパックのまま電子レンジで温めた。宴会の準備は五分で終わった。

 台所に現れた大滝はワイシャツにスラックスのままだった。

「俺の部屋着、貸そか」

「いや、いい」大滝は遠慮がちに椅子に座った。

 プルトップを開け、缶ビールで乾杯をした。冷えたビールが喉にしみ、うめき声が出た。タレをかけた餃子を割り箸でつまみ、口に運ぶ。塩気がさらにビールを呼ぶ。

「関東の奴らと会ったりしてるん」

「会わないな。結婚式から誰とも会ってない」

「同期とも? 岸田とか、会社秋葉原やろ。茨城から近いんちゃうん」

「仕事も忙しいし、土日は家のことあるからな。上の子供がサッカーはじめて。送り迎えの担当なんだ」

 小学一年生の息子について話す大滝の表情は穏やかだった。現役の頃、特に大学最後の一年間に見せていた厳しい目つきは、すっかり影を潜めている。それは大滝が父になった証拠であり、野心を失った証拠でもあるような気がした。

 小皿の醤油に、二割引きになっていたマグロの刺身をひたした。解凍の仕方がまずかったのか、刺身の表面に水分が浮いている。冷凍ものだと一目でわかった。

「満田はこっちで野球やってんのか」

「全然。忙しくてそれどころちゃうわ」

 淡々と箸を動かす大滝の表情をうかがいながら、幸彦は思い切って尋ねた。

「そっちは、もうやらんのか」

「何を」

 短い沈黙を挟んで答えた。「野球」

「やらないよ」迷う余地もなかった。

 大学四年間、大滝のもとに訪れたスカウトはプロ球団だけではなかった。いくつかの実業団から誘いを受けていたし、独立リーグという選択肢もあった。しかし大滝はそのすべてを断り、大学院に選んだ。野球部員との付き合いは続けていたが、野球そのものとの関わりを意図的に断っているように、幸彦には思えた。

 あの神宮球場での失策が大滝の人生を狂わせたのかもしれないという思いは、まだ消えていない。別の話題を振ろうとした幸彦に大滝が言った。

「大学四年のリーグ最終戦、覚えてるか」

 その一言で、身体の芯が冷えるような感覚に襲われた。顔色の変わった幸彦に構わず、大滝は淡々と語った。

「神宮でさ、あの日は快晴だった。朝起きて、これで中止はなさそうだ、ってほっとしたの覚えてるよ。スカウトが見に来るの、知ってたんだ。コンディションの調整もうまくいってたし、これで最後の公式戦でいい試合見せられるって。上位候補ならともかく、俺は当落線上だったから」

 ビールで喉を湿らせ、ようやく幸彦は答えた。「覚えてるよ」

 卒業してから何度も飲んでいるが、大滝の方からあの試合の話を持ち出すのは初めてだった。大滝の真意を見通すことができない。目の前の友人の本音がわからない。しかしそれは、今にはじまったことではなかった。

「あの日はフォークがよかったんだ。一回にソロ打たれて、それでスライダーは捨てた。それがよかった。スカウトにも球種豊富なピッチャーって印象が残るだろ」

「それくらい、スカウトも最初から知ってたやろ」

「違うな。使い物になるのはスライダーとカーブしかないと思われてた。だからフォークでカウント稼げるのを証明できたのはよかったんだ」

 大滝と繰り広げているのは、あまりに不毛な議論だった。目まいがしそうなのは、アルコールのせいではない。

「六回で二点取った時、勝ったと思った。後は実力を見せつけるだけだって。あの日は調子がよかった。ベンチから見ててもそう思っただろ」

 ああ、と幸彦は力なく答えた。冷凍マグロの水分のように、抑えていた感情が言葉の端々ににじみ出ていた。

「九回、外野守備が満田に変わって安心した。安心しきった。レフト方向なら絶対に取ってくれるからな。だって、満田が守備でミスするなんてありえないから」

「謝る。ほんまに悪いことしたと思ってる」

「別に責めてるわけじゃない。思い出話くらいさせてくれよ」

 大滝の口の端に笑みが浮かんだ。その笑みの不気味さに、幸彦は口をつぐんだ。

「忘れもしない、三人目の初球。ちょっとすっぽ抜けた感じがあった。でも高く打ち上がったのを見てほっとした。間違ってもスタンドには入らない。しかも打球がレフトに向かったから、これで終わったと思った。正直、後輩へのスピーチまで考えてた」

「風が」

 思わず、幸彦は口にしていた。

「……風が何だ」

「あの時、上の方で風が吹いたんや。それで打球が失速して、落下点に届かんかった」

 幸彦は顔の前で手を振った。「いや、ごめん、言い訳や。忘れてくれ」

 缶に口をつけたが、飲んでも飲んでも喉の渇きは収まらなかった。新しい缶のプルトップを引くと、泡があふれ出た。大滝はポテトサラダを小皿にとって、箸先で突き崩していた。柔らかい塊は形を失い、泥のように皿の底にへばりついている。

 台所の小窓から見える畑は、暗闇に沈んでいた。その向こうには西尾のビニールハウスの明かりが見える。西尾は照明を利用して開花時期をずらし、一年を通してスプレー菊を出荷している。いわゆる電照菊だった。

 大滝は遠い目を小窓の奥へ向けて言った。

「風なんかなかった」

「えっ?」

「風なんか吹いてなかった」

 アルミ缶を握る手のひらが冷たい。気を抜くと椅子から滑り落ちそうだった。大滝は毅然とした態度を崩さない。

「あの日は無風だった。そよ風もなかった。間違いない」

 大滝は自信に満ちていた。

 幸彦の記憶の中では、上空を漂うボールは風に吹かれていた。確かなはずの記憶に、次第に靄がかかっていく。あの時のエラーは、単純に落下点を見誤ったことが原因なのか。大滝が嘘をついている様子はない。聞かなければよかった、と心底思った。

「まあどの道、俺にはプロは無理だった。あれくらいで崩れるようなメンタルじゃ、通用しない。むしろ目が覚めてよかったよ」

 大滝はポテトサラダを集めてすくい上げた。箸の間からこぼれ落ちたジャガイモの残骸が、未練がましく皿に残っていた。

「野球選手より、会社員の方が向いてたんだ」

 立ち上がった大滝は左右を見渡した。「トイレ、どこ」

「廊下出て、突きあたり右」

 一人きりになった台所で、幸彦は蝉の声に包まれていた。一定のリズムを刻む鳴き声が、少しずつ幸彦を追い詰めていく。いつしか、幸彦は神宮球場の左翼を守っていた。高く上がった打球は幸彦の方へ近づいてくる。正確に落下点を捉えようと目を凝らした瞬間、水中で目を開いたように、淡い光が視界を覆う。

 あの日、風はなかった。失策は幸彦のミスに過ぎない。

 不穏な感覚が胃の底からこみあげてきた。大滝は目的のない行動をとらない。家に泊まりたいと言ったことも、あの試合のことを話したのも、何か意味があるはずだった。

 トイレから戻った大滝は、何事もなかったかのようにビールを飲んだ。

「変な話したな。忘れてくれ」

 返事の代わりに、幸彦は空き缶を握りつぶした。

「満田が就農してから、五年ちょっと経つか」

「……そんなもんやな」

「今でも有機農法にこだわってるのか」

「それが売りやから」

 幸彦は短い返事をしながら、大滝の言葉に潜んだ棘を注意深く探した。三本目の缶ビールを開けても、酔いが回る気配はない。

「有機農法なんて、農薬メーカーには都合悪いんやろな」

「そうでもない。うちは有機向けの農薬も作ってるから。ボルドーとか。それくらいは使ってるんだろ」

「使ってるよ。この間もサンソー液撒いたし。父親は反対しとるけどな」

 大滝は声をひそめた。

「お父さん、ヘルニアでまともに動けないんだろ。もう引退したようなもんじゃないのか」

「腰があかんくても、口は動くからな」

「じゃあ畑に出てるのは満田と母親だけか」

「母親も入院しとるから、今は俺一人やな」

 うなずきながら、大滝は足元に視線を送った。幸彦はその視線でようやく、大滝がトイレから戻ってくる時、紙袋を携えていたことに気づいた。

「そっちはまだ新しい農薬の開発してるんか」

 大滝は長らく、新規除草剤の開発プロジェクトで中核として働いていた。社外秘なのだろうが、幸彦はずっと前からそのことを知っている。頻繁に会っていた頃は、よく大滝の愚痴を聞いたものだった。有効成分の探索も、使用性の確保も、安全性データの取得もやらなければならない、と。身体がいくつあっても足りないほど多忙な仕事だった。

 待ち構えていたように、大滝は言った。「もう十年。それも来年で区切りがつく」

「発売するんか」

「来年春に。でもちょっと、困ったことがあってな」

 鋭い大滝の視線から逃れるように、幸彦は餃子の入っていたパックを捨てるふりをして、席を立った。

「果樹の圃場試験ができない」

 圃場試験という言葉の意味くらいは、幸彦にもわかる。実際の圃場を使って、薬効や薬害を調べる試験のことだ。種苗の営業をしていた時分、何度か試験中の圃場を見たこともある。大滝は平板な顔に嘆きを浮かべた。

「今までは協力農家に頼んでたんだけど、そこが廃業してね。うちの試験農場でもできるようにしたいけど、木が育つには時間がかかる。外注したり、圃場を借りるには時間も金もかかる」

 大滝の目的がようやく見えてきた。ぼんやりと浮かびあがった道筋は、幸彦にとって歓迎すべきものではない。

「予備データだけでいいんだ。社内の説得材料があればいい」

 そこで大滝は言葉を切り、幸彦の目を見た。

「もしかして、俺に言ってんのか」

「効き目は間違いない。撒けば二、三日で枯れるし、数ヶ月は草が生えてこない。それを観察するだけだ」

「うちの畑で圃場試験やれっていうんか。冗談やろ」

 有機JASでは除草剤は認可されていない。除草剤を使用する以上は、有機と謳うのはルール違反だ。大滝もそれは承知のはずだった。

「ちゃんとした書類にまとめる必要はない。たまに写真を撮って、俺が聞いたことに答えてくれるだけでいい。実際の農家の声が、一番強いんだ」

「勘弁してや」

 笑い飛ばそうとしたが、大滝は真顔だった。

「発売すらしてへん農薬なんか使えへんわ。ましてや、うちは有機やで」

「絶対に安全だ。有効成分は土壌微生物由来だ。遺伝子組み換えじゃない、自然の微生物だぞ。試験もできる限りのことはやった。あとは圃場だけなんだ。金はすぐには出せないけど、発売してしばらく経てば少しくらいは払える。有機JASも申請する」

 力をこめ、大滝は言った。「飲んだって大丈夫だ。何も起こらない」

 幸彦には信じられなかった。飲んで無事な農薬が存在するだろうか。殺鼠剤を口にして死んだゴンの姿が、目の前に浮かんだ。

「ばれるに決まってる」

「ばれない。だって、自然に存在する微生物から作ってるんだぞ。最初から自然にあったものと見分けがつかないだろう。誰にばれるんだ?」

「それでも除草剤は使われへん」

「……十年だ」大滝は低い声でうめいた。

「この開発に十年かかってる。そろそろ報われてもいいだろう。そう思わないか」

 幸彦は、見込み違いにようやく気づいた。大滝は野心を失ってなどいない。そうでなければ、これほどなりふり構わず頼みこんだりしない。

 大滝は小窓の向こうに広がる畑を見やった。

「有機だと、除草も大変だろう。マルチもやってないな。特にこの時期は辛いだろ」

 炎天下での草刈りの苦労が脳裏に浮かぶ。この季節、脱水症状を起こしてでも、草を刈り続けなければならない。幸彦をあざ笑うように、雑草は刈ったそばからまた次々に生えてくる。除草剤を使わない農家にとって、草刈りは永遠のいたちごっこだった。

 大滝は足元の紙袋からボトルを抜き出し、テーブルの上に置いた。半透明のボトルの中に、薄黄色の液体が入っている。ラベルはない。

「研究所から持ってきた。これをまずは二十倍に薄めて使ってくれ。効果がなければもっと濃くしてもいいけど、それで十分だと思う」

 幸彦の脳裏を、さまざまな計算が駆けめぐった。これを使ったところで、大滝の言う通り、誰かにばれる可能性は低いように思えた。有機JASの認定機関も四六時中目を光らせているわけではない。登世子は入院しているし、達男が畑に出ることはまずない。個人的に譲られたものならば、購入履歴も残らない。

 テーブルの隅に置きっぱなしになっている朝刊が視界に入った。スポーツ欄を上にして折りたたまれている。記事には幸彦の母校の試合結果が載っていた。二回戦を七回コールドで勝利。達男が喜ぶ姿が目に浮かんだ。

 幸彦はボトルを突き返した。「聞かんかったことにするから、持って帰ってくれ」

「本当にいいのか」大滝は念を押すように告げた。

「満田のためでもあるんだぞ」

 幸彦は大滝の目を見なかった。見れば、また心が動かされる。天井を見ながら缶ビールをあおった。

「わかった」低い声とともに紙袋に戻されたボトルを見て、安堵した。

 神宮球場での失策を、思い出さなかったと言えば嘘になる。大滝への罪滅ぼしができるなら、協力は惜しまない。ただし、達男を裏切らない範囲で、という条件はつくが。

 陰鬱な気配をかき消そうとするように、大滝は不自然なほど明るい声を出した。

「焼酎にする。グラス、借りていいか」

「ああ」幸彦は食器棚から出したグラスを手渡した。

「最近、また焼酎飲みはじめたんだよ。学生寮で嫌というほど安い焼酎飲んだから、社会人になってからは避けてたんだけど」

「そうなんや」

 製氷機の氷をグラスに移す大滝に生返事をしながら、幸彦の視線は自然とボトルの入った紙袋へ注がれていた。


 溶けた鉄でも流しこまれたように、胃が重かった。口は乾き、ねばついた唾液が舌にまとわりつく。目覚めては眠りに入るというサイクルを幾度も繰り返した幸彦の頭は、鈍く痛んでいた。

 昨夜の記憶は、焼酎を瓶の半分ほど空けたところで途切れている。おぼろげながら、流しの下に残っていた古いウイスキーを飲んだ記憶は残っていた。こんなに深酒をしたのは久しぶりだった。

 気まずい空気を打ち消すように、幸彦は酒を飲み、若かった頃の話を持ち出した。寮母にイタズラを仕掛けて一晩中ランニングをさせられた話をすると、大滝はかつて恋人を寮に連れこんでいたことを告白した。アルコールと古い記憶に溺れるように、酒盛りは深夜まで続いた。

 携帯電話のディスプレイに表示された時刻は八時を過ぎている。アラームは無意識のうちに切ってしまったらしい。

 トイレへの廊下で葵とすれ違った。幸彦と目も合わせず、早足に歩き去っていく。蒼白の顔をした無精ひげの男は、少なくとも尊敬したい人物には見えなかっただろう。

 居間では達男が新聞を読んでいた。

「昨日はえらい遅くまでやってたみたいやな」

 台所のテーブルには、宴の残骸が放置されていた。食べかけのメンチカツや焼酎の空き瓶、ソースのこぼれた跡が、不作法さを物語っている。

「もう畑出る時間やろ。はよ支度せえ」

 流しには見覚えのない茶碗や箸が転がっている。茶碗の底に残った緑茶や米粒で、達男が茶漬けを作って食べた跡だとわかった。よく見ると、その下にはトーストのかけらが乗った皿もある。葵の仕業だろう。

 達男の怒声が飛んできた。

「ぼさっとしとらんと、さっさと準備せんか。皿洗いなんか葵にやらせたらええねん。草刈りまだ終わってへんのやろが」

 痛む頭で、除草剤の使用を断ったことを少しだけ後悔した。休日もなく、朝から夜まで働き続けた見返りが汚れた食器だと思うと、立ち尽くすほど空しい。

 ふと、大滝のために朝食を用意してやろうと考えた。茶漬けくらいなら食べるかもしれない。

「大滝、見てへん?」

 達男は自作のトーナメント表に、高校野球の結果を注意深く書きこんでいた。

「お前の友達か。だいぶ前に出ていったぞ。六時くらいに」

 和歌山から茨城は遠い。早朝に出発するのは仕方ないが、前もって言ってくれてもよかったのではないか。胸のうちの不満をくすぶらせながら、幸彦は朝食代わりに水を飲んだ。食事をする気にはなれない。

 作業着に着替えて玄関に立った幸彦は、その紙袋を見た瞬間に息を呑んだ。靴箱の陰に隠されるように置かれた紙袋は、紛れもなく大滝が持っていたものだった。おそるおそる手を伸ばして中をのぞきこむと、薄黄色の液体で満たされたボトルが現れた。

 幸彦は紙袋を抱えて器具庫に飛びこんだ。走ると、ボトルの液体は腕の中で水音を立てた。紙袋ごと、立て掛けたゴザの後ろに押しこんだ。

 刈払機をつかみ、畑に出て何食わぬ顔で電源を入れた。防護メガネを忘れたせいで、草の破片が顔に飛んでくるが、構わず雑草を刈り続けた。草の切れ端が口の中に入り、苦味が舌の上に広がった。

 必死で雑草を切り刻みながら、二十倍、という希釈倍率はしっかりと覚えていた。

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