裂果

岩井 圭吾

第一章

  一


 音もなく、母は倒れた。

 摘果の最中だった。幸彦が枝を切る手を休めて腰をひねると、胸に手を当てた登世子が膝から崩れ落ちるところだった。母の愛用のハサミは半端に刈り取られた雑草の上に落ち、眉間に皺を寄せた登世子は一言も発さず身体を横たえた。

「母ちゃん」

 駆けだしたはずみにコンテナを蹴り飛ばし、数十個の青いみかんが散らばった。糖尿の薬は飲んでいるが、心臓は患っていないはずだ。口元に耳を近づけると、弱々しいが呼吸が感じられた。サンバイザーの陰に覆われた登世子の顔は苦悶に満ちている。背筋を冷や汗が伝った。

 登世子の左手には、もぎ取られたばかりのみかんが握られていた。まだ食べごろにはほど遠い。青く硬い果皮に爪を立て、母は苦痛に耐えていた。乾いた唇が動き、喉の奥から甲高い息が漏れた。「救急車」

 幸彦は作業用ズボンのポケットに入れた携帯電話で119番に通報した。消防署の職員に状況を説明しているうちに少しずつ気持ちが落ち着き、通話を終える頃には冷や汗もいくらか引いていた。

 小柄な母を抱きかかえ、みかんの木の間を縫うように走った。雑草が足にからみつき、危うく転倒しそうになる。つい一週間前に刈ったばかりだというのに、青々とした草はもう膝の高さまで伸びている。草を踏み越えるように、幸彦は自宅へ向かった。

 縁側に寝かせた登世子の胸を、救命法の講習を思い出しながら何度も押した。倒れてからすぐの心臓マッサージが生死を分けるのだと、救急隊員から聞いたことがあった。すずらん柄のブラウスが皺だらけになるのも構わず、幸彦は胸を押した。登世子の瞼は閉じられたまま、マネキンのようにじっとしている。

 じきに救急車が到着した。救急隊員は防災訓練や消防団の会合で見知った顔ばかりだったが、さすがに軽口を叩くはずもなく、きびきびと登世子を車内へ運びこんだ。年かさの一人が幸彦に事情を尋ねた。

「状況は?」

「野良仕事しとったら、急に胸押さえて倒れて……」

「前にもこんなことあった?」

「いや、初めてやと思います」

 隊員は幸彦の話を聞きながら、手元の紙にボールペンを走らせた。

 救急車が見えたのか、家の中から達男がやってきた。ランニングに股引きという出で立ちのまま、杖に身体を預けながら、おぼつかない足取りで庭先に歩み出てくる。

「どないしたんや」

 声を張り上げる達男に、幸彦も大声で応じた。「母ちゃんが倒れた」

 目を剥いた父の横をすり抜け、幸彦は土足で居間にあがりこんだ。机の上に置いてあった財布を取り、また救急車に戻った。達男が引き止めようと何かを言ったが、聞き取ることはできなかった。

「病院行ってくる。連絡するから待っといて」

 車内では隊員が心臓マッサージとAEDを繰り返していた。勢いよく胸を押された登世子の身体は、不安定な車内で何度も跳ねた。

「お母ちゃんの保険証ないんやけど」

 年かさの隊員が急きたてた。

「ええから乗れ。お父さんは?」

「ヘルニアやし無理や。俺だけ行く」

 父が来ても役に立たないどころか、足手まといになりそうだった。当の達男は庭先にたたずんだまま、ぽかんと口を開けて救急車を見ている。後部ドアから乗りこんだ幸彦は、頭を天井にぶつけないよう、上体をかがめてベンチに腰をおろした。

 登世子の肌は野良仕事のせいでずいぶん日焼けしていたが、血の気の引いた顔色は蝋燭のように白い。枕元に据えられたモニターには脈拍や血圧の数値が表示され、心電図は規則的に波形を描いている。幸彦は心臓マッサージをしていた若い隊員に尋ねた。

「あの、大丈夫ですかね」

「命には別条ないと思いますけど。容体が不安定なので」

 無線で会話をしていた助手席の隊員が振り向いた。

「市立病院に向かいます」

 苦しむ母から目をそむけるように、幸彦は上体をひねって窓の外に目をやった。走り出した救急車の中から見えたのは、緑一色のみかん畑だった。地面まで雑草の緑で埋め尽くされているのは、除草剤を使用していない証拠だ。達男が有機農法に凝りだしたのは、幸彦が高校生になってすぐだった。

 みかん畑を過ぎ、ビニールハウスや葉物野菜の畑を越えると、開けた場所に出る。市街地と段々畑、紀伊水道がいっぺんに視界に飛びこんできた。穏やかな深青色の海面に、救急車のサイレンが響いていた。


 登世子の担当になったのは、幸彦と同世代の医師だった。眼鏡をかけたおとなしそうな医師は、デスクに置いてあった心臓の模型を取り上げ、指さしながら説明してみせた。

「心臓が動き続けるには酸素が必要です。その酸素を送りこむのが冠動脈。この、全体を覆っている血管ですね。狭心症というのは、冠動脈に異常が起こって、心臓が酸欠になった状態です」

 病院に搬送されてから三十分ほどで登世子の発作はおさまった。医師が聞いた話によると、これまでにも何度か発作を経験していたという。初耳だった。

「自分の親やのにそんなこと全然知らんと、恥ずかしいですわ」

「ご家族に心配かけたくないからこそ、黙っていたんだと思いますよ。よくあることです。あまり誉められたことではありませんけど」

 担当医の言葉には紀州弁のアクセントがない。関西に住んでまだ日が浅いのか、流れるような標準語を使う。そのことに無意識ながら違和感を覚える自分が嫌だった。

 幸彦が和歌山に戻って五年が経つ。年々、よそ者を感知するセンサーが鋭敏になっている気がした。

「登世子さんには入院していただくことになります」

「入院ですか」

 思わず眉をひそめた。満田家の畑を運営しているのは、実質、幸彦と登世子の二人だった。どちらか一人が入院することは、労働力が半分になることを意味する。

「絶対に入院せなダメですか」

「まずは検査を。結果によっては長引くこともあります」

「うち、みかん農家なんですよ。この時期は草刈ったり、間引いたりせなあかん。人手が足りんのです。父親の世話もあるし」

「狭心症は放っておくと死につながります」

 淡々とした話しぶりからは、誠実さを感じる。幸彦は口をつぐんだ。

「大変なのはお察しします。でもご家族の健康のことなので」

 幸彦は観念したように息を吐き、何度かうなずいた。

「そんなら、先生にお任せします」

 入院手続きを済ませてから、登世子の病室を訪れた。四つのベッドは患者で埋まり、いずれもカーテンが引かれている。「俺やけど」と言ってから右手奥のカーテンの内側をのぞくと、登世子が怪訝そうな顔を向けた。

「幸彦かい。名乗ってくれな。俺じゃわからんわ」

 顔色は良くないが、話しぶりは明瞭だった。軽口を叩く姿を見て安堵した。

「元気そうやな」

「元気は元気やけど、発作が怖いわ。次いつ起こるかわからんやろ」

 レンタルの患者着に身を包んでベッドに横たわる母は、野良に出ている時とは別人のようにひ弱に見えた。還暦を過ぎた母の老いを見せ付けられたようで、幸彦は窓の外へ目を逸らした。七月の太陽に照らされ、キンモクセイの葉がつやつやしく光っている。

「なんで今まで黙ってたんや。発作のこと」

 登世子は右手を顔の前でひらひらと振ってみせた。

「そんな、発作やなんてわからんかってん。年取ったら膝も腰も痛なってくるし、それと一緒やと思てたわ。人間、還暦過ぎたらどっかしら悪くなるもんよ」

 恥ずかしさを隠すように、登世子は話題を変えた。

「明日はサンソー液、撒くんやろ。一人で大丈夫かいな」

 吐息が漏れた。「やらなしゃあない」

 殺虫剤のサンソー液は硫黄からつくられ、強烈な悪臭を放つ。園内に散布すれば悪臭が風に乗って周辺に拡散するため、明日散布することは一週間前から近隣の住民に知らせていた。前日の夜に日程を変更すれば、何を言われるかわからない。先延ばしにすれば栽培計画にも影響が出る。一人でやるにはなかなか大変な作業だが、予定の変更はできない。

 看護師が病室に現れて、登世子の名前を呼んだ。

「じゃあ、そろそろ行くわ」

「晩ごはんにトマト煮作ったあるから、チンして父ちゃんと食べよ。冷や飯も冷凍庫にあるから」

 病室のベッドで家族の食事を心配する母を、幸彦は哀れに思った。登世子の頭にあるのは、いつだって家族と畑のことだけだった。家族と畑のために数十年間かいがいしく働いた末、倒れたのだ。母がいない家庭を想像することができなかった。

 ロビーの長椅子に身体を預けると、疲労が一挙に押し寄せてきた。窓から見える空は深い紺色に変わっている。受付の電話でタクシーを呼んでから、父に連絡していないことを思い出した。続けて自宅の番号を押すと、しわがれた声が返ってきた。「満田です」

「父ちゃん? 幸彦やけど」

「遅かったやないか。どないやってん」

 達男のヒステリックな怒声を聞き流し、幸彦は答えた。

「命は別状ないって。でも検査入院せなあかん」

「なんでや」

「母ちゃん、狭心症やねんて。発作もこれが初めてちゃう言うてたわ」

 電話口で達男はしばし絶句した後、しみじみとつぶやいた。

「言われてみたら、たまに胸痛そうな時もあったな。心臓のへん押さえて」

 そういうことは早よ言え、と言いかけてやめた。一緒に暮らしていながら気づかなかったという意味では、達男も自分も同罪だと思った。

「今からタクシーで帰るから」

 通話を切ってすぐ、タクシーが車寄せに滑りこんできた。窓から顔を出した運転手には見覚えがある。中学の同級生の父親だった。田舎に暮らしていれば、知り合いと顔を合わせるのは日常茶飯事だった。幸彦は運転手に手を振りながら、自動ドアを抜けた。


 早朝の園内は日中より多少涼しいが、日の光は容赦なく照りつける。全身を覆う雨ガッパの内側はサウナのように蒸れ、背中や腕から際限なく汗が噴き出す。ゴーグルが蒸気で曇り、防護マスクのせいか呼吸が苦しい。ゴム長靴を履いた足裏に汗が溜まり、歩くたびに不快な水音を立てた。

 ノズルから噴出されるサンソー液は、鼻をつまみたくなるような悪臭を放っている。腐った卵のような、硫黄独特の臭いがたちこめていた。五年目ともなればさすがに慣れたが、最初に散布した時は吐き気を催すほどだった。元種苗会社の営業マンとして、農薬には耐性があるつもりだったが、それが勘違いだということをはっきり思い知らされた。

 昨年、葉物野菜の苗を買いに訪れた種苗店で、慣行農法のみかん農家と出会った。珍しく幸彦よりも若い農家で、同じように、会社員を経由して家業を継いでいた。

 彼はマンゼブ剤やジチアノンならサンソー液より臭いも薬害も気にならないと言っていた。幸彦にもその程度の知識はあるが、満田みかん園で慣行農法を取り入れるわけにはいかない。サンソー液ですら快く思っていない達男が、有機JAS認定外の農薬を許すはずがなかった。

 タンクを引きながら散布を終えると、もう昼前になっていた。汗みどろの身体を引きずって器具庫に引き返し、噴霧器を水で洗浄する。酢でアルカリを中和してから、ふたたび水を噴霧する。細かい霧の中に小さい虹が見えた。

 庭先に戻ると、股引きをはいた達男が縁側に腰かけ、コンテナのシシトウを選りわけていた。満田家にとって、夏野菜は端境期の貴重な収入源だった。目が合うと、達男がぼそりとつぶやいた。

「メシの時間やな」

 昼食の支度をしろという意味だった。物心ついた頃から現在まで、達男が台所に立ったのを見たことは一度もない。

「シャワー浴びさして」

 汗でぐっしょりと濡れた雨ガッパを脱ぐと、身体が軽くなった。中に着たTシャツやショートパンツも、水でも浴びたかのように濡れている。ホースで雨ガッパを洗っていると、達男は大仰に顔をそむけた。

「ほんま臭いわ。そんなもん使わんでもみかんは育つ」

 幸彦は聞こえないふりをした。

 無農薬主義者の達男は、有機JASで許可されているとはいえ、農薬使用には一言文句をつけなければ気が済まないらしい。しかし無農薬でみかんを栽培すれば果実が全滅するのは目に見えている。実際、サンソー液を使いはじめてから病害は劇的に減った。

 シャワーを浴び、冷や飯とレタスでチャーハンを作った。料理は久しぶりだった。関東で一人暮らしをしていた頃は気が向けば自炊したが、和歌山に戻ってからは登世子に任せきりだった。縁側の達男を呼ぶと、ゆっくりとダイニングテーブルまで歩いてきた。

「汁物ないんか」

「そんぐらい、自分でやって」

「台所のことはわからん」

「覚えてよ。しばらく母ちゃんもおらんのやし」

 幸彦はやかんで湯をわかし、インスタントのわかめスープを椀にあけた。中華風の香りが食欲を刺激し、空腹で腹が痛いほどだった。

 父と二人きりの食卓は気づまりだった。チャーハンはあまり美味くなかった。レタスの水分が残り、米が糊のようにくっついている。付け合わせのキュウリを噛みくだく音が、やけに大きく感じられた。

 達男はもそもそと口を動かしながら言った。

「この後、西尾さんとこ行き」

 登世子の入院を知らせに行け、という命令だった。幸彦はスプーンを置き、口の中の米粒をスープで流しこんでから、ためらいがちに口を開いた。

「なあ、ここまで報告せなあかんか」

「当たり前やろ。これから何かあったら、西尾さんに融通してもらわなあかんねんから。登世子やって今まで散々世話になってるんや」

 市民病院に入院した時点で、登世子の入院は集落の全員が知るところだろう。いちいち報告に行くのは無駄に思えたが、つまらないことで父の面子をつぶしたくはなかった。

「後で電話してみるわ」

 食卓にふたたび沈黙が落ちた。テレビをつけると、渋谷に新しくオープンしたカフェの特集をしていた。学生時代は飲み会や買い物でよく訪れたが、もう十年以上、渋谷で遊んだ記憶がない。

「今年は九日からや」

 唐突な父のつぶやきが意味することはすぐにわかった。七月から八月にかけて、達男は高校野球の虜になる。特にヘルニアでまともに野良仕事ができなくなってからは、輪をかけて熱中している。全試合がテレビ放送されるのをいいことに、県大会一回戦からくまなく観戦する。

 幸彦は適当なワイドショーにチャンネルを合わせ、リモコンを置いた。達男が小盛りのチャーハンを食べ終えると、幸彦は皿を下げ、グラスの麦茶を注ぎ足した。

「今度、JAに会ってみようと思うんやけど」

「もうその話はいらん」

 達男は露骨に顔をゆがめた。

「前に言うたやろ。有機でやるんは環境のためだけやない。今さら慣行農法に変えて、売り先なんか見つからん」

「JAに売ればええやろ。だいたいの農家はそうしとる」

 達男は爪楊枝で歯の隙間をつついた。「頼りになるかい、あんなもん」

「ほんならネットで売ったらええ。間で金抜かれへんし」

「お前みたいな素人がやって売れるわけないやろ。西尾さんに任せとけ」

 達男は何かあれば、二言目には西尾の名前を口にする。要するに、達男は地域の輪からのけ者にされることをひたすら恐れているのだった。幸彦にも理解できなくはないが、達男の場合は保守的というより意固地という方が正しい。

「売れへん確証がどこにあんねん。西尾さんやって最初は素人やったんや」

「お前、調子に乗んな!」

 生え際の後退した額に血管を浮かべて、達男は怒鳴った。大声を出せば相手が服従すると思っているところを、幸彦は哀れに思った。イタズラを叱られてベソをかいていた幸彦は三十五歳になり、父は古稀を迎えている。達男はぶつくさと言った。

「人手が足りんのやったら、有機のまま規模小さくしたらええ」

「そんなん無理や。今でも生活するんギリギリやのに、これ以上小さくしたら母ちゃんの入院費も払えへん。JAに相談だけ、してみようや」

 達男は声音を低くした。手にした爪楊枝が震えている。

「西尾さんに何て言う。抜けますなんて言ったら、この土地住めんくなるぞ」

「そん時は土地を売る」

 赤くなった達男の顔を見て、幸彦はつけくわえた。「嘘やって」

 父は爪楊枝を折ってテーブルの上に投げ捨て、憮然とした表情のまま台所を出た。木造の平屋を歩く小さい足音が、しばらくの間、響いていた。


 運転席からコンパクトカーを見下ろしながら、幸彦はハンドルを切った。市立病院の駐車場はすでに八割方埋まっている。居並ぶ和歌山ナンバーの間をすり抜け、公道に出る。アクセルを踏むと、エンジンが唸りをあげた。

 中古のハリアーを購入したのは、和歌山に戻ってきた時だった。町中でも未舗装路でも走ることができるのは便利だが、燃費の悪さには閉口している。

 時おり、営業車のカローラを運転していた日々を思い出す。駆け出し時代は得意先にタネや資材を卸すのに精一杯で、新しい品種を提案する余裕などなかった。仕事が終われば、社内の若手で集まって勉強会を開いた。農家の息子なのに何も知らないことが悔しくて、夢中で勉強した。

 無意識に吐いた溜息がフロントガラスをわずかに曇らせた。楽しい記憶はほとんどないのに、会社が懐かしく感じられる。ここ最近、会社での出来事を思い出すことが増えた。

 ついさっき母に着替えを届けた帰り、廊下で例の担当医と鉢合わせた。

「ああ、どうも。満田さんの」

「お世話になります」

 会釈して通り過ぎようとする医師に声をかけた。

「先生はどちらから?」

 質問の意図がわからない、というふうに医師は小首をかしげた。

「あの、和歌山の方ではなさそうだったんで。詮索するつもりはないんですけど」

「東京からです。先月来たばかりなんですよ」

 不快なそぶりもみせず、医師はさわやかに笑った。

「こういう土地で働いてみたかったんです」

「また」と言って、医師は廊下の先へ歩いていった。

 地域の色に染まっていない標準語は、どこか生真面目さを感じさせる。誠実だがあまり器用な性格には見えない。田舎で人間関係を築くには鈍感さとバランス感覚が求められる。これからの苦労が目に見えるようだった。

 西尾の事務所へつながる坂道を、ハリアーが駆け上がる。左手にはスプレー菊や葉物野菜のビニールハウスが連なり、右手にはバレンシアオレンジの畑が広がる。木々になった果実の一つ一つに緑色の袋がかぶせられ、遠目には生い茂る葉と同化して見える。この一帯の農地はすべて西尾家の所有である。

 坂を上りきると、正面に黒瓦の入母屋屋根を乗せた邸宅が現れる。庭を囲む生垣は整えられ、老松が顔をのぞかせている。門にかけられた白木の表札には、筆文字で西尾の名前が記されていた。

 生垣沿いに裏手へ回りこむと、二階建てビルが邸宅の裏口と向き合うように建っている。入口横の錆びが浮いた看板には〈ファームくろしお〉と印字されている。幸彦はビル手前の駐車場に車を停め、建屋へ歩いた。

 引き戸を開けると、すぐに事務所になっている。書類が山積みになったデスクやパーテーションで仕切られた応接スペースは、かつて働いていた千葉の営業所を連想させる。冷房が効いた室内は、汗をかいた幸彦には寒いほどだった。

 靴を脱いであがると、一番奥のデスクでキーボードを叩いていた圭太と目が合った。ほかの従業員はいない。

「どうかしましたか」

 圭太は父親譲りの甲高い声で応じた。〈ボン圭〉じゃ話にならん。そう思いつつ、仕方なく尋ねてみた。

「社長、いますか」

「ああ、社長ねえ。今日は和歌山の方に行ったあるんで、いないです。夜まで帰ってこんと思います。用事あるんやったら、聞いときますけど」

 西尾の長男である圭太は幸彦より五歳下だが、専務という肩書きにふさわしいのは貫禄だけで、経営手腕は疑わしい。

「実は母親が入院することになりまして」

「また、どうして」

「昨日、畑で作業しとったら発作で倒れて。命には別状ないらしいんですけどね。医者に狭心症って言われましたわ」

 圭太は贅肉でふくれた顔を不憫そうにゆがませた。

「元気そうやのに」

「もう六十六なんで。いつ何があってもおかしない年齢ですから」

「そんな、縁起でもない」

 椅子をきしませながら、圭太は立ち上がった。突き出た腹を揺らして、幸彦の方に歩み寄ってくる。

「ほんなら満田家には実質、幸彦さんしか動ける人がおらんってこと?」

「ええ、まあ。なんで、ちょっとこれからの予定を相談させてもらおうかと思って」

「そういうこと。そしたら社長には話しとくんで、また明日来てもらえますか。明日はずっとここにおると思うんで」

「わかりました」

 幸彦はため息を噛み殺した。結局、今日ここに来たのは無駄足でしかなかった。圭太は父親の忠実な伝書鳩でしかない。専務といいつつ、任されているのは事務や会計の処理ばかりで、経営の決定権はないに等しい。やっていることは事務員と変わらない。〈ボン圭〉というあだ名には、ボンボンと凡庸の両方の意味がこめられている。

「ほんなら、また明日」

 事務所を出て生垣を巡れば、西尾邸の威容は嫌でも視界に飛びこんでくる。白壁に黒瓦が映え、天守閣のような風貌だった。西尾家はもともと豪農だったらしいが、地域一帯の広大な畑を手に入れ、この豪邸を一代で建てたのは西尾の手腕によるものだ。ブームが到来する前から有機栽培に目をつけ、ネット通販をはじめたのは先見の明と言うほかない。邸宅を目にするたび、幸彦は西尾と己の間に横たわる深い溝の存在を見せつけられるようだった。

 幸彦の乗るハリアーは坂道を下り、家路についた。

 帰宅すると、達男は居間で寝転んでゴルフ中継を見ていた。テーブルの灰皿には短くなった吸殻が幾本か転がっている。達男は幸彦の顔を一瞥すると、ねぎらうでもなくまたテレビに視線を戻した。

「いいかげん草刈った方がええんちゃうか。今年もスカばっかりになるで」

 幸彦の胸のうちに、息が詰まるような怒りがこみあげた。どうかすると、油断しきった達男の頭をガラスの灰皿で殴りつけそうだった。ゆっくりと腹の底から息を吐き、幸彦は衝動をおさえつけた。

「父ちゃんがやってもええんやで」

「できたらやっとる。自分の畑や、自分で管理したいわ」

 達男がヘルニアを発症し、畑から離れて二年が経つ。これからも畑仕事をすることはないだろう。それにも関わらず、畑の所有者だという意識だけは年々強くなっている。

 指示されるまでもなく、伸びすぎた草は刈るつもりだった。幸彦はひと息つく間もなく、長袖の作業着に着替えた。

 家の裏の器具庫にはコンテナが雑然と積み重ねられ、農薬や肥料のボトル、鎌、バケツ、ゴザ、台車などが無秩序に保管されていた。幸彦は防護メガネを拾い、入口の横に立て掛けられた刈払機を取って、畑に出た。

 傾きはじめた日の中で刈払機の電源を入れた。高速で回転する丸ノコが雑草を切り払い、細かい草片が顔や腹や腕に容赦なく飛び散る。直接皮膚に当たると、虫に噛まれたような痛みが走る。緑色の湿った破片が防護メガネに付着し、たびたび手を止めて手ぬぐいで拭きとらなければならなかった。

 橙色に変わりつつある日の中で、幸彦は作業に没頭していた。草刈りは嫌いではない。やればやるだけ、成果は目に見える形で現れる。

 ただ、雑草の生育の早さには辟易している。数日かけて畑の端まで刈り終える頃には、もう最初に刈った雑草が一人前の長さまで伸びている。特に夏場の雑草の成長はあまりに旺盛だった。除草剤を使えば、負担を軽くできることはわかっている。慣行農法に切り替えさえすれば、はるかに手間を減らすことができる。しかし幸彦にとって、それは現実味のない夢想だった。

 家に近い区画を片づけると、すでに日は橙を通り過ぎて紫に変わっていた。幸彦は刈払機の電源を切り、防護メガネと一緒に器具庫に納めた。達男の目につく場所さえ刈っておけば、当面は小言を言われないだろう。

 ふたたび汗にまみれた身体を洗い流そうと浴室に向かうと、居間では達男が数時間前と同じ体勢のままテレビを眺めていた。変わっているのは画面に映し出される番組と、吸殻の数だけだった。

「晩飯、なんや」

 白髪に覆われた頭を蹴り飛ばしたくなる衝動を抑え、幸彦はシャワーを浴びた。ぬるい湯が滴となって背中や腹から落ちていくさまを、見るともなく見ていた。

 何気なく携帯電話を確認すると、珍しく着信があった。西尾のような地元の人間なら、固定電話の番号にかけてくる。履歴に表示された番号は兄のものだった。用件は姪に関することだと見当がついた。

 かけ直すと、和彦はすぐさま電話口に出た。「幸彦か。今、大丈夫か」

「どないしたん」

 和彦とは昨夜も話している。登世子が倒れ、入院したことを告げると、兄は落ち着いた声音で「そうか」とだけ言った。実の息子とは思えない冷淡さに、改めて嫌気がさした。

「葵の荷物やねんけど、今日送ったから。あさっての午後に届くわ」

「荷物?」

「そらそうやろ。あれでも一応、年頃の女の子なんやから、身一つでってわけにはいかんろ。着替えとか野球道具とか、いろいろ入ったあるから。開封せずに葵の部屋に入れといてくれたらええわ」

「こっちで野球やるつもりなんか」

 弟の質問に、和彦は我関せずという口調で答えた。

「さあな。本人はその気ないと思うけど。佐織が入れたんかな」

 都会育ちの兄嫁の名前を聞いて、思わず幸彦は嘆息した。「そうですか」

「しかしタイミングよかったな。母ちゃんが倒れたんと同時に葵が来るんやから、人手はプラスマイナスゼロや」

 何が面白いのか、和彦は電話口で引きつるように笑った。

「幸彦、タチウオあったやろ。タチウオにしてくれ」

 居間から聞こえてきた父の声に、幸彦は怒鳴りかえした。「黙って待っとき」

「なんや、誰と話しとるんや」

「父ちゃん、吠えとるな。そろそろ切るわ。また土曜に」

 和彦はあっさりと通話を切った。幸彦はビジートーンが流れる携帯電話を握りしめ、つぶやいた。

「ボケが」

 言いながら、それが誰への悪態なのか、自分でもわからなかった。

 タチウオの身を包丁で切りながら、幸彦はさまざまな空想を巡らせた。親の面倒を見ながら、有機農法という檻の中でゆっくりと死んでいく自分の姿を想像した。その想像は、現実と見分けがつかないほど生々しかった。

 魚臭くなった手を石鹸で洗い、鼻先に近づけた。節くれだった指には、まだサンソー液の匂いが残っているような気がした。

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