第三章

 玄関先に立つ葵は、別人かと見紛うほど色白だった。大ぶりのキャスケットからのぞく頬も、チェックシャツの半袖から伸びる腕も、紙のように白い。いつもうなじの下で切り揃えられていた髪も、肩の高さまで伸びている。

 正月にやってきた時は、真冬だというのに小麦色の肌をしていた。年末年始も練習か、と何気なく尋ねた幸彦に、葵は必要以上の声量で答えた。

「年末は三十まで。年始は三日から練習」

「三日しか休みないのか」

「そうだよー、きついんだよー」

 言葉と裏腹に、葵の表情は明るかった。そういえば、一月の葵はまだ中学三年生だった。この半年で彼女の身に何があったのか、幸彦はまだ知らない。

 葵は玄関にも入らず、頑なにうつむいていた。かたわらの和彦が代わりに口を開いた。

「ここまでバスで来てん。こいつ乗り物弱いから、ちょっと酔ったみたいやな」

「とりあえず入ったら」

 幸彦が玄関の戸を開けると、和彦は背後からせっつくように葵を玄関へ歩ませた。もう一人、来ているはずの人物がいない。

「佐織さんは?」

「そこらへんで写真撮ってるわ。玄関わかるやろし、ほっといたらええ」

「なんで今さら写真なんか」

「ブログにアップするんやと。最近はじめたらしいわ。見たことないけど」

 達男が聞いたらまた機嫌を損ねるだろう。できれば兄嫁には帰るまでずっと家の外をうろついてほしい。そうすれば、達男と顔を合わせることもない。

 都心で生まれ育った兄嫁にとって、和歌山の農村は珍しい風景だった。少なくとも、わざわざ写真を撮って人様に見せる価値のあるものだと思っている。この家で育った幸彦にとって、みかん畑や紀伊水道は単なる日常風景に過ぎない。

「昼飯、どこで食ったん」

「新大阪。くろしおに乗り換える時、うどん屋で適当に食ったわ。あそこ、えらい味濃かったな」

 和彦は葵の顔をのぞきこんだが、返事はない。靴すら脱がず、キャンバスのスニーカーに付着した泥を見つめるように、ただ足先を見ている。幸彦の想像より、事態は深刻そうだった。写真撮影にいそしむ佐織の、母親としての資質が疑わしかった。

 幸彦は何度もうながし、ようやく葵を廊下に上がらせた。居間に通して和彦と並んで座らせる。とても畑仕事や家事ができるような状態とは思えない。

 麦茶を出すと、和彦は一息で飲みほした。幸彦は黙って麦茶の入ったピッチャーを突き出す。葵も炎天下を歩いてさすがに喉が渇いたのか、口をつけてグラスを傾けた。キャスケットを脱ぐ気配はない。

「父ちゃんは?」

「部屋におる。佐織さん来たら呼ぶわ」

 和彦は勝手に台所から扇風機を運んできて、縁側に置いた。縁側と居間を隔てる襖は開け放たれ、扇風機は首を振りながら室内に風を送りはじめた。

 廊下から足音が聞こえてきた。踏みしめるような足音は、玄関の逆方向から近付いてくる。物音を聞きつけたのか、自室を出てきた達男が縁側に現れた。和彦と葵を見て、顔をしかめた。

「なんや、嫁さんおらんやないか」

「揃ったら呼ぶって言うたやろ」

 幸彦の抗議も意に介さず、達男はしかめ面で言った。「来てへんのか」

「ちょっと、外で電話してるわ。呼んでくる」

 和彦は渋々といった風情で腰をあげ、玄関へ歩いていった。

 達男は上座に腰をおろすと、キャスケットをかぶった少女の顔を怪訝そうにのぞきこんだ。

「葵か?」

「孫の顔忘れたんか。葵やろ、どう見ても」

 幸彦がとりなしたが、達男はいぶかるような表情を崩さなかった。

「部屋ん中や。帽子、取らんか」

 葵は肩をもぞもぞと動かすだけで、帽子を取ろうとしない。痺れを切らした達男がもう一度言った。「帽子や」

 祖父の叱責に折れた葵は、右手でキャスケットのつばをつまみ、一気に脱ぎ捨てた。前髪は目にかかるほど長く、長時間帽子の下にあった髪の毛は、頭の形を浮き上がらせるように押しつぶされている。葵は視線を左右にさまよわせながら、落ち着かない様子で頭をかきむしった。

 達男の目から苛立ちが消え、代わりに困惑が浮かんだ。葵の様子がこれまでと違うことにようやく気づいたのだ。後退した額に手を当て、達男はぼそりと言った。

「えらい、髪伸びたな」

 当然のように、葵から返答はなかった。

 戸車の回る音が玄関から聞こえ、男女の話し声がかすかに幸彦の耳に届いた。急いで脱いだせいか、三和土に靴が転がる音が響いた。小走りで登場した佐織は、顔にいつもの愛想笑いを張り付けている。紺のノースリーブに白のワイドパンツというこじゃれた服装だった。もちろん、この地域でそんな都会風の女性を見かけることは稀だ。

「すいません、お義父さん。知り合いから急に電話がかかってきて」

 佐織は葵の隣に腰をおろし、前髪をかきあげた。若作りしてはいるが、笑った時に浮かぶ目尻の皺は四十歳という年齢相応だった。後ろから歩いてきた和彦が向かいに座る。ふたたび、達男の目に苛立ちがこもった。

 初めから、達男と佐織の相性はよくない。和彦が実家に婚約者である佐織を連れてきた日は、まだ大学生だった幸彦も同席していた。佐織は初めからくたびれた様子で、終始ぐったりしており、達男の目には不誠実な女だと映った。都会風の装いも手伝って「あの女は地方を見下しとる」というのが達男の口癖になった。

 幸彦も、達男の推測は間違っていないと思う。自分はこの家の人間とは別世界に住んでいる。そう言いたげな態度を、佐織の言動の端々から感じていた。軽蔑とは少し違う。水に混ざらない油のように、満田家への同化を頑なに拒んでいるのだ。

「陸はおらんのか」

「塾の合宿で」佐織が言うと、達男は鼻を鳴らした。夏休みに勉強させられている小学六年生の甥が哀れでならない。

 幸彦が全員に麦茶を出すのを待って、達男が口火を切った。

「話は幸彦からも聞いたけど、ようわからん。いっぺん、ちゃんと説明してみ」

「長々と説明することやないけど」

 落ちつかないように、和彦はポロシャツの襟元をつまんでは離した。

「葵がな、高校の女子野球部でいろいろあったみたいやねん。なんや、先輩から嫌がらせされたり、のけものにされたりとか。かわいそうやろ。入ったばっかりの高校でそんな目に遭わされて。ほんで、学校行けんくなってもうてん」

「そうなんか」

 達男は葵に問いかけたが、やはり返事はなかった。この家に来てから、まだ葵は一言も発していない。

「まあ、そう責めるような言い方せんといてや」

「別に責めてない。ほんまかどうか、確認しただけや」

 達男が不機嫌を全身から発散させている間も、佐織は退屈そうに室内を見回している。時おり思い出したように葵の横顔を眺めるが、視線はまた畳の縁や長押の間をさまよう。母子そろって、定まらない視線をもてあましていた。

「野球もやめたんか」

「野球部でいじめられたんやで。続けられるわけないやん」

「葵に訊いとるんや。葵が答えるまで、うちでは預からんからな」

 口ではそう言うものの、最後には兄の言いなりになるだろう。幸彦はこれまでの経験からわかっていた。和彦が高校を卒業してからはいつもそうだった。地元就職を拒んだ時も、佐織と結婚した時も、都内に家を買うことを決めた時も、口先だけは反対するようなことを言って、結局は認めた。

 重苦しい沈黙が場を支配し、扇風機と気の早い蝉の鳴き声だけが聞こえた。

「……無理」

 小さく動いた葵の唇から、かすれた声が漏れた。幸彦の記憶よりも高く、弱々しい声音だった。

「なんや。もういっぺん言ってみ」

「無理だから。もうあそこにはいけない」

 声には自信がこもっていないが、それでもはっきりと聞き取ることはできた。

「あそこっちゅうんは、高校の野球部か」

「そう」

「それやったら、野球部やめたら済む話やろ」

「それが、やめにくいねん。スポーツ科やから」ふたたび和彦が口を挟んだ。

「とりあえず休部扱いにしてもらったけど、学校ではよく鉢合わせるし、高校も八王子にあるから近所歩いてるだけで先輩と遭遇するねん。休みはじめた頃、そういうことがあったらしいんや。ほら、セレオで会ったって言うてたやろ」

「何かされたんか」

 今度は葵が自ら答えた。

「逃げんじゃねーよ、って言われた。お前がやめたの、うちらのせいにされたじゃん、とか。戻ってこないと退学させるとか」

「それで学校にも行けん、家からも出れんくなってん」

「……大変やな」達男は呆れたように言った。

 幸彦は意外な気持ちだった。葵がいじめの被害者になるとは思ってもみなかった。むしろ、気が強く友人の多い姪が、いじめの加害者にならないかと心配していたほどだった。

「ほんで、今は部屋に引きこもってるんか」

「佐織。説明して」

 水を向けられた佐織は、首をかしげながら話した。

「一日中、ずうっと部屋にこもってるわけじゃないんですよ。ごはんは一緒に食べるし。たまに親が家にいない時なんか、冷蔵庫漁ってるみたいだけど。そうでしょ?」

「漁ってないし。普通に飲み物とか探してるだけだから」

「まあ、だいたいの時間は部屋にいるみたいですけど」

 噛み合わない母子の会話を、達男は棘のある口調でさえぎった。

「もうええわ。またそのうち葵から聞くわ」

 和彦の手がポロシャツから離れた。幸彦には、兄の安堵が手に取るようにわかった。今の一言で達男が葵を預かってくれると確信したらしい。

「八王子は出歩かれへんけど、こっちなら知り合いもおらんし、大丈夫やと思うねん。ちょうど夏休みやし、八月の終わりくらいにまた迎えに来るから」

「うちで暮らすんやったら、色々やってもらわなあかんで。家事も、野良も。それが条件や。できるか?」

 葵が吐いたあからさまな溜息をかき消すように、和彦は言葉を重ねた。

「俺たちも、もちろんそのつもりや。そら、今まで野球しかやってこんかったし、母ちゃんの代わりってわけにはいかんけど。畑に入るんも初めてやからな。まあでも、幸彦がおるから大丈夫やろ」

「また俺に丸投げか」

「また、ってなんや。それに丸投げって、えらい人聞き悪いな。自分の娘なんか、誰にでも預けられるわけちゃうねんで。信用してるから預けるんや」

 要するに、兄夫婦は手に負えない娘を実家に押しつけたいだけだ。もし引きこもりが好転すれば娘は元の快活な性格に戻るし、好転しなくても現状維持というわけだ。いずれにしても兄夫婦は損しない。中学受験を控えた息子の学習環境を整えるという意味でも、引きこもりの娘を追い出せるのは好都合だろう。もしかしたらそれが最大の目的なのかもしれない。葵を預かる前から、幸彦はもう疲れていた。

「ほんまに野球やめるんか」

 送られてきた荷物に野球道具が紛れているのが、幸彦には気になっていた。佐織がそこまで気を利かせるとは思えない。野球道具だけは葵が自ら希望して、和歌山に送らせたのではないか。

 葵の出場した試合を、和彦の撮影したDVDで見たことがある。遊撃手である葵の守備は、流れるように滑らかだった。捕球から送球までに一切の無駄がない。打席に立てば、内野の頭を越えるヒットを連発する。経験者の幸彦には、葵の野球センスは一目瞭然だった。

「あんなにうまいのに、やめるなんてもったいないやんか。野球できるんは部活だけちゃうやろ。今やったら女子チームもいっぱいあるし、草野球でもええやんか。俺も会社で働いてた頃は草野球やっててん」

「今は野球の話、せんといてくれるか」

 和彦に横目でにらみつけられ、口をつぐんだ。佐織が後を引き取った。

「この機会に、もう野球はやめようかって話していて。女の子が硬式の野球をやるなんて、私にはまだ信じられない。軟式でも危ないのに」

 佐織はしきりに前髪をかきあげている。白い肩には薄紫色のしみが浮いていた。

「スポーツなら他にもたくさんあるじゃない。塾にも通ってほしいし」

「それは葵が決めることなんとちゃいますか。葵に野球はじめさせたんは兄ちゃんやし」

 幸彦は兄夫婦から揃って非難の視線を浴びた。肝心の葵は黙りこくっている。黙殺された抗議は、最初からなかったことにされた。こういう場面で黙りこむ父はずるいと思う。

 真西に移動した太陽が、庭木の影を縁側の上まで伸ばしていた。

「そろそろ、病院行かなあかんのとちゃうか。面会時間は大丈夫か」

 和彦は自社ブランドの腕時計にわざとらしく目をやった。

「ちょっと休ませてくれへんか。俺らの部屋は?」

 早くも腰を浮かせた和彦には、これ以上議論するつもりはないようだった。

「じいちゃんが使ってた部屋」

「仏壇の部屋か。三十分くらい休んだら、母ちゃんの見舞い行こうや」

 勝手に話を打ち切った和彦は、ボストンバッグを持ち上げて縁側の方に歩きだした。その後ろを、佐織が会釈もせずにあわただしくついていく。ワイドパンツの裾が襖の向こうに消える間際、じっとしている娘に声をかけた。「葵」

 葵は自分の存在を恥じるように、身を縮めて座っていた。会話の中心だったはずなのに、この場にいないかのように存在感がなかった。

「何してるの。こっち来なさい」

 佐織の声色が急に怒気を帯びた。何事かを感じ取ったのか、葵はすぐに立ち上がり、とぼとぼと母の後ろをついていった。

 達男は麦茶を含み、口の中をゆすいで飲みこんだ。

「あの嫁は相変わらずやな」

 幸彦はテーブルの上のグラスを台所に運んだ。洗い物をしながら、自分がいなくなったら父はどうするのだろう、と思った。畑を捨てて、福祉施設に入るとは到底思えない。

 結局、葵が引きこもっている理由については、まだよくわからない。わかっているのは、今回も和彦の思惑通りになりそうだということだけだった。

 達男をのぞく四人で、市立病院を訪れた。入院以来、達男は一度も登世子の見舞いに訪れていない。幸彦が声をかけても頑なに拒む。

「俺は腰が悪いから、行かんでええ」

 登世子が倒れた時に救急車に乗せなかったせいで、達男がへそを曲げているのだと予想している。倒れた登世子を運びこむのと、病院へ見舞いに行くのでは事情が違うが、きっと達男はそこまで考えていない。ただ、気に入らないだけだろう。

 葵を見るなり、ベッドに横たわった登世子の表情が曇った。

「大丈夫なん? どっか具合悪いん?」

 黙ったまま、葵は首を横に振った。今度は自分からキャスケットを脱いでいた。説明を求めるように、登世子の視線は二人の息子の顔に向けられた。和彦に肘でつつかれ、仕方なく幸彦が口を開いた。

「昨日も話したけど、ちょっと体調崩してもうてん。まあ、高校で色々あったみたいでな。それで夏休みの間はうちで休むことにしたらしいんやわ」

 登世子は気の毒そうに眉根をひそめた。

「かわいそうにな。こんなとこ来ても山と畑しかないけど、それでええんやったら好きなだけおったらええ」

 和彦が口を挟んだ。「八月いっぱいは和歌山におるから。できるだけ、病院にも来させるようにするわ。なあ、葵」

 葵の頭が微妙に揺れ、うなずいたのだとわかった。達男と対面していた時よりも心を開いている。改めて横顔を眺めると、少し目尻の下がった瞳が和彦によく似ている。その瞳は登世子にも共通している。

「母ちゃんは人の心配してる場合ちゃうやろ。体調はどうなん」

「入院患者の体調がええわけないやろ」

「でも検査入院なんやろ」

 通路を歩いていた看護師が足を止め、病室に入ってきた。

「すいません」和彦のかたわらに立つと、申し訳なさそうに注意した。

「病室ですので、お静かにお願いします」

「あ、どうも。気いつけます」

 愛想笑いを浮かべ、首の後ろに手をやった和彦を、葵は冷ややかな視線で見ていた。

「そろそろ高校野球はじまるんとちゃう? 父ちゃん、楽しみにしてるやろ」

 和彦が小声で言った。登世子は毎年夏になると、達男に付き合って高校野球を見ている。上がりかけていた葵の顔がまたうつむいた。

「明日、初日や。入院が長引いたら、今年は見られへんかもしれんなあ」

「カード買ったらええやん」

 幸彦はベッドサイドのテレビに視線を送った。テレビの右側に、カードの差しこみ口がついた箱が設置されている。登世子は手を振った。

「ええわ、もったいない。新聞で十分」

 和彦が何事かを佐織に耳打ちしていた。佐織はバッグを手に、無言で病室を出ていった。登世子はその背中を見送り、何気なく、といった感じでつぶやいた。

「葵はもう、野球やってへんの?」

 どう切り出そうか悩んでいたのか、和彦の顔に驚きと安堵が混ざった表情が浮かんだ。

「幸彦から聞いたんか」

「いや。でもそんな気いしてん。雰囲気違うから。和彦が中学卒業して野球やめた時も、こんな雰囲気やったわ」

 幸彦はまだ小学五年生だったが、当時のことを鮮明に覚えていた。和彦はことあるごとに、東京の大学に行くんや、とうそぶいていた。達男や登世子に、塾に通わせてほしいと懇願したが聞き入れられず、野球をやめて勉強に専念しはじめた。たまに畑仕事の手伝いをするほかは、四六時中勉強していた。トイレや風呂に参考書を持ちこみ、年越しも部屋にこもって勉強をする兄は、幸彦の目にも鬼気迫る姿に映った。

 病室に戻ってきた佐織は、カードの束を手にしていた。それを受け取った和彦は、枚数を数えてから登世子の前に差し出した。「これ、使い」

「なんや、これ」

「テレビカード。十枚ある。これでしばらくはテレビ見られるやろ」

「十枚も。いくらしたん」

「全然。一万円ぽっちや」

「こんなにいらんて」登世子は突き返そうとしたが、和彦は受け取ろうとしない。

「一回買ったら返金できへんし、使ってや。俺はなかなか来られへんから、こんなことしかできへんけど」

 和彦は仕事中にはまず浮かべないであろう、はにかんだ笑顔を見せた。弟である幸彦には、その笑顔が作りものではなく本心だとわかった。見ているうちに、火にかけた鍋の底から水面へ立ち上る気泡のように、幸彦の胸底で静かに怒りが沸いた。

 一万円のテレビカードを買い与えた程度で、本気で親孝行をした気分になっている兄が憎くて仕方なかった。和彦が見舞いに来れないのは、不可抗力ではない。自らそういう生き方を選んだのだ。そうしておいて、たまに顔を出したくらいでいっぱしの家族面をされるのが、幸彦には悔しかった。

 談笑する兄と母の前で、拳を握りしめて耐えた。和歌山に戻ってからの半生が、目の前で踏みつけられたような気分だった。

 十数分の面会を終えて、四人は病室を出た。ハリアーの助手席に座った和彦の目には、深い郷愁がたたえられていた。

「ショックやな。母ちゃんが老人になってるとこ見ると」

 左右に人がいないことを確認してから、幸彦はアクセルを強く踏んだ。勢いをつけてハンドルを切ると、シートベルトで固定された身体が傾いた。後部座席から佐織の小さい悲鳴が聞こえた。

「兄ちゃんが今気づいただけやろ」

 公道に出た幸彦は、さらにアクセルを踏みこんだ。

「俺はずっと前から知ってたよ。一緒に住んでるんや、五年も前から」

 和彦の目から望郷の色が消え、代わりに鼻白んだような表情に変わった。楽しい遊びを邪魔された子供のように、そっぽを向いた。

 もはや、兄はこの地域にとって部外者でしかない。感傷に浸るだけで、何一つ具体的な行動は起こさない。東京での生活を捨てるつもりは端からなく、和歌山に移住しようなどとは夢にも思っていない。テレビカードを買うのが関の山だ。

 沈黙に包まれた車内で、幸彦は後部座席の様子をうかがった。佐織はうつろな視線を山稜に向けている。ブログの構成でも考えているのかもしれない。葵は手に持っていたキャスケットを、また目深にかぶっていた。汚物を見ることを拒否するように目を伏せている。自分が葵でも同じ行動を取っているだろう。幸彦はそう思った。


 夕食は寿司の出前を取った。五人分の食事を準備する気力は残っていなかった。好物の寿司であれば、達男がケチをつけることもない。

「うん。やっぱりうまいな、こっちの海鮮は。東京とは別の魚みたいやもんな」

 アジの握りを頬張りながら、和彦は葵の顔をのぞきこんだ。葵は玉子とサーモンだけを黙々と食べている。応答のない葵に、和彦はビール臭い息を吐きかけ続けた。

「やっぱり鮮度が違うんかな。歯ざわりもいいし。おい、たまには青魚も食ってみ。あっちで食うのと全然違うから」

 葵は和彦がそこにいないかのように、寿司桶からサーモンをつまんだ。

 内心、幸彦は葵に同情した。家庭でこれほど白々しく父を演じられれば、葵でなくともうっとうしく感じるだろう。佐織も和彦を無視して、一人だけ注文したあら汁を何食わぬ顔ですすっている。

 玉子とサーモンを食べつくした葵は、無言で席を立った。あら汁を大方飲みほした佐織が、廊下を歩いていく葵を追う。歩調に合わせて、ワイドパンツの裾が大げさにたなびいた。「ちょっと、葵」

 娘が姿を消すと、和彦は背中を丸めて瓶ビールをグラスに注いだ。気の抜けた顔は一気に老けこんだように見えた。黙って日本酒を飲んでいた達男が、久しぶりに口を開いた。

「お前の嫁は何考えとるんや」

 和彦は顔を上向けてビールをあおった。「何が」

「メシ食うてる間も携帯電話ばっかり見よって、誰と連絡取る必要があるねん」

「たぶん、陸やろ。合宿中も毎日連絡取ってるらしいし」

「合宿なんやから放っといたらええやろ。それに、寿司食いながらやる必要があんのか」

「言うとくわ」

 毛ほども心に響いていない様子で、和彦はまたビールを注いだ。幸彦のグラスが空になっていることに気づき、瓶の口を傾けた。黄金色の水がすぐにグラスを満たした。和彦は弟に向かっていやらしく微笑んだ。

「結婚の予定は?」

「あるわけないやろ。今時、ほいほい農家の嫁に来てくれるかいな」

 幸彦は水面に浮いた泡をすすりこみ、マグロをつまんだ。

「三十五やろ。ほんまに考えた方がええで。えり好みしてる場合ちゃうって」

「してへんわ」

 渋面を作ってみせたが、内心当てがないわけではない。

 婚活パーティーに参加したのは半年前だった。市が主催するイベントだからサクラはいない、と登世子はしきりに勧めた。パーティーに参加して恋人ができれば苦労しないと考えていたが、母の熱意に押されて参加することにした。

 会場のカフェには先に十数名の男が集められ、女性の到着を待った。しばらくは店内に落ち着かない空気が流れていたが、男とほぼ同数の女性参加者がやってくると、店内に緊張が走った。

 ランダムにペアが作られ、一対一の自己紹介がはじまった。相手は五分ごとに変わっていき、何度か自己紹介が終わるとフリートークになる。幸彦は営業マンだった頃を思い出し、全力で頭を回転させて話をつないだ。

 女性は皆、和歌山市や大阪からバスに乗って来ていた。思っていたよりも女性が若く、容姿が良いことに驚いていた。飛びぬけた美人はいないが、恋人には困らなさそうな女性も少なくなかった。

 幸彦がアドレスを交換した相手も、愛嬌のあるしっかりした女性だった。三十代中盤という年齢はその場では若い方ではなかったが、同世代ということもあり余計な緊張をせずに済んだ。和歌山市内の病院で看護師をしているというその女性は、しきりに自分の年齢を恥じ入っていた。

「こういうん、参加するん初めてなんですけど、なんか私、おばちゃんですよね」

「全然。それなら俺もおっさんなんで」

 幸彦は身ぶりを交えながら、農業のことや野球のこと、東京で働いていた時のことを話した。彼女は相槌を打ち、時には笑いながら、熱心に聞いてくれた。少し話しすぎたと思った時には、もうほとんど時間が残されていなかった。

 パーティー後にアドレスを手に入れた幸彦は、その日のうちにメールを送った。すぐに彼女からの返信があり、やりとりは深夜まで続いた。また会いたいという思いを募らせた幸彦はデートの約束を取りつけようとしたが、彼女が挙げたいくつかの候補日には、寄り合いや出荷で都合が合わなかった。

 日々の農作業に追われているうち、次第に疎遠になり、桜が咲く時期にはメールのやりとりは途切れていた。

 しかし完全に縁が切れたわけではない。都合が合わなかっただけで、会えばまた楽しく話せるだろうという確信があった。事実、会うことを完璧に拒否されていたわけではない。

 和彦は説教じみた口調で言った。

「いつまでも独身やったら寂しいやろ。父ちゃんを安心させたれ」

 達男は諦めたのか、最近その手のことを口にしなくなった。もしかしたら、佐織のような女が来るくらいなら独身のままでいいと思っているのだろうか。今も黙って酒を飲むだけで、会話に入ろうとしない。

 そろそろ連絡を再開してもいい。ふられたところで幸彦が失うものはないのだ。自発的に参加したパーティーでもなかった。

「そのうち頑張るわ」

 幸彦は言葉を濁して、ビールを和彦のグラスに注いだ。勢いよく注がれたビールは泡立ち、和彦は溢れてくる泡を慌てて唇で受け止めた。達男は手酌で日本酒を飲んだ。

 父と二人の息子の間に、ふたたび沈黙が降りた。

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