第二章

  二


 家の中、特に屋根裏で物音がすると、今でもどきりとする。大抵は湿度や気温の変化で壁がきしんでいるだけなのだが、そうとわかっても心臓の高鳴りは収まらない。いまだに二十五年も前の記憶を引きずっているせいだった。

 幸彦が物心ついた頃から、ゴンは家族の一員だった。田辺に住む親戚から譲り受けた雑種は、幸彦が中学に上がる年、十歳になった。その年からゴンの散歩はもっぱら幸彦の役目になった。幸彦が家の周りでゴンの名前を呼ぶと、どこにいても必ず飛んできて首輪を差し出した。

 背中は茶色い体毛に覆われ、顎から腹にかけて白い毛が生えていた。黒いつぶらな瞳の上に、三角形の耳がついている。ありふれた雑種といえばそれまでだが、満田家にとっては替えのきかない存在だった。

 器具庫の隣につくった小屋がゴンの住みかだったが、眠っている間をのぞいて、小屋にいることは稀だった。放し飼いにされていたゴンはみかん畑や家の周りを徘徊するのが趣味だった。ただし家の敷地から勝手に出ていったことは一度もない。畑の作物を食い荒らすこともなく、誰も鎖でつなぐ必要を感じていなかった。

 十一月初旬、試験期間中で野球部の練習は休みだった。放課後、幸彦はみかんの収穫を手伝いながら、形ばかりの勉強をして過ごした。その年は表年のためみかんはどの農家も豊作で、さらに大学受験を控えた和彦が手伝いを免除されていたため、幸彦に割り振られた作業は多かった。

 みかんを選り分け、熟成庫に運びこむのが幸彦の仕事だった。収穫した果実は十日ほど熟成させた後、JAへ納める。当時はまだ慣行農法でつくっていたせいか、虫や病害にやられた果実はほとんどなく、収量も現在とは比較にならないほど多かった。幸彦は毎日、次から次へとコンテナに果実を移していく。鮮やかなみかんを半日も見ていると、目がチカチカして、まぶたの裏に橙色が点滅する。軍手をはめていても、手が黄色くなるような気がした。

 ある日を境に、穴のあいたみかんの数が明らかに増えた。鋭利な刃物でくりぬいたような痕跡は、虫の仕業とは思えない。食われたみかんを見せると、達男は即答した。

「ネズミやな」

 存命だった祖父も、達男の意見に賛同した。身体はほとんど動かなくなっていたが、地域の指導者として尊敬を集めていた祖父の作物を見る目は確かだった。

「なんで、高いところにある実が食われるん?」

 達男はいらついた口調で答えた。

「あいつら、木登りよる。ほっといたらいくらでも食われる。餌やってるようなもんや」

 その日のうちに、達男と幸彦は畑に殺鼠剤を撒いた。手分けして、野ネズミの巣と思われる穴へ手当たり次第に撒いて歩く。

「ワルファリンや。これ食ったら、出血が止まらんようになる。ネズミがどんどん弱っていくんや。一週間くらいしたら効果が出てくる」

 畑にネズミの死骸が横たわっている光景を想像して、幸彦は憂鬱な気分になった。

しかし幸彦の憂鬱は杞憂に終わった。一週間後、試験期間が終わって部活が再開しても、ネズミの被害は減らなかった。穴を石でふさいでも、殺鼠剤の量を増やしても、一向に効果はない。

 畑だけでなく、熟成庫のみかんまで食われるようになった。出荷直前のみかんにかじり跡を発見した達男は事態の深刻さを理解し、祖父に相談した。形の上ではすでに祖父は引退したことになっており、家主の座は達男に譲られていた。達男は周囲から認められるために、何事も自力で解決したがったが、ネズミ被害については悩んでいる余裕はなかった。祖父の回答はシンプルだった。

「ワルファリンやなくてリン撒いたらええ。それで一発や」

 さっそく、達男はリン化亜鉛が配合された業務用の殺鼠剤を購入した。部活が休みになる月曜の放課後、幸彦は父とともに畑へリンを撒いた。ゴンは畑や家の周囲をうろうろしながら、飼い主の作業を見物していた。

「間違えてゴンが食わへんかな」

 心配になった幸彦に、達男は平然と答えた。「大丈夫やろ。ゴンは賢いから」

 実際、ゴンは拾い食いをしたことがなかった。家族が与えた餌以外のものは口に入れない。だからこそ、達男も安心して殺鼠剤を畑に撒いていたし、ゴンを鎖でつなごうとしなかった。ワルファリンを口にした形跡もなかった。

 その日の夕食中、天井から物音がすると言い出したのは和彦だった。

「夜中、勉強したある時に頭の上でカサカサいう」

「ほんまか」酒を飲んでいた達男は身を乗り出した。

「昨日もおとといも。うるさくて集中できへん」

 ダイニングの椅子に腰をおろした達男は、腕を組んで天井をにらみつけた。日本酒を二合空けたせいで、顔は朱に染まっている。酒は好きだが、強くはない。

「あいつら、こんなとこに巣作っとったんか」

 食卓を立った達男は、裏口から外へ出るとしばらく戻ってこなかった。じきに登世子が心配して、幸彦に言った。

「ちょっと見てきてくれへん。酔っ払って倒れてたら嫌やし」

 幸彦はサンダルをつっかけて外へ出た。晩秋の夜風が薄いジャージの生地を通り抜け、肌を粟立たせた。幸彦は肩をすくめて父を呼んだ。声は夜風にかき消され、そのたびに幸彦は声を大きくした。「父ちゃん、何してんの」

 父より先に見つけたのは、家の周囲に山と盛られた小石だった。暗闇の中でよく目をこらすと、それは小石ではなく、昼間に撒いた殺鼠剤の顆粒だった。殺鼠剤はいかにも乱雑にばら撒かれた風情で、高さも幅も不揃いだった。

 達男は風呂場の裏手で、ほとんど空になった殺鼠剤の袋を抱えていた。おぼつかない足取りで後ずさりながら、裏口の横に顆粒を撒いている。

「おう、幸彦。ちょうど一周したとこや」

「どうしたん、これ」

「どうしたんて、家におるネズミ殺すためやろ。入り口探したけど見つからへんから、リン撒いたった。こんだけ撒いたらさすがに食べるやろ」

 達男が口の開いた袋を逆さにすると、数粒だけ残っていた殺鼠剤が足元に転がり落ちた。父の両手にはめられた軍手を見て、幸彦は安堵した。酔っているとはいえ、素手でリンを触るような真似はしなかったらしい。

「帰ろか」

 満足したのか、達男は軍手を脱いで木棚に放ると、さっさと裏口から家の中に入った。

 翌朝、家の周囲に撒かれた殺鼠剤を目にした登世子は「こんなに家の周りに撒いたら邪魔やないの」と怒ったが、達男は聞き入れなかった。それどころか、果実への被害がなくなるまで除去しないと宣言した。

 祖父が脳溢血で倒れたのは、その二日後だった。居間で倒れているのを和彦が発見し、家族総出で急いで病院へ運びこんだ。幸彦は部活の最中に顧問から病院に向かうよう告げられ、練習用のユニフォームのままタクシーに乗った。

 待合室の達男や登世子、和彦はすでに憔悴していた。登世子は、祖父は脳の血管が切れて出血した状態であること、間もなく手術がはじまること、もし成功しても再出血する可能性があることなどを伝えた。呆然と立ち尽くす幸彦を、登世子はベンチに座らせた。

 数時間に渡る手術の間、家族は待合室でじっと待った。部活で疲れていた幸彦は最初に眠りに落ちた。目覚めると、手術は終了していた。

 手術は成功したが、祖父の意識は戻らなかった。それからの三日間について、幸彦はほとんど覚えていない。祖父の容態は小康と急変を繰り返し、何度も家と病院を往復した。食事と睡眠のためだけに帰宅し、あとは待合室でひたすら時間を過ごした。覚悟はとっくにできていて、あとはこの慌しさがいつまで続くか、それだけを気にしていた。

 間の悪いことに、この時期は出荷と重なっていた。達男と登世子は代わる代わる熟成庫から熟れた果実を運び出し、JAへ届けた。疲れきった両親は抜け殻のようだった。

「コロッと逝ってくれたらよかったのに」

 そう達男がつぶやいたことだけは、はっきりと覚えている。

 息を引き取ったのは、倒れてから三日後の昼下がりだった。肉親を失った悲しみよりも、ようやく終わった、という感慨が幸彦の胸のうちを占めていた。

 手際よく連絡をよこした葬儀屋と通夜の日取りを決め、一家は帰宅した。誰もが心の底から疲れていた。

 帰宅した幸彦は、静まりかえった自宅に不穏な気配を感じた。家の周りで動くものといえば、風にそよぐ雑草しかない。そこには動物の気配がなかった。

「ゴンは?」

 あわてて小屋をのぞいたが、もぬけの空だった。マットの上に残された茶色い毛が物悲しかった。

「ゴン、ゴン」

 幸彦は声を張り上げた。いつもなら名前を呼べばすぐに駆け寄ってくるが、何度呼んでも見慣れた雑種は現れない。

「なあ、ゴンに餌やった?」

 詰め寄っても、登世子は首を横に振るだけだった。「バタバタしてたから」

「そのへん歩いてるんちゃうか。いつもふらふらしてるやろ」

 楽観的な達男の発言に、幸彦はいらだった。

「ゴンは勝手にうちから出えへん」

 そう言いつつ、不安に駆られた幸彦は畑へ走り出した。橙色の実をつけた木々の間を走りぬけ、さまよっているはずのゴンを探した。繰り返し名前を叫び、喉が枯れてもまだ叫んだ。

 いつの間にか、幸彦は畑の端まで来ていた。みかんの木は途絶え、代わりに隣家の稲田に突き当たった。稲刈りを終えたばかりの田圃には、円錐状の藁束が無数に立ち並んでいる。見渡す限り、犬の足跡はなかった。

 背後から雑草を踏みしだく足音が聞こえた。振り向くと、渋い顔をした和彦だった。

「帰ろう。みんな、待っとるから」

「でも、ゴンがおらへん」

「ええから。帰ろう」

 和彦の疲弊した声にうながされるように、幸彦は歩き出した。和彦は一言も発さないまま、幸彦と並んで歩いた。

 畑には強い西日が差していた。家に戻ると、裏口を出たところに達男と登世子が立っていた。二人とも日のまぶしさに顔をしかめている。

 かたわらには何かが横たわっていた。木の影に隠れてよく見えないが、その表面が毛で覆われていることがわかった途端、幸彦は駆け出した。三角の耳に茶色い体毛と白い腹。力なく眠っている犬の亡骸は、ずっと探していた愛犬の影とそっくり重なった。

 達男がぶっきらぼうに説明した。「風呂場の裏で倒れとった」

 幸彦の目からぼろぼろと涙がこぼれた。激しい嗚咽がこみあげ、何度もむせた。濃厚な死の香りに、その場にいた全員が押し黙った。

 腹を空かせたゴンが、リンを口にしたのは明らかだった。敷地から出てはならないという決まりを忠実に守り、主人の作物にも手をつけず、殺鼠剤を食べて亡くなったのだ。

 その夜、幸彦は寝付くことができなかった。身体は疲れ果てていたが、頭が寝かせてくれない。祖父の死は受け入れられたが、愛犬の死は受け入れられなかった。闇討ちのように襲ってきた悲しみに、心が締めつけられていた。

 ゴンの亡骸は、翌日達男が火葬場まで運んだ。毛布越しに触れたゴンの身体は、思いのほか骨ばっていた。

 家の周囲にばら撒かれたリンは、達男と幸彦で片付けた。ネズミの被害はまだ残っていたが、これ以上、殺鼠剤を放置しておく気にはなれなかった。細かい粒をほうきで掃きながら、達男は小声で言った。

「俺は間違ってるんかな」

 幸彦は黙ってほうきを動かし続けた。


 登世子の世間話に付き合ってから、前日と同じようにファームくろしおの事務所を訪れた。念のため病院を出る前に電話をかけ、西尾がいることを確認していた。電話口で聞く圭太の高い声は、相変わらず癇に障った。

 事務所の戸を開けると、待ち構えていたように圭太が立ち上がった。

「社長室にいるんで」

「どうも、すみません」会釈をして靴を脱いだ。

 簡素なドアの横には〈社長室〉と印字されたそっけない札がかかっている。幸彦は深呼吸してから、ドアをノックした。「どうも、満田です」

「おお、入れ入れ」

 部屋の内側からは、達男よりさらにしわがれた声が返ってきた。西尾の声は酒焼けしているかのようにつぶれている。

 戸を開けると、西尾が窓を背にして座っていた。ふくらんだ小鼻や小さい目、突き出た腹は、いずれも圭太と瓜二つだった。デスクと椅子のほかには、応接セットが一組と観葉植物が一鉢、金庫が一つ。絵画も彫刻もない。西尾の倹約家ぶりを示すように、室内のインテリアは質素だった。

「まあ、そこ座り」

 立ち上がった西尾は先に自分が座ってから、向かいのソファを指し示した。幸彦が腰を落ち着けるや、西尾が口火を切った。

「だいたいのことは圭太から聞いたけどな。母ちゃんが倒れたんやろ」

「二日前の昼に倒れて、そのまま入院してます」

 幸彦は登世子が入院することになった顛末を、かいつまんで説明した。話を聞きながら、西尾は何度もオールバックの白髪をなでつけた。幸彦が話を終えると、西尾は気の毒そうに眉根にしわを寄せた。

「難儀やな。達男さんも腰いわしてるし。なんかお願いごとでもあんのか」

「何はともあれ、ご報告というか」

「家事は母ちゃんがやってたんやろ」

「はあ。なんで、今は私がやってますけど」

「一人でか。母ちゃん、秋までには退院できるんか」

「検査の結果次第ですわ」

 回りくどい話を終える合図のように、西尾は分厚い手を口元にあてて咳払いをした。

「ちゃんと今年も収穫できんのか」

 能面をつけかえたように、西尾の表情が変わる。数十戸の農家を束ね、組合を経営する者の顔だった。幸彦は唾を飲みこんだ。口約束とはいえ、西尾にいいかげんなことは言えない。

「質だけは、去年よりええもん作りますんで」

「数がないと商売にならんで。母ちゃんが倒れたんで数が足りませんでした、じゃあ俺らも困るんや。人雇うなりなんなりして、きっちり収量確保せなあかんのちゃうか」

 西尾のような豪農ならいざしらず、満田家の収入では臨時でも人を雇うには勇気がいる。月数万円の出費は、零細農家には十分な重荷だった。葵のことがふと頭をよぎったが、手伝ってくれると決まったわけではない。期待するだけ無駄だ。

「それに質だけはって言うても、ほんまにええもんできるんか?」

「そこは任せてください。去年よりは絶対によくなってるんで」

 営業で身につけた度胸で幸彦は断言した。それでも西尾は懐疑的な視線を向ける。

 昨秋のみかんは不評だった。日照が少なく、雨が多すぎたせいだと幸彦は考えているが、西尾をはじめとする組合員たちはそう思っていない。一昨年から昨秋にかけて、ヘルニアを発症した達男に代わり、初めて幸彦が栽培の指揮をとった。大半の組合員は、作物の不出来が幸彦の未熟さによるものと考えている。

「量減らすんやったら、早めに言うてな。こっちにも準備があるから」

 納品量を減らせば、家族三人での生活は立ち行かなくなる。減らした分は別の農家の収穫で補完される。販路を求めている農家はいくらでもある。一度納品量を減らせば、ふたたび増やすのは至難の業だった。

 ファームくろしおは有機農法で育てられた作物をインターネット経由で販売している。西尾にとっては、有機JAS認定さえあれば誰から仕入れようと構わない。

「怒らんと聞いてほしいんやけどな」

 西尾は小鼻をさらにふくらませた。

「知り合いが言うてたんやけど、幸彦んとこのみかんは今年もあかんって。草は伸びっぱなしやし、この時期にもう黒点だらけやって。そこらへん、達男さんと協力しいや」

「玉置さんでしょう」

 玉置はファームくろしおにみかんを卸す農家の一人である。納品量は幸彦とほとんど同じで、事あるごとに幸彦のやり方にケチをつける。幸彦の納品が少なくなれば、西尾が玉置を頼ると見込んでいるのだ。

 みかんの不出来に関しても、玉置だけは面と向かって幸彦を罵倒した。「東京で働いてた奴がぽっとやってうまくいくわけないやろ」そう言い切った玉置の陰険な目つきを、幸彦はありありと覚えている。

「誰が言うたとか、そんなことはどうでもええ。俺が気にしとるんはお客さんの要望に応えられるか、だけや」

 西尾は勝手にソファから立ち、デスクに戻った。

「母ちゃん倒れて、忙しいやろ。もう帰れ」

 打ち切られた話を、幸彦から再開することはできない。頭を下げ、部屋を出た。「お邪魔しました」

 社長室を出ると、圭太が電話で話している最中だった。甲高い引きつり笑いが室内に響いている。

「ちゃうって、二軒目まではええ感じやってん。え? ほら、南海の駅の方にあるバー。そうそう。ほんで、店出てホテル探しとったらいきなり、さよならー、言うて走っていくねん。止める間もないほどのスタートダッシュやで。しかも結構な高さのヒールで走るから、足音がカンカンカーンって」

 話しながら、自分で笑っている。悪友を相手に、アロチで遊んだ話でもしているのだろう。〈ボン圭〉にふさわしい時間のつぶし方だった。

 幸彦が目の前を横切ると、さすがに声をひそめた。

「もう切るで。次、携帯にかけて。またな」

 圭太はことさら乱暴に受話器を置くと、とりつくろうように幸彦に声をかけた。

「お母さん、どうですか。退院できそうですか」

「まだ検査の結果出てないんで、なんとも」

 建屋から出た幸彦が引き戸を閉める間、圭太は愛想笑いを浮かべて左手を振っていた。その薬指には指輪がはまっている。「お大事に」

 圭太の妻はまだ二十代前半と若い。何度か町中で顔を合わせたことがあるが挨拶もろくにできない女で、それが礼儀であるかのように、派手なネイルアートを欠かさない。友田町のキャバクラで働いていたという噂は、不自然でも何でもない。

 ハリアーの運転席に座った幸彦は、入母屋の豪邸を眺めながらつぶやいた。

「アホばっかりや」


 翌日は雲が出て、作業は多少やりやすくなった。午後の草刈りから戻ると、玄関に段ボールが山と積まれていた。差出人の名前は満田和彦となっているが、丸みを帯びた筆跡は兄嫁のものだ。

 居間で寝転んでいる達男に尋ねると、珍しく顔を向けて答えた。

「二時くらいに業者が来て、置いていったわ。なんや、それ」

「葵の荷物。着替えとかやって」

「葵か」達男は目を丸くして、何度かうなずいた。葵が来ることを失念していたのだろう。

「ちょうどよかったな。登世子がおらんくなってどうなるかと思ったけど、これで帳尻合うやろ」

 兄とまったく同じことを言う達男に、幸彦は失望した。

「合うわけないやん。そもそも、引きこもりがいきなり野良仕事なんかできるかい。ええとこ、皿洗いやろ」

「引きこもり? それは言いすぎちゃうか」

 達男はまた目を丸くした。今度は本当に驚いたらしい。

「何も知らんねんな。あいつ、学校行かんと一日中スマホいじってるらしいで」

「和彦はそんなこと言うとらんかったぞ。何日か学校休んでるだけやって」

「騙されとんねん。葵、野球もやめたんやと」

「なんでや。そんなこと聞いてへん。ほんまの話なんやろな」

 頑なに信じようとしない達男に嫌気がさした。

「そう思うんなら、土曜に訊いてみ。どうせ俺みたいな農大卒の言うことなんか信じられへんのやろ」

 和彦が東京の国立大に通いはじめてからというもの、達男は和彦に異論を唱えることができなくなった。達男は高校を出てすぐに就農し、現在に至る。東京の、偏差値の高い大学を出た長男は、達男にとっていまだに最大の自慢の種であった。そしていつしか、達男は和彦に逆らうことができなくなった。

 父に背を向け、幸彦は段ボールを空き部屋に運んだ。葵にはかつて祖父母の部屋だった十畳の和室を与えるつもりだ。ほとんどの伝票には〈衣類〉と記載されていたが、一つだけ〈野球道具〉と書かれた伝票が貼り付けられた箱があった。

 靴箱には、忘れ置かれたようにバットケースが立てかけられていた。合皮のストラップには白糸で〈AOI M.〉と刺繍されている。肩に背負ってみると、金属バット三本分の重量が伝わってきた。バットケースを担いでいるだけで、野球少年だった頃の記憶が呼び起こされそうだった。

 衣類ならともかく、野球道具なら少しくらい勝手に触っても怒られないだろう。十畳の和室に戻り〈野球道具〉の段ボールを開封した。ガムテープをカッターナイフで切ると、内野用のグラブやバックパックが現れた。真新しいボーダーのバックパックにはシューズが納められている。

 試しにグラブを左手にはめてみたが、指先まで入らず、手のひらが窮屈だった。女子高生のグラブなのだから当然だが、それにしても小さく見える。外野手だった幸彦は、こんなに小さいグラブでよく捕球できるものだ、と妙に感心した。

 和歌山に戻ってからというもの、野球とは縁がない生活を送っている。今まで農業に必死で野球どころではなかったのだ。最後にプレーしたのはまだ会社員の頃だった。千葉の球場を借りて、社内サークルで他社のチームと試合をした。結果は忘れてしまったが、スタメンで出場したことは覚えている。小学校から大学まで野球を続けたが、レギュラーになれたのは会社のサークルが初めてだった。外野をできるのが三人しかいなかったから、という理由では自慢できないが。

 念のため、和彦に連絡を入れておくことにした。平日の夕方ならまだ仕事中だと思い、留守番電話に吹きこむつもりで電話をかけたが、意外にもコール中に和彦が出た。

「あれ、今日はもう仕事終わったん」

「移動中。どうした」

 電話口の和彦は標準語だった。背後にざわめきが聞こえる。

「葵の荷物やけど、今日届いた。部屋に運んどくから」

「そうか。悪いな」

 和彦が言葉を切ると、電話の向こうのざわめきが大きくなる。それだけのために連絡したと思われるのが嫌で、幸彦は急いで言葉を継いだ。

「まだ父ちゃんにちゃんと説明してへんの?」

「何が」

「葵のこと。野球やめたことも、引きこもってることも知らんみたいやで」

「余計なこと、言わんでええ。下手に引きこもりとか言うたら、大げさに取られるぞ。田舎の人間はテレビの言うこと鵜呑みにするから」

 兄の話し口調に紀州弁が混ざってきたことに、幸彦は安堵した。

「そうかもしれんけど、父ちゃんは野球少女の葵しか知らんからビックリするで。だいたい、和歌山で過ごしたらほんまに引きこもりが治るんかな」

「転地療養ってやつや」

 自信ありげな口調で和彦は断言した。小さい音でクラクションが聞こえた。

「俺も福岡に飛ばされた時は会社恨んだけど、今は経験積んでよかったと思ってる」

 八王子に家を買った翌年、和彦は福岡支社へ異動した。生意気を言ったせいで本社から放り出されたと嘆いていたが、条件のいい転職先もなく、単身赴任で仕事を続けているうちに東京へ呼び戻された。

「だいたい葵が引きこもってるんは八王子やからや。和歌山やったら外出できるはずや」

「そんなうまくいくかな」

「ごめん、そろそろ切る。またな」有無を言わさず、和彦は通話を終えた。

 久しぶりに野球道具を触ってみたい気分だった。幸彦は部屋の掛け時計を見上げた。そろそろ夕飯の支度をしなければならないが、達男が騒ぎ出すまでは間がある。

 幸彦は自室に戻り、押入れの襖を開けた。愛用のバットケースやエナメルバッグは、冬用の毛布の横で埃をかぶっていた。

 バッグを開けると、汗と革の入り混じった、カビ臭い匂いが立ち上った。十年以上慣れ親しんだ、懐かしい匂いだった。幸彦はサイズ15のグラブを手に取り、指を入れた。手入れを怠った革は固く、表面は毛羽だっていたが、何度か指を折るとすぐになじんだ。すぐにでもグラウンドでフライ捕球の練習ができる気がした。

 捕球は訓練すれば必ずできるようになる。中学生の頃に顧問からそう言われて以来、捕球技術だけは誰にも負けないように努力してきた。そのおかげで、守備固めとしてベンチに入れるようになった。足は遅いし打撃も得意ではないが、外野守備だけは常にチームで一番だという自信があった。

 致命的なミスをしたことが、一度だけあった。大学四年、秋季リーグの最終戦だった。幸彦ら四年生にとって、最後の公式戦だった。

 神宮球場の上空は秋晴れでほぼ無風だった。九回裏、ベンチで声を出していた幸彦は出場を命じられた。守備固めとはいえ、セレクションの部員を押しのけて出場できることが誇りだった。後輩たちの声援に送り出され、幸彦は土の上を左翼に向かって駆けた。改めてスコアボードを見上げる。農大の一点リード。

 先発の大滝が九回のマウンドに上がった。八回までほぼ完璧な投球で一失点。バックネットに陣取っているスーツの男たちは、プロ球団のスカウトだった。ドラフト会議は一週間後に迫っている。二、三の球団が大滝をリストアップしているという報道を、幸彦も目にしていた。この試合は四年生の引退試合になるだけでなく、大滝にとってはスカウトへの最後のアピールの場だった。

 マウンドに立つ大滝の背中は、いつだって頼もしかった。外野から数十メートル離れていても、すぐそばにいるような感覚になる。ポーカーフェイスで常に冷静な大滝が稀に雄叫びをあげると、幸彦も拳を突き上げたくなる衝動に駆られた。

 幸彦は腹の底から声援を送った。一人目の打者を空振り三振に打ち取ると、誰よりも大きな声で歓声を上げた。自分が見られているわけでもないのに、スカウトの視線が気になり、身体が熱くなった。

 二人目はファールで粘った末、ショートゴロに倒れた。幸彦は平常心を意識しながら、足首をほぐし、軽くその場で跳ねた。練習でいつもやっている動作だった。経験上、こういう場面でこそミスが起きることは知っている。だからこそ、練習と同じ動きをする。

 三人目の初球だった。打者は甘く内角に入ったストレートを大きく打ち上げた。

「オライ、オライ」

 中堅手に声をかけながら、幸彦は小走りで落下点に入った。易しいフライだった。青白色の空を背景に、白球は幸彦の元へ落ちてきた。

 その時、白球が陽炎のように揺れ動いた。上空で突風に吹かれた打球は急激に減速し、落下点を変えた。息が止まった。

 これほど懸命に走ったことは、後にも先にもない。自分の荒い呼吸しか聞こえない。必死で駆けこんだが、それでも間に合わない。幸彦はわずかな可能性に賭け、落下点めがけて空中に飛びこんだ。白球は幸彦の右手を逸れ、柔らかな土の上に落ちた。

 立ち上がって送球し、ボールがセカンドのグラブに納まった時には、すでに打者は一塁に到達していた。

 この出塁を機に、大滝は崩れた。あっさりと一失点を許した後、さらにサヨナラヒットを打たれた大滝はマウンドに立ちつくした。ベンチも観客席も、見えない緞帳が下ろされたように静かだった。キャッチャーが駆け寄って肩を抱いたが、大滝はその場にピンで留められたように動かなかった。

 振り向いた大滝と、一瞬だけ目が合った。どんな目をしていたのか、外野からは見えなかった。知りたくもなかった。幸彦はシューズのつま先を見つめながら、ベンチまで引き返した。

 ドラフト会議当日、大滝の名前は最後まで呼ばれなかった。

 幸彦ら野球部員たちは、揃いの制服を着て会見に備えた。大学が用意した会見場の最前列で、大滝は最後まで背筋を伸ばしていた。会議終了後、どこかのテレビ局がわざわざ使命漏れの感想を聞きにきた。大滝はいつものポーカーフェイスで、記者の質問に淡々と答えた。

 その背中は、外野から眺めるよりもずっと遠く見えた。

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